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梅若忌は過ぎたけど。

能などお好きな方は「隅田川」は、とってもポピュラーな演目なので、
お話もすっかりご存知でしょう。
4月15日は「梅若忌」でした。
旧暦の3月15日が本来の「梅若忌」ですが、
新暦で日にちを固定するために、
ひと月おくれの、4月15日と定めたようです。
今も、東京は墨田区の隅田川の近くにある
「木母寺」で、梅若忌がいとなまれていますが、
江戸の頃の木母寺界隈に想いをはせながら、
梅若丸のお話を・・・・。



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「江戸名所図会」に描かれる木母寺界隈



上を拡大しています
木母寺の手前に「梅若塚」






そもそも「梅若」とは何者なのか?

平安の中頃、京都の北白川の吉田少将惟房(これふさ)という人と、
美濃国野上の長者の一人娘の花御前がという夫婦の間に、
やっと授かった男の子が、梅若丸でした。
しかし梅若丸が5歳の時父惟房が他界し、
2年後に梅若丸は比叡山の月林寺へ預けられました。

たいそう賢く、良い子でしたが、
東門院の子の若松と競わされ、優秀さをねたんだ若松側の法師が、
あろうことか梅若丸に襲い掛かろうと狙ってきました。
身を隠して、北白川の実家に帰ろうとしましたが、
山中で道に迷い、大津浜へ出てしまいます。これが2月20日頃だったとか。
そこでであったのが、陸奥国の信夫藤太(しのぶのとうた)という人でした。
親切にしてくれましたが、
実はこの男は恐ろしい人買いでした。
梅若丸を連れ、東国へと向かいます。



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ところがまだ幼い子は、疲れと悲しみのあまり、
途中で病にかかってしまいます。
貞元元年(976年)の3月15日、
隅田川の河畔にて、あえなく12歳で命を落としてしまいます。

「尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」

これは梅若丸が残したといわれる歌です。


そこに通りがかったのは、
出羽国の天羽黒山の忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)という高僧でした。
忠円阿闍梨は梅若の死を知り、
村人と共に梅若丸の亡き骸を塚に埋葬し、
1本の柳を植えて、ねんごろに弔ってやりました。


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木母寺エリアにある
高級料亭「植木屋」

屋根舟で乗りつけ、
雪見の宴をするのでしょう






さてその1年後の命日に、村人たちが法要を行っていると、
そこに差し掛かったのは、
わが子梅若丸を探し、旅に出た母・花御前だったのです。
それがわが子の墓と知り、どれほど嘆き悲しんだことか・・・・・・。

花御前は、尼になり「妙亀尼(みょうきに)」と名前をもらい、
この塚を作ってくれた忠円阿闍梨と出会い、
ここに草堂を建て、梅若を弔うことにしました。
でも、かわいそうにも母はあまりの悲しみに心を病んでしまったらしく、
橋場の鏡ヶ池(なぜか対岸の池)に入水してしまいます。

その亡き骸を亀が背に乗せて浮かび上がり、
その後妙亀大明神と祀られ、
梅若は山王権現として生まれ変わったといわれています。


この梅若伝説は、やがて能や謡曲、歌舞伎や浄瑠璃、
はては絵草紙にまで「隅田川」として、長く語られることになります。


命日にはよく雨が降り、「梅若の涙雨」と言われるそうな。



    「雉子鳴くやかの梅若の涙雨」   小林一茶
















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by edo-ukiyo-doll | 2012-04-19 18:06 | 江戸歳時記 | Comments(0)