♪踊れ、踊れ、盆踊り♪

月遅れのお盆には、あちらこちらで盆踊りの太鼓や音楽が聞こえてきます。
房総半島に引っ越したころ、どこからか盆踊りの音が聴こえてきて、
辿って行ったらすごく遠いとこで、歩いていった我が家では、
帰りが大変だったことを思い出します。

東京にお住まいの方も、各地にお住まいの方も、
盆踊りは懐かしい夏休みの思い出でしょう。


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盆踊りというものの起源は古いです。
しかも純粋に日本発祥の物のようです。
平安時代に空也上人が、民衆に念仏を広めようと、
自ら瓢箪をたたいて、
念仏を今の歌のようにメロディーに乗せて歌うがごとくに唱え、
踊りも付け、
「踊念仏」というものに仕立てたのだとか。

さらに時代が下って鎌倉時代には、
一遍上人を中心とする「踊る」僧、尼僧たちは、
いわばトランス状態にもなり、まさに「踊る宗教」!
これは「念仏踊り」といわれましたが、
またたく間に全国に広がって、
一大ブームを巻き起こしました。
踊り&唱えることによって、救済されるとなれば、
民心は激しく共鳴しないはずがありません。

どうやらこれが、盆踊りの起源のようです。


やがてこれが盂蘭盆会の行事と結びつき、
死者の魂の帰ってくる盆中に、
死者の姿を映して頬被りをして踊る、
という風習が残っている地域もあります。

今も秋田県の西馬音内(にしもない)では、
踊り手の中には黒頭巾をかぶって踊る姿があり、
折り笠を深くかぶった女性の踊り手と相まって、
それはそれは優雅で風雅な盆踊りです。


さて、江戸時代の盆踊り浮世絵。

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「うちわ絵」らしいのですが、なんと楽しそうな盆踊り。
西瓜を両手に、食べ終わった西瓜の皮をかぶった人。
閼伽桶(あかおけ/墓参りの水桶)をかぶった稚児さん。
坊さんみたいな人は蓮の葉っぱをかぶり、
隣のおいちゃんは器用に頭に盆灯籠を載せてます。




室町時代には、太鼓をたたいて踊るようになりますが、
江戸時代に入ると、民衆の経済力や独自性が強くなったことや、
次第に宗教性よりも娯楽性が強くなったことなどから、
音楽や衣装も凝ったもの、斬新なものが人気を呼び、
それが各地で独自に発展していきました。


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また、もともと日本的信仰のおおもとでもあった性の解放的な雰囲気と結びつき、
男女の出会いの空間ともなります。
上のような「源氏絵」にも描かれたのを見ると、
実におおらかな、なんと楽しい空間だったことでしょう。







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# by edo-ukiyo-doll | 2016-08-15 16:49 | 江戸歳時記 | Comments(0)

隅田川の屋形船 part2

隅田川の花火大会、絶好の花火日和で、
素晴らしかったですね。
ジェリーフィッシュというのが、今年の流行でしょうか。
広重さんにも、ちょいとご覧いただきたかった。


屋形船の続きです。

屋形船には台所がついているので、食材を積み込んで調理をして提供できます。
「吸ひ物を出すで屋根船そのけぶさ」
現代の屋形船でも中には、調理設備のある船もありますが、
江戸時代には裸火ですから、風向きによっては煙いのでしょう。
後には別料金で、調理専門の小舟を雇うこともできたようです。
これなら風向きに合わせて煙い思いをしないですみますね。

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わざわざ調理しなくても、
隅田川の夏のシーズンには、うろうろ舟という小舟がいます。
これは西瓜や梨など水菓子(果物)をはじめ、
餅やまんじゅう、その他の菓子、またちょっとした料理したものを積んで、
船々の間を塗って売りに来るもので、
大坂なら「くらわんか舟」と呼ばれるのと同じ。

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赤い置き行燈をつけた「うろうろ舟」。



「吉野から猿に西瓜を投げてやり」
という川柳は、屋形船の「吉野丸」の近くを、猿回しの舟が通ったのでしょう。
その猿に西瓜を投げてやったというわけ。

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                    右の浮世絵、
                「吉丸」と書かれた看板が見えます。





