カテゴリ:江戸の町( 5 )

「天下祭」の山王社

江戸の「天下祭」と言われたのは、「神田明神祭」と「山王祭」でした。

神田明神は今でも神田明神ですが、では山王祭の山王社はどこにあるのか?

『江戸名所図会』をひもとくと、「日吉山王神社」というのが、正式名称のようです。

今では「日枝神社」と呼ばれています。

1月にはここに初詣としゃれこみました。



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家康の入府時(天正18年・1590)にはすでにここにあり、川越の山王社から勧請したのは、

江戸氏だとも太田道灌だともいわれています。

入府後には江戸城の紅葉山に、新たな社殿を造営し、

以来将軍家の産土神として、また江戸市民もこれを産土神として親しみを持ち、

東都第一の社として自慢でもありました。

水無月十五日の「山王祭」は「天下祭」として、

江戸城に入り将軍の前を行列しました。

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2代将軍秀忠の時に、江戸城を拡張するために、半蔵門の外に移したのですが、

明暦の大火によって現在の地、赤坂の溜池の上、星ヶ岡に移されました。

「日枝神社」となったのは明治以降で、もともと「日吉大社」が大もとで、

「日吉神社」「日枝神社」「山王神社」と別れたものだとか。


東京大空襲の時に焼失し、現在あるのは1958年に建てられたもの。


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    日吉山王神社の遣い「神猿(まさる)」

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日枝神社の裏に、こんな素敵な料理茶屋がありました。
「山の茶屋」。
まるで江戸にいるような雰囲気です。

ながく赤坂に通っていたのに、全く知らずに過ごしていました。
鰻もおいしいそうで、一度行ってみたいです。



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そして、明治になると日吉山王神社(日枝神社)の氏子エリアには、

牧場がたくさんできた……え? 牧場? 驚きました。

というのも、徳川幕府の崩壊によって、武家は解体し、

藩士たちはみな国元へ帰ってしまったので、

藩邸は空き家となり物騒になってしまったのでした。

そこで政府はそれらの土地を払い下げ、もと武家だった人や政府関係者、

元藩主の貴族などが、牧場を始めたのだそうです。

牛を飼って搾乳し、九段でバターを作った牧場あります。

明治14年には東京に、100軒もの牧場があったそうです。

大混乱の明治の初期、これもまたたいそう興味深いことを、
赤坂の日吉山王神社(日枝神社)に詣でて、しみじみ感じたのでした。


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by edo-ukiyo-doll | 2017-03-10 18:00 | 江戸の町 | Comments(0)

銀座で江戸をしのぶ partⅢ

金春通りの金春湯を少し行き、通りをひとつ越えた右手、
「やす幸」というおでん屋の路地の入口に、
「豊岩稲荷神社」と赤文字で書かれた石柱があります。

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 かつてはたくさんの不思議な
 空間・銀座の路地が
 あったのですが、
 なんだか少なくなってしまった
 ような気します。
 そんな路地の1本がここで、
 どんどん入っていくと、
 お狐さまがちょこんと
 鎮座ましまして、
 ここが豊岩稲荷。


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古地図には見えませんが、
なんでもここは明智光秀の家臣で、安田作兵衛という人が、
主家の再興を願って祀ったといわれる歴史を持つ稲荷らしい。
以前は近所の水商売の方々が、
仕事場に入る前にちょいとお参りしていたのだけれど、
パワースポット・ブームの今は、
お嬢さんたちの参詣者が、びっくりするくらい多くいました。
縁結びと火伏のお稲荷さんだとかで、
お嬢さんたち人気には、そんなわけもあるようです。


さらに金春通りを京橋方面に進むと、
「みゆき通り」に出会います。



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この通りに差し掛かったら、
街灯を見上げてください。
なんかいます。
なにかといえば「鳳凰(鳳凰)」が
止まっているのがわかります。
「ほお~」とか江戸っ子みたいな
地口は言わないように!



