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カテゴリ:江戸の園芸( 11 )

朝顔売りがやってくる朝

  
  今年、我が家の朝顔は、蔓ばかりが伸びて、3日前やっと花が一輪。

  熱いから梅雨の後、日照不足の今夏ですから、 朝顔も調子が出ないようです。





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  さて、江戸の夏。

  様々な物売りがやってくる江戸の町の早朝の物売りと言えば、

  朝顔売り。

  4月になると「朝顔、夕顔、冬瓜、とうもろこしにへちま、茄子、
唐辛子」などの
苗を売りに来ますが、

  6月になると、
苗ではなくすでに朝顔の花が咲いている鉢を売りにきます。

  苗を買い損ねた人や、育てるのがめんどくさい人が、
きれいに咲いた一鉢を買うわけです。



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  なんたって朝のうちの勝負ですから、  早朝から売り始め、

  昼を過ぎると花はしぼんでしまうので、  終わりにします。

   「売り仕舞日向を戻る朝顔や」

  まだ日が昇る前に家を出て、  昼前まで売り歩いた朝顔売りは、

  日差しがきつくなるころには  売り仕舞いになるってことですね。


  現在は入谷の朝顔市が有名ですが、

  江戸で朝顔が流行したのは、
下谷の御家人の内職によって大いに栽培されたからです。

  皮肉なことにそのきっかけとなったのは、文化3年の大火事でした。

  芝・車町から出火して,
薩摩上屋敷(現芝公園)から増上寺の五重の塔も焼失、

  木挽町や数寄屋橋を焼き尽くし、

  日本橋から神田、浅草まで火の手が及んだといいます。

  この時御徒歩組の居住していた下谷もすっかり焼けつくし、

  そこにできた空き地を利用して下級武士たちが、
朝顔づくりを始めたのでした。



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  それまでに朝顔がなかったわけではありません。

  万葉集にはすでに「朝貌(あさがお)」という記述がありますが、

  これは桔梗やムクゲのことといわれています。

  奈良時代には「牽牛子(けんごし)」という名前の薬として、日本に入ってきました。

  中国では朝顔の種を干したものを、

  利尿薬などとして箱にいれてこれを牛に牽(ひ)かせ売り歩いたので、

  「牽牛子」と呼ばれたのだとか。

  花も愛でるようになりましたが、栽培までするようになったのは、

  江戸時代になってからのようです。


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  文化年間には上に書いたように、
  下級武士の朝顔栽培からブームとなり、

  それがエスカレートして、幕末の嘉永・安政に
  第二次朝顔ブームとなります。

  さらにマニアックな「変化朝顔」が登場してくることになります。

  しかし、下谷の空き地も家々が再建するにつれ、

  栽培場所がなくなって、
  明治時代には下谷より、北の入谷へと移っていきました。























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by edo-ukiyo-doll | 2017-08-16 12:52 | 江戸の園芸 | Comments(0)

♪牡丹の花~咲く~ころ~♪(タカラヅカ風に!)

天候不順な今年ですが、それでもあちこちのお庭で、
牡丹が満開です。
いかにも初夏という感じがします。
牡丹といえば、即、花札を思い浮かべますが(私だけ?)、
花札のこうした図柄も江戸時代にできました。
そして牡丹は6月の花として描かれていますね。
旧暦6月ですからちょうど今頃です。


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    牡丹は中国の西北部が原産とかで、
    玄宗皇帝(唐の9代皇帝/685~762年)
    の時代あたりに、
    王侯貴族に愛でられるようになりました。
    玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを、
    象徴する花といわれていますね。
    富貴草、百花王、花王、花神
    などとも表記されるほどなので、
    まさに花の中の「王」。



唐の首都・長安では、庶民も牡丹の花の開花期間20日間は、
気がおかしくなるほど牡丹に熱狂し、
中国史上唯一の女帝・則天武后(623~705年)が
宮中の庭に植えさせたことで、この花の地位は確固たる物になったのだとか。