屋形船の内部を見ますと、これは何? と思うようなものもあります。

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これも「川一丸」ですが、舳先にこんなものが載っています。

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これは「台の物」と呼ばれる
大きなな塗り台に載せた料理です。
吉原の宴席によくみられる装飾的なもので、
もとは皆でつまんで食べるように
盛ったものでしたが、
時代が進むにつれて、
このように立花も添えて
さらに装飾的になったようです。
涼み船での宴会でもやはり、
台の物は宴席の象徴なのでしょう。


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これは別の船の「台の物」。
時代が少し後なので、
盛り方もちょっと違っています。


そして船の中では、太鼓や鼓、三味線など携えて、舞踊の用意もしているようです。
こうやって楽しんでいたのですね。
宴会に音楽、暗くなれば花火が上がって、
なるほど、現代の屋形船はカラオケになりますが、
この江戸の形態をそのまま受け継いでいるのですね。

花火を見上げながら川風に吹かれ、歌に踊りに、
大宴会を催す大型の「楼船(やかたぶね)」は文化文政期には20艘ほどあったそうです。


現代の私はといえば、テレビで隅田川花火大会を見ながら、
川面を埋め尽くすほどの舟、船……、どんなに賑やかだったことかと、
江戸に思いを馳せたのでした。









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# by edo-ukiyo-doll | 2016-08-01 10:24 | 江戸歳時記 | Comments(0)

隅田川の屋形船 part1

明日は隅田川の花火大会。
毎年、テレビで中継されるので、もっぱら家でいながらにして花火を楽しんでいます。

この隅田川の花火大会は、戦争や隅田川の汚染など中断されましたが、
江戸時代、8代将軍吉宗の時から連綿と続くものです。
2009年7月に、このブログでご紹介しているので、のぞいていただければ幸いです。
http://edococo.exblog.jp/11550670
旧暦だった江戸時代には、
5月28日(今年なら7月2日にあたる)に「川開き」といって、
隅田川で花火を打ち上げたり、
両国橋のたもとの様々なお楽しみ所も、夜遅くまで営業できるシーズン。

川開きからは、夜ごと花火が打ち上げられ、
両国橋の畔はさまざまな小屋掛けの興行や飲食店などが深夜まで営業し、
隅田川には大小の「涼み船」がひしめきあって、凄まじいほどの賑わいです。

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小型の舟でも屋根の付いているのもあって、「屋根舟」とか「日除け舟」と呼ばれ、
一番多く使われます。
屋根に人が乗った大きな船は「屋形船」。

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屋根の上に人が乗っているのが見えますね?
この人々は操船の人たちで、大型の船では屋根の上から長い竿をさして、
船を動かしているのがわかります。
そこでこんな一句もあります。
「船頭の足音を聞くいい涼み」


この屋形船というのは「楼船」とも書きますが、
7~8間(12~15メートルくらい)の大きさが多く、
最大では11間(約20メートル)の物があったといわれています。
現代の隅田川の屋形船はだいだい16メートルくらいなので、大きさは想像できますね。


江戸時代に入ってすぐの頃には、まだ「ひらだ舟」と呼ばれる小さな平底舟を、
浅草川に浮かべて涼んでいたようですが、
これがたいそう大名たちの心を惹いたようです。
大名ともなると大勢の供の者がいますので、
どんどん大型化していきます。

ところが明暦の大火(1657年)で、江戸の町の半分も焼き尽くされ、
再建のために大型の船は運搬用に使われ、
しばらくは遊船も影を潜めていました。
それが、何年か経ち江戸の町も復興されると、
大名たちはまたぞろ大型船を復活させ、
それまでよりもぐんと大型になっていき、
ついには大きさに規制が出されました。



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鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)描くところの屋形船「兵庫丸」。



船には名前が付けられ、浮世絵にもたくさん描かれています。
「川一丸」「吉野丸」などが有名ですが、
「熊一丸」や「山一丸」などもあり、
座敷が9間(約16メートル)あり台所が1間(1,8メートル)あるので、
「九間一」……「くまいち」丸。
じゃあ「山一丸」は? 
座敷が8間、台所1間で「八間一」……「やまいち」丸!
こんなとこにも江戸っ子のダジャレ心が効いているんですね。