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御城に将軍がいた時代には、
将軍たちは数寄屋御門を出、
この通りを通って、
御浜御殿(今の浜離宮庭園)の
狩りに出向かれたし、
天皇家に取って代わられてからは、
明治天皇はこの通りを通って、
海軍の学校に行幸されたので
「みゆき通り」……
(「行幸」は「みゆき」ともいう)
と呼ばれるようになったのだとか。




さて、みゆき通りから、一気に数寄屋橋に向かいます。
有楽町はあっち。
江戸時代には、マリオンが立っている前あたり、
昭和33年に埋め立てられてなくなってしまった外堀に、
「数寄屋橋御門」が架かっていました。

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今は埋め立てた外堀の上に高速道路が通り、
ここにかつて上の浮世絵にあるような
立派な御門があり、
将軍や大名、さらには天皇家の通り道だったなど、
誰が想像できるでしょう。




数寄屋橋の高架の下に立ち、マリオンを眺めながら、
江戸のこの地を想像しようとしましたが、
私には念力が足りなかっみたいです。
浮世絵をかざし見ても、全く想像がつかないのです。


気を取り直して、銀座の方に戻ります。
江戸時代の京橋と新橋を結ぶ通りは、現在の中央通りで、
江戸時代同様にこのエリアのメインストリートでした。

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京橋側は銀座のあった新両替町でしたが、
新橋側は尾張町という大店の並ぶ繁華街でした。
おなじみ『江戸名所図会』には、
尾張町の「布袋屋」、「亀屋」、「恵比須屋」が描かれています。

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「布袋屋」


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     「亀屋」

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    「恵比須屋」


日本橋に次ぐ商人の街尾張町ですが、
明治維新後の2度の大火、特に明治5年の大火で、
新両替町ともども完全に焼失してしまい、
その後この老舗のほとんどは、
モダンな煉瓦街に戻ってくることはなかったそうです。

理由はさまざま言われていますが、
建物の価格があまりにも高価だったためとか、
あるいはまるで工場のような作りで、
店舗としてなじめなかったためとか……。


しかし、これまでに見たことのない新しい未知の街は、
山の手に住む華族や財閥、さらには中産階級の人々に大人気で、
やがて「尾張町」の名を思い出すこともなくなり、
「銀座」という新しい名前が急速に広まっていったのでした。



                               <おしまい>














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by edo-ukiyo-doll | 2016-03-29 22:44 | 江戸の町 | Comments(0)

江戸めぐり 「銀座で江戸をしのぶ」partⅡ

「江戸歌舞伎発祥の地」の京橋の碑から少し東に行ったところに、
江戸のころには「三つ橋」と呼ばれるところがありました。
『江戸名所図会』に掲載されている「三ツ橋」の図です。

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実に奇妙な画に見えますが、
堀割なので実際の流れは描かれているほどには速さはなく、
川の流れがぶつかり合って大変なことに……というものではなかったと思われます。


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全体で見ると現在の銀座のエリアは掘割に囲まれています。
そして「三つ橋」というのは青丸で囲った部分、
楓川にかかる「弾正橋」、
京橋川にかかる「白魚橋」、
三十間堀川の端にかかるのが「真福寺橋」の3本の橋からなった場所。


白魚橋はもっと古い時代の地図には、
「牛の草橋」という名前で掲載されています。
牛の草橋の由来はわかりませんが、その後の白魚橋というのは、
京橋川を渡ったところに「白魚屋敷」があったからです。

白魚といえば佃島の漁師を思い出しますが、
この白魚屋敷はまた別の白魚の漁師の話です。
家康が入府したのち、葛西方面に出かけた際、
漁の様子を見せて肴御用を承り、
以降、白魚を献上したのだとか。
そしてこの地に屋敷を拝領し、
白魚屋敷と呼ばれるようになりました。


