カテゴリ:江戸ぐらし( 15 )

江戸の涼しい水

月遅れのお盆になったのに、この暑さにはバテまくりです。
去年の夏の終わりころ、体調すぐれず近所の病院で診察を受けたところ、
「夏づかれです。単に疲れただけなので、出す薬はありません」
と言われ、翌日にはすっかり元気になったのを思い出しました。
医者の言葉は時に、薬になりますね。


さて、こんな暑さなので、涼しい水の画を取り上げましょう。
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これは「清水の立場」という湧水のあるところです。
甲州街道の府中宿と日野宿のあいだにあった休み処で、
現在の国立市谷保で、江戸時代にはこの一帯で、清水の湧出がたくさんあったといいます。
この画の店は酒屋でもあり、店前に湧き出す水は、
なんと涼しげでしょう。


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夏には、ところてんや素麺をこの清水にひたして、
お客さんに出すと書かれています。
夏の炎天下を歩いてきた旅人たちの臓腑に、冷たさがしみて、
また元気に歩きだせるのでしょう。






下は、「鍋谷の井」と呼ばれた湧水。

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現在の埼玉県川口市は、鋳物で有名ですが、
当時も鍋づくりが盛んでした。
この地も地下水脈が豊富で、湧水がたくさんあったといいます。
それにしても、この水の吹き上げる力はすごいですね。
水量が豊かなことがわかります。



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上の画は、北斎の『冨獄三十六景』のなかの「隠田の水車」。
水車が水を汲んでいるのを、ご覧になったことはありますか?
水しぶきがかかって、それはそれは涼しい。
水車小屋に、穀物を運ぶ男たち、
水車の流れで洗い物をする女たち、
子供はきっと下のほうで水遊びをしたのでしょう。


江戸も少し郊外では湧水が多く、
「冷水売り」たちも、ちゃんとした人は湧水を汲んでいました。

少しは涼しさを思い出していただけました?
あともう少しの辛抱で、この暑さも和らぐことでしょう。
心より、残暑お見舞い申し上げます。










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by edo-ukiyo-doll | 2015-08-13 16:45 | 江戸ぐらし | Comments(0)

夏が終わると井戸そうじ

旧暦7月7日は七夕ですが、この日はまた江戸では「井戸替え」といって、
井戸を清掃する日です。
今年でしたら、8月24日、
ちょうど明日が七夕で、かつ井戸替えの日です。


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上水道を使って給水される末端の水汲み場ですから、
いっせいに掃除しないと、
汚れた水が次の樋を伝わって給水されてしまいます。
長屋などでは、大家の指揮のもと住人総出で、
井戸の水をすっかりくみ出し、
一年間にたまったゴミや落し物を拾いあげます。
それが終わると、水神さま、井戸の神さまに、
お神酒とお清めの塩をお供えします。
また、地域によっては、七夕に素麺を食べますから、
「井戸替えの素麺」といって、
素麺をお供えするところもあるようです。



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川柳にこんなのがあります。
「ありがたさ たまさか井戸で 鮎を汲み」
井戸で鮎が泳いでる?
玉川とつながってはいるでしょうけれど、
ほんとに鮎が井戸に?? 
「井戸替えに 大家とみへて 高足下駄」
井戸を浚う住人はみな裸足でしょうけれど、
大家さんは口は出すけど手も脚も出さない
・・・・なるほど。
足がぬれるのさえ、イヤってことですね。
でも、大家さん(大家は家主ではなく、長屋の管理人的存在)は、
みなの衆、よくやりましたなと、酒など振舞います。

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この井戸替えは、井戸浚い(いどさらい)は、江戸だけでなく、
上方でもやはりこの日にやるらしく、商家などでは大賑わいの一日だったと聞きます。


こんなに暑くても、きょうは処暑。
立秋もだいぶ前に過ぎ、もう暑さも収まる・・・・・・という意味です。
お住まいのところでは、暑さは収まりつつありますでしょうか?
明日が本来の七夕。
晴れていれば、街の明かりがジャマをしなければ、
牽牛と織女の天の川での逢瀬が見られます。
無事に夏も越せたと、夏越の祓いも済み、
後の半分も息災でありますよう、
長屋の住民も、力を合わせて井戸浚いをするのでしょうね。

みなさまもどうか、ご息災で、とにもかくにもこのクソ暑さ、
乗り切ってくださいましね!
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by edo-ukiyo-doll | 2012-08-23 16:01 | 江戸ぐらし | Comments(0)