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広重の描いた「川一丸」











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# by edo-ukiyo-doll | 2016-07-29 14:16 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏ごはんは「夕鯵」

鯵は年間を通して出回る魚ですが、
夏に一番おいしいのだと、
漁師さんや魚市場の人たち、釣り人たちもよく言います。
漁村育ちの私も、やっぱりそう思います。

そして江戸でももちろん、夏を中心によく獲れ、この時期の鯵は、
「六、七寸ばかりに過ぎずして円肥なるもの、味わい、はなはだ香美にして、
最も炙食によし、あるひは鮓となし、煮となし、膾となすも、また佳なり。」
と、元禄期の『本朝食鑑』という書物にも書かれています。
20㎝くらいの丸々したものは、すこぶるおいしく、
焼き魚にしたら最高だし、鮓にしても、煮ても、あるいは野菜と和えてもうまい、
というほどの意味。

江戸ではことに「夕鯵」と呼んで、
夏の晩ごはんには人気の一品になります。
日中に近海で漁をして、河岸からすぐに小売りの魚屋が担いできますから、
夕方には町々に「あじぃ、あじ」という呼び声で、
今夜は鯵の刺身で一杯! など思う人も多かったのでしょう。

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    広重画 海老と鯵


「鯵を呼べやいと盥(たらい)の中で言ひ」
だなんて、亭主が裏庭で行水していると、
塀の向こうから鯵売りの声が聞こえたのでしょう、
「鯵、買えよ~」と盥の中から叫んでいます。

「水うったあとに涼しきあぢ(鯵)の声」
魚屋は日が傾きかけ、打ち水された路地にも入ってくるのでしょう。
扇風機だってない江戸の人々にとって、
打ち水の上をふいてくる心地よい風、行水でさっぱりして、
さて、夕鯵の晩餉(晩飯)はこれぞ夏! 

ピン! と反り返った新鮮な夕鯵のうまさは、庶民だけの物ではありませんで、
「物見から鯵よ廻れの品のよさ」
武家屋敷の物見やぐらからでしょうか、下を通る魚屋に声がかかります。
「廻れ」というのは勝手口、台所に廻れということ。
お武家ですからその呼び止める口調にも品の良さがあるのですね。
ドラマのワンシーンみたいです。

さて、今夜は房州沖の鯵を買いましょうか。
たたきや刺身もいいのですが、子どもの頃に良く作ってもらった「鯵のあんかけ」が懐かしい。
粉をまぶして油で焼いた鯵に、千切りの人参、玉ねぎ、ピーマン、筍など、
夏野菜をあん仕立てにして、お酢もきかせ、
焼いた鯵にたっぷりとかけていただきます。

では、みなさまも今夜は「夕鯵」、たんと召し上げれ。









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# by edo-ukiyo-doll | 2016-07-16 07:09 | 江戸歳時記 | Comments(0)

長屋の初鰹

食えば七十五日長生きできると、
江戸っ子は初物に情熱を傾けますが、
さて、初物の代表格の「鰹」。
文化文政(1804~1830年)の頃には「5両してもかまわない」とまで言われ、
(このころの1両は今なら10万円くらいなので、1尾50万円でも欲しい!?)
あまりのフィーバーぶりに、幕府から禁令が出て、いっとき止んでも、
将軍よりも誰よりも早く鰹を口にする意気込みはすさまじい。


江戸時代には、そんな初鰹狂乱期が
3度ほどありましたが、
金持ちのみならず、
鰹の出初めには「女房を質に入れても」などと、
長屋住まいのような男どもさえ、
目の色を変えます。



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その熱狂ぶりはどれほどかと言いますと。
「初鰹妻に聞かせる値ではなし」
とてもじゃないけれど、女房の耳に入ったら恐ろしいことになる値段ですし、
詰め寄られてその値を洩らそうものなら、
「初鰹女房に小一年言われ」
と当時の川柳にありますが、そんなこと当たり前。
「その値では袷があたらしく出来る」
というほどなんですから。
でも亭主がバカバカしいこの「初鰹」に支払ったお金があれば……、
と思うほどに腹が立って、腹が立って仕方ない女房です。
「意地づくで女房鰹をなめもせず」
と絶対に食べない。食べるどころか舐めもしない。
そんな女房はまだやさしいもので、
「女房の我意をあらはす煮た鰹」
あ“~~~~~、刺身でなければ意味のない初鰹を、
煮てしまったのは女房の断固たる意思表示です。