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日本に入ってきたのは、
第18回遣唐使(804~806年)のときに、
空海が唐から持ってきたともいわれます。
根の皮は「牡丹皮(ぼたんひ)」といって、
消炎や止血、鎮痛の効果があるので、
薬用として持ち込まれたのでしょう。
枕草子には
「台の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」とあり、
平安時代には、
貴族などの鑑賞用とされていたことがわかります。





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  上の源氏絵には、大輪の牡丹がさらに大きく、デフォルメされて描かれています。

鎌倉・室町時代になって、武家の間でも人気が高まり、
江戸時代には、園芸技術がグンと進んだ元禄期に、
牡丹の専門書がいくつも発行されました。
400種を超える牡丹の品種があったそうですよ。


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江戸で牡丹の名所といえば、
広重の画にもある富岡八幡宮の牡丹園。
ここは花のシーズンには日覆や障子を掛けまわして、
たいそうきれいだったとか。
現代では牡丹園も少なくなりましたが、今でいうなら、
バラ園のような人気だったのでしょうか。









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by edo-ukiyo-doll | 2014-05-16 10:38 | 江戸の園芸 | Comments(0)

萩揺れて。

10月なのにまだ暑い今年は、まだ萩が咲いているのを多く見かけます。
どうやら花のつくのが遅かったようです。

秋の七草の萩ですが、ずいぶん古くから日本にあったらしく、
草冠に秋・・・・・・「萩」という文字も日本で作られたようです。
万葉集に登場する植物では、「萩」が第1位だってご存知でした?
それほどに、暮らしに身近な植物だったということなのでしょう。

生薬として使われたり(根はめまいやのぼせ、またイボの薬としても使われた)、お茶にもなるし、種は粉にして飯に混ぜたり。
家畜のエサにもなれば、はいだ皮で縄もなえ、屋根を葺いたり垣根にしたり、染料にもなりました。


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西行に
「乱れ咲く野辺の萩原分け暮れて
       露にも袖を染めてけるかな」
という歌があって、萩原というほど、
そこらへんに群生していたのだなあと、思わせます。




萩はまた、秋の七草として江戸期にも人気があり、
寺島村百花園(現在の向島百花園)では、秋の七草を愛でる遊人が訪れます。

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  寺島村百花園の萩


さらに萩だけを楽しむなら、亀戸の「慈雲山竜眼寺(龍眼寺)」が随一。
推古天皇が殖髪(うえかみ)聖徳太子像をこの寺に収めたといわれています。
それから時がたち、明和3年(1766年)には、
太子堂を建立するために境内に萩を植え始め、
それが次第に増え、文政ころには「数千叢(すせんそう)」にもなったとありますから、
まさに「萩寺」と呼ばれる風格となったようです。
今は境内からスカイツリーも見え、規模は縮小されましたが、
江戸を偲ぶにはよいかもしれません。

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亀戸の龍眼寺の萩の庭


萩を用いた工芸品も多く残っていますが、
浮世絵などにもよく萩が見られ、江戸時代の古典への懐古をうかがわせます。
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by edo-ukiyo-doll | 2012-10-06 15:53 | 江戸の園芸 | Comments(0)

サザンじゃないのよ、サザンカ。

もう、そろそろ終わりかけ・・・、
きょう、あらためて目にとまったのがサザンカ。
山茶花と書きます。


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椿の親戚、いえ、兄弟。
原産国は日本、九州や四国のものが原種とか。
英語の名前もSasannque camellia。
椿と見分けが付きにくいのですが、
花びらがハラハラと一枚ずつ散るのが山茶花。




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街路樹として、あるいは生垣に山茶花は多く用いられているようです。
ここ数年来、なぜか椿が好きになり、
椿かと思いきや近所にたくさん咲いているのは山茶花と知り、
冬も半ばを過ぎますと、木の下にまあるく、
敷き詰めたように散った花びらの、
ビックリするほどのあざやかさ。
色彩に乏しい冬の、目を引かれるいろどりです。


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 江戸時代に、
 長崎出島のオランダ商館の医師をしていた
 ツンベルクによって、
 西欧にもたらされたといいます。
 江戸時代初期には
 すでに50種類あった山茶花は、
 この時代に改良され、
 現在では90種類に及ぶのだとか。




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これはもしかしたら
椿かもしれません。
間違えてたらごめんなチャイナ!



