カテゴリ:江戸歳時記( 80 )

「四十七」にかけた「仮名手本忠臣蔵」



きょうは12月14日。
赤穂の浪士たちが、
本所松坂町の吉良邸に討ち入った日です。


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      四段目「塩谷判官切腹の段」、五段目「二つ玉の段」、六段目「身売りの段」 3代豊国画



松の廊下での傷害事件が起きたのは、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)。
その日のうちに、浅野内匠頭は一方的に処罰され、
刃を抜かなかったとして、吉良上野介にはお咎めなし。
そして・・・・・・・
赤穂浪士47名は、翌年元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)、
吉良邸に討ち入ります。
この間、たった1年と3ヶ月。
なのに、討ち入りに加わった者、加わらなかった者、志半ばで脱落した者、
史実とされるものだけでも膨大なエピソードがあります。
さらにそこに、さまざまなフィクションが、次々とくわえられ、
その膨大な人間模様が、今も人々を惹きつけています。

f0186852_2143375.jpg 実際の討ち入りの翌年には、
 曽我兄弟の討ち入りに話を移して、
 上演されたといわれますが、
 たった3日目で、上演は禁止されているようです。
 しかし後には、
 近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃
 『碁盤太平記』は、
 大当たりをとりました。
 以降、この話の人気は続き、
 寛延元年(1748年)には、
 『仮名手本忠臣蔵』が、まず人形浄瑠璃として、
 すぐに歌舞伎としても上演されました。
 今や泉岳寺の四十七士の墓に参る外国人たちも多く、
 多くはその「ロイヤリティ(忠誠心)」に
 心打たれるのだそうです。
 

左は七段目。今は廓の女となったおかると、
縁の下で密書を盗み読みする斧九太夫 清長画


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       ところで、人形浄瑠璃や歌舞伎では
       『仮名手本忠臣蔵』というタイトルですね。
       あたまにくっついてる「仮名手本」ってなに?
       と思いませんか?
       これは「赤穂の四十七士」を、
       「いろはにほへと・・・・」が
       四十七文字あることにかけているわけで、
       しかも子供たちが手習い
       (京坂では「寺子屋」と言います)へ行くと、
       文字の練習するときに使うのがお師匠さんの「手本」。
       今でも、よく「お手本にしたい」などと言いますね。
       「仮名手本忠臣蔵」は、
       子供にもわかるような、
       お手本とすべきお話だったわけですね。

 

                 右も七段目、密書を読む大星由良之助と
                     上は鏡を持つおかる、縁の下には斧九太夫 
                     礒田湖龍斎画









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by edo-ukiyo-doll | 2016-12-14 21:39 | 江戸歳時記 | Comments(0)

♪踊れ、踊れ、盆踊り♪

月遅れのお盆には、あちらこちらで盆踊りの太鼓や音楽が聞こえてきます。
房総半島に引っ越したころ、どこからか盆踊りの音が聴こえてきて、
辿って行ったらすごく遠いとこで、歩いていった我が家では、
帰りが大変だったことを思い出します。

東京にお住まいの方も、各地にお住まいの方も、
盆踊りは懐かしい夏休みの思い出でしょう。


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盆踊りというものの起源は古いです。
しかも純粋に日本発祥の物のようです。
平安時代に空也上人が、民衆に念仏を広めようと、
自ら瓢箪をたたいて、
念仏を今の歌のようにメロディーに乗せて歌うがごとくに唱え、
踊りも付け、
「踊念仏」というものに仕立てたのだとか。

さらに時代が下って鎌倉時代には、
一遍上人を中心とする「踊る」僧、尼僧たちは、
いわばトランス状態にもなり、まさに「踊る宗教」!
これは「念仏踊り」といわれましたが、
またたく間に全国に広がって、
一大ブームを巻き起こしました。
踊り&唱えることによって、救済されるとなれば、
民心は激しく共鳴しないはずがありません。

どうやらこれが、盆踊りの起源のようです。


やがてこれが盂蘭盆会の行事と結びつき、
死者の魂の帰ってくる盆中に、
死者の姿を映して頬被りをして踊る、
という風習が残っている地域もあります。

今も秋田県の西馬音内(にしもない)では、
踊り手の中には黒頭巾をかぶって踊る姿があり、
折り笠を深くかぶった女性の踊り手と相まって、
それはそれは優雅で風雅な盆踊りです。