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  一般に青魚は足が早く、
  特に鰹は「鰹の生き腐れ」といって、
  鮮度の落ちるのが早い。
  冷蔵手段などない時代、
  時間が立てば手の届く値段になり、
  昼頃には朝値の半額くらいだったようで、
  長屋の男どもにも財布の負担は軽くなります。



ところが青魚は当たると怖い。
嘔吐や頭痛などに苦しんで、医者にかかる羽目になります。
「恥ずかしや医者に鰹の値が知れる」
見栄を張って命を落とす気か! とこってり医者に叱られることに。
こんな風に鰹に当たって具合悪くなるのを「鰹酔い」というそうで、
特に頭痛がひどくなるらしいです。
「鉢巻きにあやまつて居る鰹売」
というのは鰹酔いで頭痛になって鉢巻きしてるわけ。
また、薬といっても桜の皮を舐める程度しかないらしく、
「あす来たらぶてと桜の皮をなめ」
ってなもんで、長屋の男ども、亭主族は、鰹売りを手ぐすね引いて待ってます。


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『江戸浮世人形』より「初がつお」と鰹をさばく様子












桜の皮は本来は「桜皮(おうひ)」という漢方薬。
桜の皮の外側の固い部分を除去した内側の部分で、
「フラボノイド・サクラニン」という成分が含まれていて、
解毒、鎮咳、じんましん、食中毒での頭痛などに効果があるようです。
桜皮は本来は煎じて飲むのでしょうが、もしかして上の川柳は、
床の中でぷりぷり怒りながら、
「いてて…」とうめきつつ、桜の皮をベロベロ舐めてる、
男の姿を思い浮かべて、吹き出しそうになります。


鰹やサバなどの青魚はたとえ現代でも、冷蔵庫の過信は禁物。
桜の皮舐めても、難しいかもemoticon-0105-wink.gif
お医者さんへ駆けつけましょう。











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# by edo-ukiyo-doll | 2016-06-01 13:47 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

いずれあやめかかきつばた

どれもが美しく、甲乙つけがたい、という時に
「いずれあやめかかきつばた」
なんて言います。
「いずれがあやめかきつばた」
という場合もありますが、少し意味が違ってくるようです。

このあやめとかきつばた、違いがなかなか判りませんね。
あやめは乾いたところに育ち、花の芯の方が白くさらに黄色が入って、
その部分に濃い紫色の網目のような筋が入っています。

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これは我が家の庭のあやめ。


一方かきつばたは水辺や湿地帯に育ち、花の芯のところは白いだけで筋は入りません。


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有名な尾形光琳の「燕子花図屏風」。花の芯は確認されませんが、燕子花はかきつばたと読ませています



「菖蒲」と書けば「しょうぶ」ですが、「あやめ」とも読みます。
端午の節句にお風呂に入れる「しょうぶ」と「あやめ」は、
葉の形がそっくりですが全くの別物。
かきつばたは「杜若」や「燕子花」と書きますが、これらは漢名からとったもの。
しかし両方ともかきつばたとは異なった植物なので、誤ってネーミングしたのが現代でも使われているのでしょう。


さて、江戸時代には園芸が一気に花開き、それがあらゆる分野に広まって、
豊かな文化を作ることにもなりました。
あやめやかきつばたもまた、着物の文様にたくさん使われました。

江戸時代にはすでに植物としての「あやめ」と「かきつばた」の違いは
わかっていたのですが、
一般的にはその呼び名はあいまいだったようです。
ただ、水とともに描かれればそれは「かきつばた」です。

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上の二つは水辺に咲いているので、かきつばたですね。



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これはあやめなのか、かきつばたなのかわかりませんが、
「あやめ立涌(たてわく)」または「かきつばた立涌」という図柄。