しろ、ピンク、まだら(?)
一重に八重に、八重なんかはほわぁっとしていて、とってもきれい。


♪さざんか さざんか 咲いた道 たき火だ たき火だ 落ち葉たき♪
の光景は、今は都心では規制がありますのでみられませんけれど、
ちょっと郊外では、所々に煙が上がり、
でもあれは虫を駆除するために焼いているのでしょうね。
でも、田舎育ちの私には、と~っても懐かしい匂いです。





*さざんかの浮世絵をみつけられず、へたっぴぃ写真でごまかしました。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-01-24 11:37 | 江戸の園芸 | Comments(0)

江戸の菊

あちらこちらで菊がもう終盤・・・でしょうか。
「晩菊」といううつくしい呼び方もありますね。
東京の湯島天神や上野の池之端でも菊祭りが行われ、
そばを通るとすがすがしい香りとともに、
秋の華やかさがそこに集約されてるような美しさがあります。
近隣の小学生たちも丹精こめて菊作りをしているとかで、
そういうことを教える先生もまたステキ!
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菊は古くからある植物ですが、
江戸時代の初期の終わり頃には80種ほどが書籍に取り上げられ、
中期になりますと一挙に300種以上が掲載され、
中期頃から菊作りに拍車がかかったことがうかがわれます。

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正徳年間(1711~16年)に京で「菊合わせ」という催し物が始まりました。
これは大型の菊の新種を競うもので、
優勝すれば「勝ち菊」ともてはやされ、
1芽がなんと1両~3両3分(1両は5~10万円ほど)で取引されもしたそうで、
いかにも江戸時代の園芸ブームのすさまじさを思わせますね。
その「菊合わせ」は享保(1716~35年、8代暴れん坊将軍吉宗の頃)の頃に
江戸にも広まり、京と同じように
菊で一儲けを夢見る人々を生み出します。

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おかげで菊の栽培技術や看菊の人気が高まり、
巣鴨や染井をはじめ、寺島(現向島)の百花園や本所、四谷、市谷、青山などの植木屋などが
菊園を公開したので、大勢の人が押し寄せます。

文化年間(1804~18年)に巣鴨で、
人物や鳥獣などの形に菊を作るのがブームとなり
(作り方は聞かないでね。知らんのヨ!)、
これが現代の菊人形へと受け継がれています。

そうなるとますます看菊はブームとなり、
染井などでは50軒もの菊園ができて、園道筋には茶店や料亭が立ち並び、
ずいぶん賑わったものです(と、見てきたように言うのは得意です!)

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帆掛け舟の形に作った菊の前で一献。これがほんとの「菊見で一杯」。




ところがこのあたりの形モノの菊作りはやがて廃れてしまいます。
見物料をとらなかったからだとか・・・・。
それが明治になって団子坂(現文京区)の植木屋が復興させ、
以降、昭和もかなりまで菊人形は人気でした(これは知ってますヨ)

菊人形・・・最近見たのは池之端・・・・だったでしょうか(アイマイ!)。








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by edo-ukiyo-doll | 2010-11-27 22:03 | 江戸の園芸 | Comments(1)

藤の花


今年は天候が不順で、寒い春・・・と思っていたら、
もしかして藤? と、見えづらくなった目にも、
淡い紫の房が見えた。
ここ何日かの暖かさで、一気に花の色も濃くなったようだ。
ちょっと郊外で、すばらしい山藤も見た。


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今年新たに発見した藤棚。
駐車場の横で、誰も鑑賞しないらしいが、みごとに咲いている。