さて、江戸時代の盆踊り浮世絵。

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「うちわ絵」らしいのですが、なんと楽しそうな盆踊り。
西瓜を両手に、食べ終わった西瓜の皮をかぶった人。
閼伽桶(あかおけ/墓参りの水桶)をかぶった稚児さん。
坊さんみたいな人は蓮の葉っぱをかぶり、
隣のおいちゃんは器用に頭に盆灯籠を載せてます。




室町時代には、太鼓をたたいて踊るようになりますが、
江戸時代に入ると、民衆の経済力や独自性が強くなったことや、
次第に宗教性よりも娯楽性が強くなったことなどから、
音楽や衣装も凝ったもの、斬新なものが人気を呼び、
それが各地で独自に発展していきました。


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また、もともと日本的信仰のおおもとでもあった性の解放的な雰囲気と結びつき、
男女の出会いの空間ともなります。
上のような「源氏絵」にも描かれたのを見ると、
実におおらかな、なんと楽しい空間だったことでしょう。







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by edo-ukiyo-doll | 2016-08-15 16:49 | 江戸歳時記 | Comments(0)

隅田川の屋形船 part2

隅田川の花火大会、絶好の花火日和で、
素晴らしかったですね。
ジェリーフィッシュというのが、今年の流行でしょうか。
広重さんにも、ちょいとご覧いただきたかった。


屋形船の続きです。

屋形船には台所がついているので、食材を積み込んで調理をして提供できます。
「吸ひ物を出すで屋根船そのけぶさ」
現代の屋形船でも中には、調理設備のある船もありますが、
江戸時代には裸火ですから、風向きによっては煙いのでしょう。
後には別料金で、調理専門の小舟を雇うこともできたようです。
これなら風向きに合わせて煙い思いをしないですみますね。

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わざわざ調理しなくても、
隅田川の夏のシーズンには、うろうろ舟という小舟がいます。
これは西瓜や梨など水菓子(果物)をはじめ、
餅やまんじゅう、その他の菓子、またちょっとした料理したものを積んで、
船々の間を塗って売りに来るもので、
大坂なら「くらわんか舟」と呼ばれるのと同じ。

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赤い置き行燈をつけた「うろうろ舟」。



「吉野から猿に西瓜を投げてやり」
という川柳は、屋形船の「吉野丸」の近くを、猿回しの舟が通ったのでしょう。
その猿に西瓜を投げてやったというわけ。

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                    右の浮世絵、
                「吉丸」と書かれた看板が見えます。





屋形船の内部を見ますと、これは何? と思うようなものもあります。

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これも「川一丸」ですが、舳先にこんなものが載っています。

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これは「台の物」と呼ばれる
大きなな塗り台に載せた料理です。
吉原の宴席によくみられる装飾的なもので、
もとは皆でつまんで食べるように
盛ったものでしたが、
時代が進むにつれて、
このように立花も添えて
さらに装飾的になったようです。
涼み船での宴会でもやはり、
台の物は宴席の象徴なのでしょう。


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これは別の船の「台の物」。
時代が少し後なので、
盛り方もちょっと違っています。


そして船の中では、太鼓や鼓、三味線など携えて、舞踊の用意もしているようです。
こうやって楽しんでいたのですね。
宴会に音楽、暗くなれば花火が上がって、
なるほど、現代の屋形船はカラオケになりますが、
この江戸の形態をそのまま受け継いでいるのですね。

花火を見上げながら川風に吹かれ、歌に踊りに、
大宴会を催す大型の「楼船(やかたぶね)」は文化文政期には20艘ほどあったそうです。


現代の私はといえば、テレビで隅田川花火大会を見ながら、
川面を埋め尽くすほどの舟、船……、どんなに賑やかだったことかと、
江戸に思いを馳せたのでした。









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by edo-ukiyo-doll | 2016-08-01 10:24 | 江戸歳時記 | Comments(0)

隅田川の屋形船 part1

明日は隅田川の花火大会。
毎年、テレビで中継されるので、もっぱら家でいながらにして花火を楽しんでいます。

この隅田川の花火大会は、戦争や隅田川の汚染など中断されましたが、
江戸時代、8代将軍吉宗の時から連綿と続くものです。
2009年7月に、このブログでご紹介しているので、のぞいていただければ幸いです。
http://edococo.exblog.jp/11550670
旧暦だった江戸時代には、
5月28日(今年なら7月2日にあたる)に「川開き」といって、
隅田川で花火を打ち上げたり、
両国橋のたもとの様々なお楽しみ所も、夜遅くまで営業できるシーズン。

