江戸の夜鷹そばvs風鈴そば

池波正太郎の『鬼平犯科帳』のテレビシリーズのエンディング・タイトルのところに、
屋体のそば屋が出てくるのをご記憶ですか?
雪の舞い散る夜のシーンで、屋体を囲んでそばをすする男たちがいますね。
あれが「風鈴そば」と呼ばれた担い売りのそば屋です。
本来なら、あの屋台には風鈴が付いているはずで、
長谷川平蔵が火付け盗賊改め方長官として活躍した時代には、
それまでの「夜鷹そば」と呼ばれていたのに代わって、
風鈴そばが登場してきたことになります。

明暦の大火、いわゆる振袖火事(1657年)で江戸市中の6割を焼いた火事の復興に、
江戸はすっかり「男たちの町」になってしまったので、
いきおい簡単に外で食べられるように、担い売りや、
屋台の食べ物屋が一気に増えたのです。
天秤棒の両端に荷やハコをつるして歩くので、「棒手振(ぼてふり)」とか、
「振売り」「担い売り」などと呼ばれました。

うどんの歴史はずいぶん古いのですが、
そば(当時はそば切りと呼ばれていました)が登場したのは戦国時代です。
その頃はまだそば粉だけで作っていたので、
切れやすく、そのため江戸では、せいろに入れて蒸していました。
いまも「せいろ」というのはその名残でしょうね。


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上の浮世絵は、歌川国貞の夜鷹そばを描いた作品。
春をひさぐ貧しい夜鷹は、雪にもかかわらず、はだしのものもおり、
そんな女たちにも、国貞の温かいまなざしが注がれている。


これにつなぎの小麦粉を入れるようになったのは、享保(1716~36年)の頃、
将軍吉宗の時代で、この頃から「二八そば」と呼ばれるようになってきます。
二八そばとはそば粉と小麦粉の割合比からきている、という説が有力ですが、
これはまだはっきりとはわかっていません。
ちなみに「二六そば」というのもあります。

このころ、夜に売り歩くそば屋を「夜鷹そば」と呼ぶようになっています。
これは夜の辻君=夜鷹が主に食べるからと言う説も残っています。
ただしこの夜鷹そばは、かけそばだけで、器もまだ不衛生だったらしいです。

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この絵は、歌川広重の『名所江戸百景』の一枚。中央に市松模様の風鈴そば、手前にはうどん屋の担いの屋台が見えている。


それが宝暦(1751~63年)の頃には、
「風鈴そば」と呼ばれる担いのそば屋が登場したわけです。
屋台に風鈴をつけ、器なども清潔で、かけそばだけでなく、
花巻とかしっぽくという種類も登場します。
花巻はのりを、しっぽぅはマツタケや椎茸、かまぼこ、野菜などが、具になっていたらしいです。
マツタケも現代とは大違いで、安かったのです。

「そばの荷へ かねとたいこを 置て食ひ」
いう川柳がありますが、当時は迷子を捜すのに、
かねや太鼓を鳴らして探し回ったもので、
駆けずり回ったすきっ腹に、そば売りと出会い、地べたにかねや太鼓をおいて、
ひたすらそばをかっ込んでいる風景をいったものです。






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by edo-ukiyo-doll | 2008-09-20 23:40 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

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