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恋しければ形見にせむとわが屋戸に
植えし藤波いま咲きにけり

とは山部赤人の歌。
風に揺れる長い花房を
「藤波」とよんだという。
平安時代には、
貴族の愛でる花のひとつで、
「藤見の宴」が
盛んに行われていたらしい。
『枕草子』では
「松にかかる藤の花」を、
めでたきものとしている。






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江戸の藤といえば、亀戸天神だ。
ただし、今の藤は昭和30年頃から植え始めたものだとか。
ここも東京の下町。
東京大空襲で、社殿も藤棚も、ことごとく焼失した。
今私たちが見ているのは、地元の人々が元通りに復興したものだ。
花房はもとは3尺くらいの長さがあったが、
もとの長さの半分くらいで、そこまでになるにはあと10年ほどかかるらしい。


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上は3枚つづりの浮世絵。
幕末頃の亀戸天神の藤見の様子。





歌舞伎の中で踊られる「藤娘」に使う大道具の藤は、
ビックリするくらい大きいが、
これは踊り手が小さく、華奢に見えるようにとの工夫。






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清長の描く亀戸天神の太鼓橋。
右手後ろに小僧さんが、こぼした蜆を拾っているが、
「業平蜆」は江戸名物の一で、亀戸天神内で売られているもの。





藤は日本各地に野生として生育する。
花はきれいだが、蔓は夏山に入ると実に厄介で、
それこそ鉈で断ち切りながら、進まなければならなくなる。

     よそに見て帰らむ人に藤の花
            這ひまつはれよ枝は折るとも

これは『古今和歌集』の僧正遍照の歌だが、
遠くから見るだけで私のとこによってかないって言うんなら、
藤の花の蔓よ、這いまつわってからめとっておくれ、
ポキンと折れちまったって、かまやしないわ。
かくのごとく藤の蔓は強く、女もまた強し。


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芭蕉ならこうひねる。

      草臥(くたぶ)れて 宿かる頃や 藤の花

なんと優雅な宿だろう、藤の花やどとは。

















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by edo-ukiyo-doll | 2010-05-09 10:45 | 江戸の園芸 | Comments(0)

椿に思いをよせて



ちかごろ、とみに椿を好もしく思うようになった。
いつもなら通り過ぎてしまう街路樹としての椿が、
突然目に入ってきたのだ。


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淡いピンクの柔らかな曲線、ほんのわずかな刺激でも
あとがついてしまいそうな繊細な花びら。
濃い緑の葉の群生の中に、はかない光のように
そっと咲いている。
何よりもあの柔肌のような花の肌感がたまらない。

山茶花のあとに、椿が今を盛りと次々と花開く。
山茶花と椿・・・・
区別がつけがたいが、
花びらがはらはらと落ちるのは山茶花、
花ごとぽたりと落ちるのが椿・・・
そんな風に教わったが、そうのようだ。




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椿は中国や日本が原産とか。
学名はカメリア・ジャポニカ・リンネ。
椿が登場する初めての書物は『日本書紀』。
万葉の頃には、
紫染の際に椿の灰が使われた。



安土桃山時代には茶の湯ブームに伴って、
「侘」「寂」の世界にイメージが適合したため、
茶花として好まれるようになった。
又長寿や吉祥を祈願して、寺社への寄進が多くなり、
今も寺社の周囲には椿が多いのだとか。
椿には霊力があると信じられていたらしい。


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          上は幕末に描かれた椿



江戸時代になると、2代将軍秀忠が、こよなく花を愛でた人で、
とりわけ椿を好み各地から取り寄せて、
吹き上げ花壇に植えさせて愛でたそうだ。
江戸時代にに描かれた絵巻『百椿図(ひゃくちんず)』は、
狩野山楽によるものとされるが、まあ、その美しいこと!