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ぼかし染めに麻の葉文様、そこにあやめ(またはかきつばた)を散らした振袖。





下の画は背景に「菖蒲」と書かれていますが、
「あやめ」と読ませるのでしょう。
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江戸時代の役者(歌舞伎の役者)に、
芳澤あやめというとても人気のあった上方の女形がいましたし、
「杜若(とじゃく)」という俳号を持っていたのは、
岩井半四郎で、特に五代目は「杜若半四郎」とまで呼ばれ、
その人気ぶりは多くの浮世絵に描かれています。










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# by edo-ukiyo-doll | 2016-05-11 17:15 | 江戸の文様・江戸の色 | Comments(0)

銀座で江戸をしのぶ partⅢ

金春通りの金春湯を少し行き、通りをひとつ越えた右手、
「やす幸」というおでん屋の路地の入口に、
「豊岩稲荷神社」と赤文字で書かれた石柱があります。

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 かつてはたくさんの不思議な
 空間・銀座の路地が
 あったのですが、
 なんだか少なくなってしまった
 ような気します。
 そんな路地の1本がここで、
 どんどん入っていくと、
 お狐さまがちょこんと
 鎮座ましまして、
 ここが豊岩稲荷。


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古地図には見えませんが、
なんでもここは明智光秀の家臣で、安田作兵衛という人が、
主家の再興を願って祀ったといわれる歴史を持つ稲荷らしい。
以前は近所の水商売の方々が、
仕事場に入る前にちょいとお参りしていたのだけれど、
パワースポット・ブームの今は、
お嬢さんたちの参詣者が、びっくりするくらい多くいました。
縁結びと火伏のお稲荷さんだとかで、
お嬢さんたち人気には、そんなわけもあるようです。


さらに金春通りを京橋方面に進むと、
「みゆき通り」に出会います。



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この通りに差し掛かったら、
街灯を見上げてください。
なんかいます。
なにかといえば「鳳凰(鳳凰)」が
止まっているのがわかります。
「ほお~」とか江戸っ子みたいな
地口は言わないように!



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御城に将軍がいた時代には、
将軍たちは数寄屋御門を出、
この通りを通って、
御浜御殿(今の浜離宮庭園)の
狩りに出向かれたし、
天皇家に取って代わられてからは、
明治天皇はこの通りを通って、
海軍の学校に行幸されたので
「みゆき通り」……
(「行幸」は「みゆき」ともいう)
と呼ばれるようになったのだとか。




さて、みゆき通りから、一気に数寄屋橋に向かいます。
有楽町はあっち。
江戸時代には、マリオンが立っている前あたり、
昭和33年に埋め立てられてなくなってしまった外堀に、
「数寄屋橋御門」が架かっていました。

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今は埋め立てた外堀の上に高速道路が通り、
ここにかつて上の浮世絵にあるような
立派な御門があり、
将軍や大名、さらには天皇家の通り道だったなど、
誰が想像できるでしょう。




数寄屋橋の高架の下に立ち、マリオンを眺めながら、
江戸のこの地を想像しようとしましたが、
私には念力が足りなかっみたいです。
浮世絵をかざし見ても、全く想像がつかないのです。


気を取り直して、銀座の方に戻ります。
江戸時代の京橋と新橋を結ぶ通りは、現在の中央通りで、
江戸時代同様にこのエリアのメインストリートでした。

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京橋側は銀座のあった新両替町でしたが、
新橋側は尾張町という大店の並ぶ繁華街でした。
おなじみ『江戸名所図会』には、
尾張町の「布袋屋」、「亀屋」、「恵比須屋」が描かれています。

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「布袋屋」


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     「亀屋」

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    「恵比須屋」


日本橋に次ぐ商人の街尾張町ですが、
明治維新後の2度の大火、特に明治5年の大火で、
新両替町ともども完全に焼失してしまい、
その後この老舗のほとんどは、
モダンな煉瓦街に戻ってくることはなかったそうです。