古地図には「三ツ橋」のそばに「水谷町」というのがあり、
江戸時代にはなかったのですが、
水谷橋という橋もあったのでしょう。
その名残らしい水谷橋公園を目指していると、
気がついたら大勢の警察官に取り囲まれてる。
う! ばれたか! ヤバイ! というのはウソですが、
江戸巡り隊2名は、ついに呼び止められました。
「デモに参加するんですか?」と若いお巡りさんに訊かれ、
「デモ?」なんのこっちゃい?と思ったら、
水谷橋公園でこれから何かのデモがあるのだそうです。
残念ですが、あきらめました。
水谷公園はデモの集合知として有名なのだとか。
普段はなぜか立派なトイレの建つ、緑もけっこう多い、
都会のオアシス的な場所。


デモを避けて南に方向転換すると、晴海通りとの交差するところに、
以前はシネパトスという映画館があったのですが、
取り壊されたのか工事のパネルに覆われていました。

古地図にある三十間堀川は、
この半円形に向き合った下を流れていたわけで、
三原橋はその上にかかっていました。
幅の広い晴海通りのこっちと向こうに向き合って半月型の洒落た一角でしたが、
昭和の名残も消えていきます。

三原橋跡をさらに南下すると、
ここには森田座と山村座があったはず。
ビルの駐車場やら小路やら散々探しましたが、
ここに芝居小屋があったなどという説明版も手掛かりとなるものもなく、
あきらめて次に進みました。


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突き当りは銀座御門通り。
宝永7年(1710年)、
朝鮮使節団を迎えるにあたり、
新井白石の提唱により、
日本のというか徳川将軍の威光を顕示するために、
たいそう立派な城門を新たに作り、
「芝口御門」と名付けました。
その城門はたった15年で焼失してしまいましたが、
現在の銀座博品館や天ぷらの天國のあたりになります。


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近くには芝口御門の姿を刻んだ石碑があります。








芝口御門はなくなりましたが、
端は名前を新橋(あたらしばし)に戻し、
昭和39年に汐留川が埋め立てられるまで、かかっていたようです。

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関東大震災後に架橋された新橋の親柱が、
高速道路の下近くに残されています。




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現在は中国観光客の人々の、
バス乗り場として大変な賑やかさの新橋跡。






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御門通りから博品館の裏手に曲がると、そこが金春通りです。
銭湯好きにはたまらない「金春湯」があるのはこの通り。
若かりし頃私は銀座のクラブ(ホステスのいる超高級飲み屋)の雑誌を作っていて、
我らがオンボロ編集部はこの近くにありました。
いつも親切に対応してくださった高級クラブのお兄さんたちは、
開店前に金春湯でひげも当たり、
身ぎれいになってお仕事に臨むと知って、
私も仕事帰りに金春湯で疲れをいやし帰途に就くことしばしばでした。
懐かしい場所です。




「金春」……「こんぱる」と読みます。
この通りの新橋に近い場所に、
能の金春流の広大な「金春屋敷」があったのでこう呼ばれています。

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         大火により焼失した銀座の煉瓦外ですが、
         金春屋敷の敷地からその一部が発掘され、
         記念碑として金春通りに置かれています。


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金春の名を負ったビルもあり。
赤いキャノピーはお笑いの小劇場?



寛永年間にこの地をすでに拝領していた金春屋敷は、
江戸時代中期後半に、ここから現在の麹町に移転しましたが、
金春屋敷の名前だけは幕末の地図にも残っています。
同じ通りに観世太夫ともあります。

家康はことのほか能を好み、
これを幕府の式楽(行事の時に使う音楽)として、
篤く保護し能楽の四家能楽師に屋敷を与えたのでした。
観世太夫の名残はみつかりませんが、
金春は通りに名を残し、
この地で発生した金春芸者が、
明治になると一躍有名になりました。
そして、隣接する新橋と合わせ、
やがて花柳界に君臨する一大花街(かがい)となったことが、
のちの銀座の高級クラブ街へと発展していきます。



さてと、まだ銀座めぐりの話は後日に続きます。












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by edo-ukiyo-doll | 2016-03-02 14:30 | 江戸の町 | Comments(0)