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          江戸の椿山は、多くの椿の花見客を呼んだ。



「椿は首が落ちるから武士は忌み嫌らう」
といわれるようになったのは、1789年の寛政の改革以降だ。
17~18世紀、江戸は椿の全盛で、
珍種の売買、投機が行われたが、
改革ではそれも弾圧を受け、幕府の尻馬に乗って、
流言飛語した輩が後を絶たなかったためと、物の本にある。



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広重描くところのぼらと椿。
どちらもこの季節のもの。




シーボルトはじめ、多くの外国人が、海外へ椿を持ち出した。
おかげで19世紀、ヨーロッパは椿の大ブレークとなる。
1848年、アレクサンドル・デュマは小説『椿姫』を書き、
その5年後にベルディーが歌劇につくり、
今も世界中で公演されることとなった。

冷たい雨が続いていた。
雨にぬれてそこだけが、やわらかな光を放つように、
淡いピンクの椿が、いとおしい。







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by edo-ukiyo-doll | 2010-04-19 10:10 | 江戸の園芸 | Comments(4)

ひっそりと梅が・・・・・。


まだ春一番には間がありますけれど、
この2,3日はすさまじいほどの風で、
空を飛ばされている人を見ました(ウソです)。
春一番は、立春から春分までのあいだに吹く、
南よりのその年最初の強風を言うのだそうです。
翌日は西高東低の冬型となり、寒さが戻るのが常。
お風邪召しませんように。


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この強風の中、お散歩に行きましたら、
白梅がそっと開いているお宅がありました。
  
   何となく軒なつかしき梅ゆゑに
          住みけむ人の心をぞ知る

                       西行法師




梅は、奈良時代に中国から、遣唐使によって運ばれてきました。
しかも、薬としてです。
「烏梅(うばい)」といって、燻した梅の実は、
解熱や咳止めなどに使ったようです。
それが大宰府から、東へともたらされ、
平安時代には、中国文学と深いかかわりを持つ梅が、
花を愛でるという文化も一緒にもたらされたのです。
「花見」のはじまりですね。


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上は春信の描く「臥龍梅」
「「臥龍梅」は梅の枝を地を這うように作って、
その形が横たわる龍に似たところから、そう呼ばれています。



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こちらは北斎の初午の絵です。
初午の頃には梅が咲く・・・・・
本来は旧暦の2月の最初の午の日ですから、3月ごろにあたるわけですけれど、
現代では新暦の2月・・・・一番寒い頃になっています。
でも年々梅も早く咲き、季節がわからなくなってきましたね。



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菅原道真が讒言(ざんげん=事実を曲げた悪口)によって、
大宰府に左遷されたとき、愛した梅の木に名残りを惜しみ、
「東風吹かばおもいおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
と詠んだら、梅の一枝が彼のもとに飛んでいったという「飛び梅」のお話がありますが、
どうやら、ひそかに梅の苗を持って行ったらしいです。

ひっそりと咲く梅も、いとおしく思います。








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by edo-ukiyo-doll | 2010-01-28 16:47 | 江戸の園芸 | Comments(0)

雨の紫陽花



紫陽花の 珠となりたし きみが胸の・・・

そのあとがどうしても思い出せない。
高校生のころに読んでいた文芸雑誌に載っていた一首。


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いまは一体どれくらいの種類があるのだろう?
英名ハイドランジア。「紫陽花」とあてるが、
もとは大和言葉で、「集真藍」、
青い花が集まって咲くという意味だったとか。





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   きれいなブルーもあれば、
   やさしげなピンクもある。
   最近では西洋種の
   白く縦に長いものもよく見かける。
   土の酸性度が高いと青くなり、
   低いほどにピンクになるのだそう。




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もとは太平洋沿岸に自生するガクアジサイが原種で、
江戸時代に一気に改良が進み、一般にも広まっていったのだとか。
ということは、日本が原産国なのだろう。



これがヨーロッパに紹介されたのは、
1823年にシーボルトが著した『日本植物誌』のによる とされてきたが、
それよりも早く、1789年にイギリス人のバンクスが、
日本から中国にわたっていたアジサイを紹介したと 物の本にある。