理由はさまざま言われていますが、
建物の価格があまりにも高価だったためとか、
あるいはまるで工場のような作りで、
店舗としてなじめなかったためとか……。


しかし、これまでに見たことのない新しい未知の街は、
山の手に住む華族や財閥、さらには中産階級の人々に大人気で、
やがて「尾張町」の名を思い出すこともなくなり、
「銀座」という新しい名前が急速に広まっていったのでした。



                               <おしまい>













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# by edo-ukiyo-doll | 2016-03-29 22:44 | 江戸の町 | Comments(0)

江戸めぐり 「銀座で江戸をしのぶ」partⅡ

「江戸歌舞伎発祥の地」の京橋の碑から少し東に行ったところに、
江戸のころには「三つ橋」と呼ばれるところがありました。
『江戸名所図会』に掲載されている「三ツ橋」の図です。

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実に奇妙な画に見えますが、
堀割なので実際の流れは描かれているほどには速さはなく、
川の流れがぶつかり合って大変なことに……というものではなかったと思われます。


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全体で見ると現在の銀座のエリアは掘割に囲まれています。
そして「三つ橋」というのは青丸で囲った部分、
楓川にかかる「弾正橋」、
京橋川にかかる「白魚橋」、
三十間堀川の端にかかるのが「真福寺橋」の3本の橋からなった場所。


白魚橋はもっと古い時代の地図には、
「牛の草橋」という名前で掲載されています。
牛の草橋の由来はわかりませんが、その後の白魚橋というのは、
京橋川を渡ったところに「白魚屋敷」があったからです。

白魚といえば佃島の漁師を思い出しますが、
この白魚屋敷はまた別の白魚の漁師の話です。
家康が入府したのち、葛西方面に出かけた際、
漁の様子を見せて肴御用を承り、
以降、白魚を献上したのだとか。
そしてこの地に屋敷を拝領し、
白魚屋敷と呼ばれるようになりました。


古地図には「三ツ橋」のそばに「水谷町」というのがあり、
江戸時代にはなかったのですが、
水谷橋という橋もあったのでしょう。
その名残らしい水谷橋公園を目指していると、
気がついたら大勢の警察官に取り囲まれてる。
う! ばれたか! ヤバイ! というのはウソですが、
江戸巡り隊2名は、ついに呼び止められました。
「デモに参加するんですか?」と若いお巡りさんに訊かれ、
「デモ?」なんのこっちゃい?と思ったら、
水谷橋公園でこれから何かのデモがあるのだそうです。
残念ですが、あきらめました。
水谷公園はデモの集合知として有名なのだとか。
普段はなぜか立派なトイレの建つ、緑もけっこう多い、
都会のオアシス的な場所。


デモを避けて南に方向転換すると、晴海通りとの交差するところに、
以前はシネパトスという映画館があったのですが、
取り壊されたのか工事のパネルに覆われていました。

古地図にある三十間堀川は、
この半円形に向き合った下を流れていたわけで、
三原橋はその上にかかっていました。
幅の広い晴海通りのこっちと向こうに向き合って半月型の洒落た一角でしたが、
昭和の名残も消えていきます。

三原橋跡をさらに南下すると、
ここには森田座と山村座があったはず。
ビルの駐車場やら小路やら散々探しましたが、
ここに芝居小屋があったなどという説明版も手掛かりとなるものもなく、
あきらめて次に進みました。


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突き当りは銀座御門通り。
宝永7年(1710年)、
朝鮮使節団を迎えるにあたり、
新井白石の提唱により、
日本のというか徳川将軍の威光を顕示するために、
たいそう立派な城門を新たに作り、
「芝口御門」と名付けました。
その城門はたった15年で焼失してしまいましたが、
現在の銀座博品館や天ぷらの天國のあたりになります。


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近くには芝口御門の姿を刻んだ石碑があります。








芝口御門はなくなりましたが、
端は名前を新橋(あたらしばし)に戻し、
昭和39年に汐留川が埋め立てられるまで、かかっていたようです。

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関東大震災後に架橋された新橋の親柱が、
高速道路の下近くに残されています。




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現在は中国観光客の人々の、
バス乗り場として大変な賑やかさの新橋跡。