江戸めぐり 「銀座で江戸をしのぶ」

「銀座」という地名、GINZAと表記すればさらにオシャレな感じが漂います。
戦後は「銀ブラ」という言葉も生まれ、
銀座をぶらつくことがモダンな「粋」でもありました。
この地名はいったいどこから来たの? と思う方もいるでしょう。
「銀座」があるからには「金座」もあったはず。
その通りです。

簡単にいうと金貨を造るのが「金座」で、銀貨を造るのが「銀座」。
金座は日本橋にあって、現在は日本銀行になっています。
銀座は……といいますと、幕末の古地図には「銀座町トモ云ウ」と記されていますが、
「新両替町」というのが正式な町名で、
現在の中央通り、京橋に近い銀座1~4丁目にあたります。

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でも現在の銀座には江戸の名残はほとんどありません。
というのも、この一帯は、明治維新後に、
2度の大火がありましたが、明治5年の大火で4千戸もが焼失し、
この一帯は壊滅したといわれるほど、
焼き尽くされてしまったからです。
そのあとに作られたのが、西洋文化満載の煉瓦の街・銀座なのです。
江戸そのものは残ってはいませんが、
道路は割とそのままの構図が残り、『江戸名所図会』や浮世絵などから、
江戸時代のこのエリアを想像することができます。


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  これは幕末の地図で、
  左方向が御城になります。
  このエリアは四方を
  掘割に囲まれていたことがわかります。
  そして現在では御城に近い掘割の上に、
  高速道路ができているので、
  高速道路を辿れば、
  かつての掘割の形がわかります。

  現在の銀座は、江戸時代には
  「京橋南」と呼ばれるエリアで、
  「銀座」があったばかりではなく、
  尾張町という大店が並ぶ街や、
  能役者たちの屋敷、
  そして「紺屋町」「弓町」「鍋町」
  といった職人たちが
  入り混じっていたエリアでした。
  そしてさらには三十間堀川の向こう、
  木挽町は芝居の街でもありました。







家康が駿府から移した「銀座役所」があったところには、
「銀座発祥の地」の碑が立っています。

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碑はティファニーの店の前にあります。
その隣には「常是役所(じょうぜやくしょ)」といった、
銀貨に刻印を刻む役所があったそうです。



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中央通りをそのまま北に進むと京橋ですが、
高架の下に銀座のガス灯が再現されています。
明治5年の大火は
このエリアの4千戸を焼き尽くしてしまったので、
当時の東京府知事は、
これからの東京の、
いや日本の新しい文化の中心にしようと考えました。
イギリス人のトーマス・ウォートルスの設計で、
ジョージアン・スタイルの煉瓦のモダンな街を
作り上げたのでした。
煉瓦の街銀座の象徴とされる
ガス灯のレプリカがここに立っています。



f0186852_17311185.jpgさらに高架の下をくぐって進むと、
警察博物館の前に、
「京橋」と彫られた
大きな石の橋の親柱が立っています。
江戸時代には木製の橋でしたが、
明治になって石橋に替りましたが、
その石橋がここに記念として
残されています。







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中央通りを反対側に渡って、警察博物館との対面ほどの位置に、
「江戸歌舞伎発祥の地」の碑があります。
ここは江戸時代には中橋南地となりますが、
猿若勘三郎という役者が、
寛永元年(1624年)にこの地で、
江戸で初めて「猿若座」として歌舞伎の櫓をあげたもので、
これが中村座の始まりです。



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有名な「阿国歌舞伎図」で、阿国の後ろで踊っているのが、
猿若勘三郎(中村勘三郎)といわれているようですが、
阿国が京の四条河原で歌舞伎踊りを舞ったのが慶長8年(1603年)。
その11年後寛永元年(1624年)勘三郎はこの地にやってきて、
まだ町づくりの盛んな江戸の中心地に櫓を上げたのでした。


この記念碑の前に立っていると、
ここにあったのは、どんな小屋で、
そこではどんな演舞がおこなわれ、
観客たちはどんな風に楽しんだのか?
コンクリートに囲まれ、頭の上も車がひっきりなしに走る銀座の端で、
思いは一瞬、始まったばかりの頃の「江戸」に飛んでいるのでした。



さて、今回はここでおしまい。
続きをお楽しみに!