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シーボルトがアジサイに名づけたのが「オタクサ」。
愛人・楠本滝の名を取ったのだとか。
今その名は学名としては使われていないが、
以来ヨーロッパではアジサイの大ブレークを迎え、
「東洋の薔薇」と呼ばれるようになった。


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上の浮世絵は、文化文政期に活躍した
三代目坂東三津五郎。
深川の自宅の庭で紫陽花を切ったところを描いたもの。
三津五郎の替紋である熨斗菱の浴衣を着て
いかにもくつろいだ感じ。



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もう梅雨も明けるにも間近なのだろう。
いま少し、しとしと雨が続くが、
紫陽花もそろそろ終盤といった観。
それでもまだ咲き誇るものあり。
ときにハッと胸をつかれるほどに鮮やかだったりする。

雨と紫陽花。
梅雨もまた愉し。






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by edo-ukiyo-doll | 2009-07-08 11:20 | 江戸の園芸 | Comments(0)

江戸に開いた花菖蒲



人形制作の片手間に、花菖蒲も作っています。
個展においでくださったお客様の間から、
何か記念に変えるものが欲しい・・・
というご要望にお答えすべく、
小さな鉢植えも作っています。
明治期のものと思われる資料を、
江戸時代に作られ今も残っている「堀切菖蒲園」にお住まいの方からちょうだいし、
それをもとに作っているものです。


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   いずれもサイズは、
   花菖蒲の部分が30ミリほどです。→
   これは「古花・仙川(こか・せんかわ)」


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←「古花・竜田川」
花器もすべて、浮世絵に実際に描かれているものを、
立体に再現しています。

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         「これは「かきつばた」
         花菖蒲とは異なります。




花菖蒲は自生するノハナショウブをもとに、
江戸時代の前期からすでに改良が始められていました。
時代が移ろい、幕末近く天保から弘化年間(1830~47年)ころには、
盛んに改良されるようになりました。


その改良に大きな貢献を果たしたのが、
旗本の松平定朝左金吾、のちに自らを松平菖翁と名乗った人物です。
菖翁は父の意志をついで、その生涯を花菖蒲の改良にかけました。
京都町奉行にまでなった人物ですから、けっこうなオエライさんだったわけです。
なんと84歳までご長命でいらしたようです。
その改良の状況記録が10冊ほど残されています。



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            「堀きり花菖蒲」 三代豊国・二代広重画
            当時、堀切菖蒲園は、こんなに広かったのですね!!






さて、花菖蒲は園芸上、
「江戸系」「伊勢系」「肥後系」と、大きく3つに分けられていますが、
これは江戸時代後期、改良が盛んに行われていたころに、
各地で改良が行われたものが、現代に引き継がれているものです。



「江戸系」は尾張藩主、徳川光友が江戸屋敷に各地の花菖蒲を栽培させたのが始まり。
庭や水田などに群植されるもので、
地植えで鑑賞しやすいように丈は高く、
群生して美しく見えるように花は中輪が多い。
また日興や風雨に強く、
花は色が鮮やかなものが多いというものです。



「伊勢系」は紀州藩主吉井定五郎が、
江戸花菖蒲を伊勢松坂に持ち込んだところから始まったとか。
鉢植えとして改良され、繊細で花振りは小さく、
色は淡く花弁はおおらかに垂れて女性的なのが特徴。
「肥後系」も鉢植えにして、室内で鑑賞するものとして改良されています。
こちらは男性的なのだとか。
というのも花容は雄大で花色は鮮やかで、丈が低く、
観賞用として競い合ったといわれます。


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まさに江戸時代、特に後期は園芸ブームに沸き、
投機的にも使われた植物は、
やがてバブル経済をもたらすことにもなりますが、
この話はまたの機会にお話いたしましょう。










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by edo-ukiyo-doll | 2009-05-02 18:26 | 江戸の園芸 | Comments(0)