越後屋の手代は京の言葉なり

「おこしやす。これはこれは、丸藤屋はんのごりょんはん、
いとはん、ようおいでくださいました」
ってな風に、客を迎えただろうと推測されるのは、
日本橋・越後屋呉服店の手代・清之助。
担当は京友禅で、小僧に言いつけてさっそくあでやかな反物を広げて見せる。
越後屋では、呉服(絹織物)の高級感を出すために、
京男を雇い入れ、江戸店に置くというもっぱらの噂だ。


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上と左の画は、越後屋の内部。
天井から下がっているのは、
手代や番頭の名前で、
各人がひとつの商品を担当し、
その商品のスペシャリストとなって、
客に対応するシステムをとったのである。
これも評判をとった




越後屋呉服店は、延宝元年(1673年)日本で初めて大々的に、
「現金掛け値なし」で商売をした大店である。
現在の三越の前身であることは、誰もが知っている通りである。
「現金掛け値なし」がなぜそんなに重要なことだったのだろう。


それまでは呉服業に限らず、大店というものは、
武家や大名相手がほとんどで、屋敷に商品を持って行き買ってもらう。
支払いは、盆と暮れの年2回。つまり「付け」である。
ってことは支払ってもらえないこともある。
「現金」とは「付け」はいっさいやりません。
全て現金で、その場でお支払いください、ということ。
現代はそれがゴク当たり前になっているが、当時は画期的なことだった。


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       上下の画はどちらも、広重によるもので、
       越後屋の広告のために作ったものだろう

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「掛け値なし」というのは、商品には全て正札がついているので、
その料金で支払ってくださいということだ。
というのも、当時はついている値段から、
交渉によって支払い価格を決めていた。
越後屋はこれをやめたのである。
開店当初は店の前にずらりと商品を並べ、
バーゲンセールのようにやったらこれが大当たりをとったという。


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初代三井高利は伊勢・松坂の出身で、14歳で兄の店で修業を始めた。
その後独立して、京で呉服屋の卸業を開始。
そしてさらに、京・大坂に呉服店を出した。
50歳のころに、息子たちと共に、江戸に進出。
これが「現金掛け値なし」の店で、もう大名相手はやめ、
町方をターゲットにした。
逆転の発想である。



地方の商人に越後屋の商品をおろし、行商をさせて全国に
「越後屋」の名を浸透させた。
突然の雨には、顧客に傘を提供した。
傘には「越後屋」のロゴが大きくはいっている。
     夕立に 振る舞い傘を 三井出し
江戸中が「越後屋」でいっぱいになったことだ。
抜け目のない商売には、いつの世も同じ発想の転換が必要。








・・・・・
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by edo-ukiyo-doll | 2011-12-05 15:45 | 江戸ぐらし | Comments(0)

今夜はこたつで・・・

いつまで続くのかと思っていた暑さも、立冬となったら一気に肌寒さに変わってしまいました。
あまりにも気温の変化が激しかったり、いつまでも暑かったりで、
体調くずされていませんか?

節電もしつつ、少し冷えるこんな夜は、やっぱりこたつで丸く・・・は猫か。
こたつで、テレビ見て、みかん食べて・・・ですよね。
日本の冬、こたつの冬!


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  ところでこのこたつ、
  いつごろからあったのかと申しますと、
  室町時代には原型のようなものが登場しています。
  この時代、囲炉裏にやぐらを置き、
  布団をかぶせたのが始まりなのだとか。

さらにその以前には、囲炉裏の火が「おき」になってから、
その上に紙子(和紙でできた着物)
を敷いて、足をのせてたらしいです。
江戸時代に入って、
囲炉裏にやぐらをかけるこたつが「掘りごたつ」
または「切りごたつ」として定着しました。


一方、昔々、中国から禅宗のお坊さんが、日本に行火(あんか)をもたらしました。
それにこたつのやぐらをかけたのを、「置きごたつ」または「岡ごたつ」といいます。
これがまた変形していき、土火鉢というかわら製の火鉢を木箱に入れたものも登場します。

江戸時代にこたつが急速に発達していった陰には、木綿の普及と、
木炭や、たどんなど燃料の増産が行われたことがあります。
それまでは庶民の普段の衣類などは麻でしたが、木綿の生産が発達したので、
木綿の布団が普及し、綿の入った布団を、こたつにかけられるようになったこともあります。