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御門通りから博品館の裏手に曲がると、そこが金春通りです。
銭湯好きにはたまらない「金春湯」があるのはこの通り。
若かりし頃私は銀座のクラブ(ホステスのいる超高級飲み屋)の雑誌を作っていて、
我らがオンボロ編集部はこの近くにありました。
いつも親切に対応してくださった高級クラブのお兄さんたちは、
開店前に金春湯でひげも当たり、
身ぎれいになってお仕事に臨むと知って、
私も仕事帰りに金春湯で疲れをいやし帰途に就くことしばしばでした。
懐かしい場所です。




「金春」……「こんぱる」と読みます。
この通りの新橋に近い場所に、
能の金春流の広大な「金春屋敷」があったのでこう呼ばれています。

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         大火により焼失した銀座の煉瓦外ですが、
         金春屋敷の敷地からその一部が発掘され、
         記念碑として金春通りに置かれています。


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金春の名を負ったビルもあり。
赤いキャノピーはお笑いの小劇場?



寛永年間にこの地をすでに拝領していた金春屋敷は、
江戸時代中期後半に、ここから現在の麹町に移転しましたが、
金春屋敷の名前だけは幕末の地図にも残っています。
同じ通りに観世太夫ともあります。

家康はことのほか能を好み、
これを幕府の式楽(行事の時に使う音楽)として、
篤く保護し能楽の四家能楽師に屋敷を与えたのでした。
観世太夫の名残はみつかりませんが、
金春は通りに名を残し、
この地で発生した金春芸者が、
明治になると一躍有名になりました。
そして、隣接する新橋と合わせ、
やがて花柳界に君臨する一大花街(かがい)となったことが、
のちの銀座の高級クラブ街へと発展していきます。



さてと、まだ銀座めぐりの話は後日に続きます。












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# by edo-ukiyo-doll | 2016-03-02 14:30 | 江戸の町 | Comments(0)

江戸めぐり 「銀座で江戸をしのぶ」

「銀座」という地名、GINZAと表記すればさらにオシャレな感じが漂います。
戦後は「銀ブラ」という言葉も生まれ、
銀座をぶらつくことがモダンな「粋」でもありました。
この地名はいったいどこから来たの? と思う方もいるでしょう。
「銀座」があるからには「金座」もあったはず。
その通りです。

簡単にいうと金貨を造るのが「金座」で、銀貨を造るのが「銀座」。
金座は日本橋にあって、現在は日本銀行になっています。
銀座は……といいますと、幕末の古地図には「銀座町トモ云ウ」と記されていますが、
「新両替町」というのが正式な町名で、
現在の中央通り、京橋に近い銀座1~4丁目にあたります。

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でも現在の銀座には江戸の名残はほとんどありません。
というのも、この一帯は、明治維新後に、
2度の大火がありましたが、明治5年の大火で4千戸もが焼失し、
この一帯は壊滅したといわれるほど、
焼き尽くされてしまったからです。
そのあとに作られたのが、西洋文化満載の煉瓦の街・銀座なのです。
江戸そのものは残ってはいませんが、
道路は割とそのままの構図が残り、『江戸名所図会』や浮世絵などから、
江戸時代のこのエリアを想像することができます。


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  これは幕末の地図で、
  左方向が御城になります。
  このエリアは四方を
  掘割に囲まれていたことがわかります。
  そして現在では御城に近い掘割の上に、
  高速道路ができているので、
  高速道路を辿れば、
  かつての掘割の形がわかります。

  現在の銀座は、江戸時代には
  「京橋南」と呼ばれるエリアで、
  「銀座」があったばかりではなく、
  尾張町という大店が並ぶ街や、
  能役者たちの屋敷、
  そして「紺屋町」「弓町」「鍋町」
  といった職人たちが
  入り混じっていたエリアでした。
  そしてさらには三十間堀川の向こう、
  木挽町は芝居の街でもありました。





家康が駿府から移した「銀座役所」があったところには、
「銀座発祥の地」の碑が立っています。



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碑はティファニーの店の前にあります。
その隣には「常是役所(じょうぜやくしょ)」といった、
銀貨に刻印を刻む役所があったそうです。



f0186852_17302642.jpg中央通りをそのまま北に進むと京橋ですが、
高架の下に銀座のガス灯が再現されています。
明治5年の大火は
このエリアの4千戸を焼き尽くしてしまったので、
当時の東京府知事は、
これからの東京の、
いや日本の新しい文化の中心にしようと考えました。
イギリス人のトーマス・ウォートルスの設計で、
ジョージアン・スタイルの煉瓦のモダンな街を
作り上げたのでした。
煉瓦の街銀座の象徴とされる
ガス灯のレプリカがここに立っています。