川開きからは、夜ごと花火が打ち上げられ、
両国橋の畔はさまざまな小屋掛けの興行や飲食店などが深夜まで営業し、
隅田川には大小の「涼み船」がひしめきあって、凄まじいほどの賑わいです。

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小型の舟でも屋根の付いているのもあって、「屋根舟」とか「日除け舟」と呼ばれ、
一番多く使われます。
屋根に人が乗った大きな船は「屋形船」。

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屋根の上に人が乗っているのが見えますね?
この人々は操船の人たちで、大型の船では屋根の上から長い竿をさして、
船を動かしているのがわかります。
そこでこんな一句もあります。
「船頭の足音を聞くいい涼み」


この屋形船というのは「楼船」とも書きますが、
7~8間(12~15メートルくらい)の大きさが多く、
最大では11間(約20メートル)の物があったといわれています。
現代の隅田川の屋形船はだいだい16メートルくらいなので、大きさは想像できますね。


江戸時代に入ってすぐの頃には、まだ「ひらだ舟」と呼ばれる小さな平底舟を、
浅草川に浮かべて涼んでいたようですが、
これがたいそう大名たちの心を惹いたようです。
大名ともなると大勢の供の者がいますので、
どんどん大型化していきます。

ところが明暦の大火(1657年)で、江戸の町の半分も焼き尽くされ、
再建のために大型の船は運搬用に使われ、
しばらくは遊船も影を潜めていました。
それが、何年か経ち江戸の町も復興されると、
大名たちはまたぞろ大型船を復活させ、
それまでよりもぐんと大型になっていき、
ついには大きさに規制が出されました。



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鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)描くところの屋形船「兵庫丸」。



船には名前が付けられ、浮世絵にもたくさん描かれています。
「川一丸」「吉野丸」などが有名ですが、
「熊一丸」や「山一丸」などもあり、
座敷が9間(約16メートル)あり台所が1間(1,8メートル)あるので、
「九間一」……「くまいち」丸。
じゃあ「山一丸」は? 
座敷が8間、台所1間で「八間一」……「やまいち」丸!
こんなとこにも江戸っ子のダジャレ心が効いているんですね。



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広重の描いた「川一丸」











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by edo-ukiyo-doll | 2016-07-29 14:16 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏ごはんは「夕鯵」

鯵は年間を通して出回る魚ですが、
夏に一番おいしいのだと、
漁師さんや魚市場の人たち、釣り人たちもよく言います。
漁村育ちの私も、やっぱりそう思います。

そして江戸でももちろん、夏を中心によく獲れ、この時期の鯵は、
「六、七寸ばかりに過ぎずして円肥なるもの、味わい、はなはだ香美にして、
最も炙食によし、あるひは鮓となし、煮となし、膾となすも、また佳なり。」
と、元禄期の『本朝食鑑』という書物にも書かれています。
20㎝くらいの丸々したものは、すこぶるおいしく、
焼き魚にしたら最高だし、鮓にしても、煮ても、あるいは野菜と和えてもうまい、
というほどの意味。

江戸ではことに「夕鯵」と呼んで、
夏の晩ごはんには人気の一品になります。
日中に近海で漁をして、河岸からすぐに小売りの魚屋が担いできますから、
夕方には町々に「あじぃ、あじ」という呼び声で、
今夜は鯵の刺身で一杯! など思う人も多かったのでしょう。

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    広重画 海老と鯵


「鯵を呼べやいと盥(たらい)の中で言ひ」
だなんて、亭主が裏庭で行水していると、
塀の向こうから鯵売りの声が聞こえたのでしょう、
「鯵、買えよ~」と盥の中から叫んでいます。

「水うったあとに涼しきあぢ(鯵)の声」
魚屋は日が傾きかけ、打ち水された路地にも入ってくるのでしょう。
扇風機だってない江戸の人々にとって、
打ち水の上をふいてくる心地よい風、行水でさっぱりして、
さて、夕鯵の晩餉(晩飯)はこれぞ夏! 