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ちなみに木炭、練炭、たどんのこたつで一酸化中毒が多く、
電気こたつは画期的な発明でした。
1955年(昭和30年)頃から普及した電気ごたつですが、
最初はまるで売れませんでしたが、
あることに変えたら、爆発的に売れました。
なにをしたのでしょう? というクイズを前にテレビで見ました。


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答えはね、白かった熱源の色を、
赤に変えたからでした。
赤はあったかく感じさせるんですね。
さて、こたつにでもはいろうかな・・・?
あ、いけない、私、こたつ、持ってないのでした。
今こたつを買うと、
ご希望の方にはもれなく猫が付いてきます。
(うそです!)
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by edo-ukiyo-doll | 2011-11-09 17:19 | 江戸ぐらし | Comments(0)

江戸の下水、どないなってますの?

きょう9月10日は、下水道の日だそうです。
以前、江戸の上水道のことをお読みくださった方から、
「江戸の下水道はどんなだったの?」とご質問いただきましたので、
下水に関してかきますね。

パリに環状の大下水道が作られたのは1740年、
イギリスでは1863年に下水道が作られました。
日本ではというと、明治30年(1900年)に東京・神田に作られたのが最初です。
江戸(東京)に西洋のような下水道ができたのは、遅かったのです。
なぜか?
江戸では、し尿と、生活排水や雨水は、完全に分けて処理され、
しかも下水に流される水はあまり汚れていなかったので、
西洋のような暗渠にする必要性がなかったのです。

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この図の奥の方(人物の向こう、家の手前)に、
鍵形に作られている溝が下水道。



江戸には下水道が完備されていました。
主に生活排水と雨水を流すための下水で、
ほとんどは開渠(地中に管を埋めるのでなく、地上に溝を掘ってオープンになってる形)です。
パリやロンドンでは、当時は城や館にはトイレがありましたが、
庶民はおまるにして、「捨てるよ~!」みたいな大声かけ、通行人も「いいよ~!」と応えたら、
上からザッバ~ンと捨てられたようです。
糞尿まみれの通り・・・、日本では考えられませんね。
江戸などでは肥料に使うので、近在のお百姓さんが買いに来ます。
長屋の大家さんはそれが大きな収入にもなります。
それで、下水にし尿が入ることがありません。

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   右の挿絵には、見世の前の地面に、
   石組みで作られた溝があります。
   (溝と書いて「どぶ」と読むことが多いです)。


江戸は水が豊富ではなかったので、井戸水を大切に使いきります。
米のとぎ汁は鉢植えにかけたり、洗濯も洗剤などないので、そこらへんにまけば、
土にしみこんでいきます。
お風呂も薪が高いし、火の用心もあるし、水は大切なので、
個人で風呂を持つのは、よほどのお金持ち。
湯屋はたくさんありますから、毎日のように湯に入り清潔です。
というわけで、下水に流れていく生活排水も、あまり汚れてはいないので、
堀や川に流しています。

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右の画のように屋根から落ちる雨を集めて流すのは
「雨落下水」といいます。

「割下水(わりげすい)」は、通りの中央部にある溝で、
水はけのために作られています。
「本所割下水」。
鬼平こと長谷川平蔵の実家があったのでしたっけ。
本所は武家地ですが、
元は田んぼだったので水が上がりやすく、
割り下水が作られたのだとか。

下水に関してはまだたくさんお話がありますが、またいつか。








 


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by edo-ukiyo-doll | 2011-09-10 15:24 | 江戸ぐらし | Comments(0)

「三笠山」はドラ焼き、じゃあ「三笠附」はなに?

ず~っと前から気になってしょうがなかったのが、
「三笠附」。「みかさづけ」と読みます。
どこで見つけたかというと、手製の『江戸幕府覚書』のなかでなんですが、
「三笠附禁止」と何度も出てくる。
最初はなんか「笠」かと思ったが、どうやら博打らしいことに気づきました。

資料もなくて調べようもなかったので、ほっといたのですが、
2、3年前、やっとわかりました。
なんと俳句でやる博打だったのです。
これが幕府から何度も何度も禁止令が出るくらい、
江戸で流行りまくったってことですよね。