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さらに高架の下をくぐって進むと、
警察博物館の前に、
「京橋」と彫られた
大きな石の橋の親柱が立っています。
江戸時代には木製の橋でしたが、
明治になって石橋に替りましたが、
その石橋がここに記念として
残されています。







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中央通りを反対側に渡って、警察博物館との対面ほどの位置に、
「江戸歌舞伎発祥の地」の碑があります。
ここは江戸時代には中橋南地となりますが、
猿若勘三郎という役者が、
寛永元年(1624年)にこの地で、
江戸で初めて「猿若座」として歌舞伎の櫓をあげたもので、
これが中村座の始まりです。



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有名な「阿国歌舞伎図」で、阿国の後ろで踊っているのが、
猿若勘三郎(中村勘三郎)といわれているようですが、
阿国が京の四条河原で歌舞伎踊りを舞ったのが慶長8年(1603年)。
その11年後寛永元年(1624年)勘三郎はこの地にやってきて、
まだ町づくりの盛んな江戸の中心地に櫓を上げたのでした。


この記念碑の前に立っていると、
ここにあったのは、どんな小屋で、
そこではどんな演舞がおこなわれ、
観客たちはどんな風に楽しんだのか?
コンクリートに囲まれ、頭の上も車がひっきりなしに走る銀座の端で、
思いは一瞬、始まったばかりの頃の「江戸」に飛んでいるのでした。



さて、今回はここでおしまい。
続きをお楽しみに!









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# by edo-ukiyo-doll | 2016-01-26 17:35 | 江戸の町 | Comments(0)

「もちつき」

江戸の町では師走の十三日ころからは大掃除にかかり、
年神様をお迎えする正月のしたくに入ります。
大店ではこの頃にはすでにもちをつくところもありますが、
一般的には二十六日頃がもちつきの最盛期で、
町中から杵の音が聴こえてきます。



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鳶や人足などが四,五人一組となって、
かまど、せいろ、うすに杵、薪も持参してのもちつき。
注文した家では門口で、杵の音高らかにもちをつかせるのは、
ちょっと自慢です。
こうやってついたもちは親戚や地主、家主などに、
干魚や塩魚などを添えて配ります。
ここでも見られるの大量のもちは、そのためのものなのです。


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この作品は、豊国描くところの『甲子春黄金若餅』
と、なんともめでたい題がついています。
六枚組みの浮世絵ですが、登場人物は当時の人気役者たち。
それぞれに役者の名が書かれ、似顔絵になっているのですから、
めでたさとともに、この浮世絵もずいぶん売れたことが想像できますね。




<制作こぼれ話>

この作品は、2009年11月に開催した個展「お江戸食べ物語」に出展したものです。
知り合いの出版社の方からのご紹介で、
江戸料理研究の大御所、松下幸子先生にもご来場いただき、
その後松下先生は、歌舞伎座のブログで、本作品をご紹介くださいました。
これがご縁で、何かにつけ、松下先生にご親切にしていただくこととなった、
思い出の作品です。


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それはさておき、鳶の男衆がもろ肌脱ぎなので、
筋肉の付き方を、またもや独学で必死に学ばねばならず、
?????だらけの制作でした。

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江戸時代の江戸の餅つきの道具が、
豊国の画だけからでは
わからない部分もあり、
かなりの研究と推理が必要でした。



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江戸時代に描かれた画から
立体に作る場合、
どこを調べても
資料が見つからないことは
結構ありますが、
そんな時には
これまで培った頭の中の
知識を総動員。
いわばシャーロック・ホームズ
が言うところの
「消去法」なども駆使して、
最も適切な状態の物を
作り上げることになります。



それもまた楽しいことでもあります。
















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# by edo-ukiyo-doll | 2015-12-12 11:13 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)