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by edo-ukiyo-doll | 2016-01-26 17:35 | 江戸の町 | Comments(0)

浮世絵で巡る日本橋~part1~


人数は少ないのですが(時にひとり)、「江戸研」なるものを開催? しておりまして、
先日は野外研修としゃれこんで、
お天気悪そうだし、
ならば逃げ場の豊富な「日本橋」を極めてみようと、
準備万端、参りましたところ、なんとあの大雪! 
幸いにも参加者2名だったので、元気よく雪の中に繰り出しました。

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まさに広重の描いた「雪の日本橋」がここにあります。
写真は日本橋南詰めから撮影しています。
高島屋はこの手前で、日本橋三越本店は橋を渡った左側になります。
慶長8年(1603)に、家康によって架橋され、
五街道の1里塚の出発点と定められました。

橋は「南詰め」とか「東詰め」といいますが、
南側、東側と、方角を表しています。
横長の画では、手前の橋が日本橋で、
橋の右側が「北詰め」、左側が「南詰め」になります。
有名な日本橋の魚河岸は、
北詰めの下流側(縦長の画では画面の下側に見えている屋根々々が魚河岸)にあります。


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幕末の日本橋の地図です。上のほうに横に流れているのが、日本橋川。



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  これは広重の『名所江戸百景』の
  「日本橋江戸ばし」。
  この画はどこを視点に
  描かれているのでしょう?

  当時は町方の橋に
  擬宝珠が付けられていたのは、
  日本橋と京橋だけなので、
  この橋は日本橋、
  とすると向こうに見えているのは、
  江戸ばしということになります。
  したがって上流から
  下流を見ていることになります。


向こうに見える白壁の蔵の並びが小網町だとご存じなくても、
橋上の魚の天秤桶で、
北詰めから南詰めに向かっていることがわかります。
天秤桶の後ろの桶だし、鰹が入ってるので、
魚市で仕入れ町なかに向かっていますよね。
おまけに、江戸橋の向こうに朝日が昇っています。

広重が『名所江戸百景』を出したのは、
安政の大地震で江戸の大半が破壊され、
江戸に住まう人々が災厄と困難に立ち向かっているときです。
初夏の曙の中を、勢いよく走り出す鰹売り。
たんに季節や名所を描いたのではなく、
江戸っ子広重が江戸っ子に送る、
復興のエールなのだと感じられます。



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さてこちらは、やはり広重の『東海道五拾三次』の「日本橋」。
この画は日本橋南詰めを描いています。
北詰には魚河岸がありますが、南詰めにあるのは高札場。
画の左側にある高札部分拡大します。

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   橋の向こうの魚河岸から
   魚を仕入れてきた男たちが、
   立ち話をしています。
   その左手に
   文字が書かれた板が
   たくさん下がっています。
   幕府からのお触書や、
   WANTEDの似顔絵なんかが
   貼られています。

高札場は全6箇所あって、ここには晒し場の併設されています。
法を犯した罪人が晒されているわけですが、
広重は画の中では巧みに見えないようにしている・・・・・・ということを、
以前うかがったことがあります。



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「日本橋」だけでも、
まだまだたくさんのお話があるのですが、
長くなりますので、続きはまた!


それにしても、この季節、
ちょうど赤穂浪士が討ち入りしたのが、
今年なら1月25日にあたるので、
ああ、浪士たちはこんな雪の中を、
吉良邸に向かっていったのかと、
ぼた雪で重くなった傘を振るいつつ、
「江戸の雪」を楽しんだ一日でした。
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by edo-ukiyo-doll | 2013-01-24 18:21 | 江戸の町 | Comments(0)

「江戸浮世人形」人形師・岩下深雪の江戸はここにあり       ホームページ開設 http://edoukiyoningyo.edo-jidai.com


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