俳句でどうやって博打をやるのか?
興味ありますねぇ。
江戸ミーハーの私としては、なんとしても知りたい。
すると、ありました。


事の始まりはちゃんと俳諧だったのです。
点者、つまり応募してきた中から優劣を決める宗匠ですね。
この点者となる宗匠が五、七、五の最初の5文字を出して、
次に残りの七、五を付けさせて、優秀者には賞品を出していたのです。
時代は元禄から宝永年間(1688~1710年)のことでした。
ここあたりまではまだよかったのです。
あの小林一茶も、「三笠附」から名を上げて行ったくらいです。

ところが享保期(1716~35年)までの間に、
ドンドン賭博性が高まっていきました。
宝永の末期ころから、はじめの五文字を3例提示し、
次の七、五の例を21通り出して、
どれを附けたらすぐれた句になるのかを、
当てるゲームとなっていきました。

そしてついには、文字を書かないで、単に数字を封筒に入れ、
21の数字のなかから、3つの数字を当てるという、
サイコロ博打と似たものとなってしまったのです。
1ゲーム10文くらい。3句とも当てれば、
1両(現代の10万円くらい)もらえたそうで、
流行るはずです。


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              当時の最先端ファッション!



あまりの加熱振りに、幕府がついに禁止令を出しました。
これに参加したものは、家財や蔵に相当するだけの罰金の支払いを命じたり、
博奕宿として場所を提供したものには、
身上に応じて過料(罰金)を支払わせた上に、
100日間の手鎖という刑罰を科しています。
これが武家になるともっと厳しくて、
武家屋敷にて召し仕え、博奕した者は、
なんと遠島になっています。

江戸時代には、容疑者だけでなく、
町内名主五人組なども、町方への管理不行き届き
ということからも、お白洲に呼び出されます。
連帯責任で成立していたのが、
江戸の町の治安や行政だったんですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-23 16:45 | 江戸ぐらし | Comments(0)

江戸っ子は歯が命。

いまちょうど、歯を大切にしましょう週間だとか。
6月4日は「虫歯」の日だったのが、今は11月8日「いい歯」の日に変えたのだとか。

「タレントは歯が命」って、かつてコマーシャルがありましたが、
「江戸っ子も歯が命」。

歯磨きの習慣はとても古く、起源はエジプトまで遡ります。
それが中国に渡り、そして朝鮮半島へ。
仏教の伝来とともに日本に入ってきた歯磨きの習慣は、僧侶から貴族へ、
安土桃山時代には庶民の間にも普及します。



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『江戸浮世人形』より「歯みがき」。
左手に持っているのが房楊枝。




江戸時代になって、いまの歯ブラシの役割を果たす「房楊枝」が定着します。
もともと僧侶が仏前に祈りをささげる前に、菩提樹の木の枝の先端を感で房状にして、口中を清めるという習慣がありました。

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房楊枝はこれを踏襲したもので、柳やクロモジなどの木を細くさいて、これを煮て柔らかくした後に、木槌で叩いてブラシ状にしたものです。




さらに歯磨き用品が、初めて商品化されました。
寛永2年(1625年)、江戸の丁子屋喜左衛門が、朝鮮半島から渡来した人に教わって、
作って売り出したのが、「丁子屋歯磨き・大明香薬砂」という歯磨き粉が、本邦初の商品としての歯磨き粉となりました。
以来江戸っ子は、せっせとは磨き粉を使って、白い歯を保ち、それがいなせな江戸っ子気質にもつながっていたのです。


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歯磨き粉は房州砂というものに、丁子やビャクダンなどいろいろな香料を混ぜたものや、
塩を特殊な焼き方をした「焼き塩」などが売られていました。
当時の塩の産地は赤穂、そして三河の吉良。
赤穂の塩と吉良の塩は、歯磨き粉で商売敵となっている、とまでいわれました。
「忠臣蔵」の一因が、歯磨き粉の塩戦争にあったのですね。


ちなみに文化・文政期には式亭三馬が「紅梅散」という歯磨き粉を、
尾上菊五郎や為永春水なども、歯磨き粉を商品化しています。

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そして歯磨き粉は小間物屋で買えましたが、
大道では、種々の曲芸で集客したり(団扇絵の下のモノクロの画では、ハツカネズミの曲芸で呼び込んでいるのが見えます)、
「百眼(ひゃくまなこ)の米吉」などの人目を引くいでたちで、
物売りも売りに来たものです。

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これはお芝居の「百眼の米吉」




歯、磨いておやすみくださいね!
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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-05 17:00 | 江戸ぐらし | Comments(0)

世界に誇る江戸っ子の産湯

「こちとら江戸っ子よぉ、水道の水で産湯を使ってんでェ!」
という江戸っ子の「水道」は、
現代の水道を想像してはいけません、井戸の形をしています。
長屋でおカミさんたちが井戸端会議をしているあそこが、
水道の末端です。


江戸は埋立地が多いし、海辺なので、井戸を掘っても、
塩分が多くて飲み水には適していなかったとも言われていますが、
まだ掘削技術が未熟だったこともあり、
そんな土地では飲み水を確保するまで掘り下げることは、
至難の業だったのでしょう。

この川は「神田川」で、奥のほうに見えるのは、
上水道の懸樋(かけひ・・・かけいと読みます)という木製の樋(とい)です。
神田上水の水を、神田や日本橋方面に送っています。
明治時代の半ばまで使われていました。
「水道橋」の名前はここから来たのですね。


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徳川家康は天正18年(1590年)入府に際して、
水道工事にも着手しました。
ライフラインの確保です。
さらに時を経て、承応3年(じょうおう/1654年)には、
あの玉川上水が完成し、四谷大木戸まではオープンで、
そこからは石樋や木樋を使って、地中に水脈を走らせました。
多摩川から取水されて、虎ノ門、江戸城、四谷、麹町、
赤坂台地などへ給水されています。
その工事の大変さは、小説にもなっているので、
ご興味のある方は読んでみてください。

江戸の「六上水」と呼ばれたのは、
玉川上水のほかに、
神田上水(井の頭池を水源とする)、
青山上水(麻布、六本木、飯倉方面へ給水)、
三田上水(三田、芝方面へ給水)、
亀有上水(中川を水源とし、本所、深川方面へ給水)、
千川上水(本郷、浅草方面へ給水)。


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長屋の井戸は共同で使いますから、
中ほどに設置されています。
上の画に見えるのは、後架(トイレ)と芥溜め。


1800年ころには、江戸は人口120万人、
ロンドンは90万人、パリが60万人、
ニューヨークはまだ6万人しかいなかった時代、
江戸市中に張り巡らされた水道は、全長150キロです。
ロンドンですら週に3日、
1日7時間しか給水されませんでしたが、
江戸では1年中、24時間給水されていました。
だから江戸っ子はロンドンのことなど知らなくても、
「水道」が自慢だったんですね。


やがて掘削技術が発達し、掘りぬき井戸も盛んに作られるようになり、
8代将軍吉宗の時代には、六上水のうち、
青山、三田、亀有、千川の各上水道が、
突然廃止されました。
幕府直轄の水田への配水不足も一因となっていたといわれています。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-05-03 19:26 | 江戸ぐらし | Comments(0)

江戸の珍商売「耳の垢取り」。イヤーエステ?

3月3日は「耳の日」だったようで、
耳なんて気にしてない・・・・・・・のも若いうち。
だんだん気になってきますよ、そのうちね(笑)。

でもって、最近、テレビで耳に止まったのは、「イヤーエステ」。
なんじゃいと思いましたらば、耳かきをしてくれるという。
人にやってもらうのは、コワイのでイヤだけれど、
訓練をつんだ耳かきエステティシャンなら、安心でしょう。
2005年に、厚生省が、耳垢の除去は医療行為にあたらず・・・
と改定したことにより、理髪店以外でもできるようになったわけですね。

誰でも行ってよろしいということで、エステ以外でも、
浴衣を着て、耳かきと全身マッサージをしてくれる
「耳かきカフェ」なるものや、
その他いろいろあるのだとか・・・・。
エステティック・サロンなどでは、
70分で、耳掃除だけでなく、耳の中の産毛そり、
綿棒で耳の中のツボマッサージなど・・・・
「耳いすと」にはたまらないかも。
70分8400円は、エステとすれば、こんなところでしょうか?
お客さんの6割は女性だそうです。

「耳いすと」・・・・勝手に命名、「耳かきしてもらうのが好きな人」の意・・・・
は、殿方に多いようです。
お母さんのひざが懐かしいのでしょうか?
なんだか、ほっこりした絵が浮かんできますね。

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さて、江戸時代にもエステではないけれど、
「耳の垢取り」という職業がありました。
かの山東京伝が『骨董集』という本に、貞享(1684~88年)ころ、
江戸の神田紺屋町三丁目に「長官」という耳垢取り屋がいたと
書いていて、それを基に歌川国貞が描いています。
上の絵は、国貞の画を写したものから、
さらに描き起したものですが、「唐人」の格好をしています。




江戸時代には、「珍商売」が多かったのですけれど、
その多くは、コスチュームに凝っています。
やっぱり、目立つことが大切だったのでしょうか。
江戸の耳垢取りは唐人スタイルが多く、
京の辻つじにいた耳垢取りは、
「紅毛人(オランダ人)」のスタイルが多かったと、
モノの本にあります。



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「桃太郎」・・・岡山でいただきました。
観光地でお土産によく耳かきを売ってますね?
コレクターも多いようです。



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       こんな形のもあります。
             

耳の日はすぎたけれど、お部屋の掃除のついでに、耳のお掃除もしましょうか。
ところが耳鼻科の医師の中には、耳掃除はしてはいけない、
そのままにしていれば自然にポロリと落ちてくる・・・・
というご意見の人がいます。
一方、耳垢がたまりすぎると、「耳垢栓塞」という症状になり、
難聴と思い込んで来院する人がけっこういるとか。
耳鼻咽喉科で待ちながら診療をみてますと、「耳垢栓塞」と診断されたらしく、
取っていただいてほっとしたお顔で帰る方、けっこう多いですよ~。

やっぱり適度に取ったほうがいいのでしょうね。
綿棒を使うと、耳垢を奥へと押し込むのでよくないとも言われます。
ご心配な方は、耳鼻科へおでかけあそばせ。







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by edo-ukiyo-doll | 2011-03-09 17:22 | 江戸ぐらし | Comments(0)

江戸の雨

先日まで猛暑などなかったような顔して冷たい雨が降り、
秋分の日を境にうって変わってこの寒さ・・・・。
すさまじい寒暖差に、お風邪召しませんようにね。

さて、「江戸の雨」といっても、
江戸の町に降る雨ではなく、江戸時代の雨降りの様子。

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これは、夏の驟雨といったときの光景。
美人画的な絵ですから、振袖のお嬢さんたちがいっぱい!
中にははだしの人もいて、寛政のころと思われますから、
1800年ころで、私たちの思い描きやすい「江戸」、それは幕末なのですが、
それよりも50年前くらいの時代です。
この頃はまだ、ゆったりと時間が流れている感じがします。

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雨用の下駄に足駄(あしだ)と言って、
普通の下駄より歯が長い下駄があります。
今でも板前さんなんか、
水場で働く方は、はいてます。
これに対して普通の下駄は、
「日和下駄(ひよりげた)」って言いますね。


傘は差すもの、笠はかぶるもの。
笠は古くからありましたけれど、
傘・・・唐傘が普及したのは、江戸時代後期になってからです。



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この画は江戸で通称「照り降り町」
と呼ばれていた町。
「笠」と「傘」を売っていたので、
しゃれてこう呼んでいたのですね。
晴れたら「笠」、雨なら「傘」ってわけ。


浪人の傘貼り・・・よくテレビで見ますね。
先日、テレビで、実際の傘作りを見ていましたら、
その工程の長く、仕組みの複雑なこと・・・・。
竹から骨を作る職人さん、組み立てる職人さん、
紙を張る職人さん・・・・手間もかかります。
ですから江戸時代でも、傘は高級なものでした。
かの越後屋(三越の前身)では、「振る舞い傘」といって、
雨の日にはお客様に傘を振舞いました。
傘には大きく「越後屋」と書いて・・・。
すごいアイディアの宣伝です!


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これは旅の途中の雨の装い。
左の手綱を持っている人が着ているのは、「廻り合羽」といって、
木綿の間に渋紙を挟みこみ、雨を通さないようになっているもの。
右端の人は蓑(みの)を着ています。
蓑は藁でできていますが、藁はある程度撥水性があって、
藁に沿って雨が流れていくので、
内側に雨がしみてこないようになっています。


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こちらは大川端でも驟雨の風景。
一本の傘に、3人も!
外で働く男たちは、この頃は頭さえ濡れなければ、
ということでしょうか。
やはり髷はあまり崩したくないのか知らん?



江戸の雨は、なんだかみんな元気です。



さて、関東はこの1週間、雨がつづくようです。
秋の長雨、なのでしょうか。
雨が上がったころには、大きな秋が来ているのでしょうか?
楽しみですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2010-09-27 18:21 | 江戸ぐらし | Comments(0)

「江戸浮世人形」人形師・岩下深雪の江戸はここにあり       ホームページ開設 http://edoukiyoningyo.edo-jidai.com


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