ピン! と反り返った新鮮な夕鯵のうまさは、庶民だけの物ではありませんで、
「物見から鯵よ廻れの品のよさ」
武家屋敷の物見やぐらからでしょうか、下を通る魚屋に声がかかります。
「廻れ」というのは勝手口、台所に廻れということ。
お武家ですからその呼び止める口調にも品の良さがあるのですね。
ドラマのワンシーンみたいです。

さて、今夜は房州沖の鯵を買いましょうか。
たたきや刺身もいいのですが、子どもの頃に良く作ってもらった「鯵のあんかけ」が懐かしい。
粉をまぶして油で焼いた鯵に、千切りの人参、玉ねぎ、ピーマン、筍など、
夏野菜をあん仕立てにして、お酢もきかせ、
焼いた鯵にたっぷりとかけていただきます。

では、みなさまも今夜は「夕鯵」、たんと召し上げれ。









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by edo-ukiyo-doll | 2016-07-16 07:09 | 江戸歳時記 | Comments(0)

酒の燗に紅葉を焚く

以前ブログで「紅葉」と「楓(かえで)」の区別がわからない、
と書きましたが、わかりましたよ~!
区別などない、紅葉も楓も同じもの、二つ呼び名があるってことでした。
すっきり~。

ところで、紅葉狩りにはもうおいでになりました?



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江戸の人々にとっては、紅葉狩りもまたイベントの一つ。
春の花見(桜)が大衆受けするイベントなら、
紅葉狩りはちょいと風流人たちの対象というところ。
そして風流の表し方に、こんなのもあります。



f0186852_6474652.jpg  これは鈴木晴信の画ですが、
  位の高い遊女が客の若者に、
  火鉢で燗鍋を温めています。
  そして炭のかわりに、
  禿に集めさせた紅葉を焚いています。
  なるほど風流じゃあ、
  とここで終わってはいけません。
  背後にある衝立(ついたて)をご覧くださいね。
  いろんな文字や絵が貼ってあり、
  これを「貼交(はりまぜ)衝立」といいます。



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衝立にこんな文字が書かれています。

「林間煖酒焼紅葉」

これは中国・唐の時代の詩人白居易(はくきょい)の詩の一節。
「林間に酒を暖むるに紅葉を焼(た)く」
というものです。
これに倣って遊女は紅葉で酒を温めているわけです。


「林間煖酒焼紅葉. 石上題詩掃緑苔」
と続くのですが、
「林間に酒を暖むるに紅葉を焼き、石上に詩を題するに緑苔を払う」
(りんかんに さけをあたためて こうようをたき、せきじょうにしをだいしてりょくたい をはらう)

平安時代からあまりにも有名な一句です。
親しい人が山に帰るというので、共によく遊んだ山の寺でのことを詠ったもので、
林間に舞い散る紅葉を焚いて酒を煖め、
石上に緑の苔をはらって詩を作ったよね!
という詩です。

さらにその後には、
「惆悵旧遊復無到 菊花時節羨君廻」
と続き、その意味は、
だけど残念ながら、あの遊んだ地にもう二度とは行けないのだ。
菊の花の咲くこの時節に、帰っていく君を羨ましく思うよ。

幼いころから遊んでいた仲間が山に帰っていく。
その山での楽しかった日々を思い出しているのです。


もちろん、春信の絵の中のお話しですから、
お客も前髪立ちの若者というか、少年? になっていますが、
江戸・吉原の位の高い遊女たちは、漢詩をも身につけ、
お客にこのような風流なもてなしもしていたようです。
当然、客もこの詩は知っていて、
雨の紅葉を、遊女と知的な遊びを楽しんでいるのでしょう。
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by edo-ukiyo-doll | 2015-11-19 07:35 | 江戸歳時記 | Comments(0)

「梨園」……「りえん」ではなく、「なしぞの」


歌舞伎ではなく、水菓子の話です。

果物が店頭にぎわすシーズンです。
梨もそのひとつ。
洋梨もありますが、幸水や豊水、二十世紀など、和梨と呼ばれる丸い梨。
「和梨」というからには、日本も原産地のひとつで、
弥生時代にはすでにあり、『日本書紀』にも記述があるとか。
自生していた梨を、食用に改良していったようです。
古くには「なし」は「無し」に通じるとして、
「ありのみ(有りの実)」と呼びましたし、
敷地内には植えるべからず、という風習がありました。

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千葉県が梨の全国一の産地だそうで、
そういえば電車からも、一面の梨畑を目にします。
梨ワインというのもちょうだいしたことがあります。


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津田大浄という人が文化年間に書いた、
紀行文『十方庵遊歴雑記』に、
下総の市川の渡しを越えて
船橋までの3里ほどの間の村々には、
一面の梨畑がある。
甲州以外の江戸近郊では
下総が第一の梨の名産地で、
特に「淡雪」というのがとても上品で水分も多く、
おいしいなどと記したようです。


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この地に梨をもたらしたのは、
江戸時代後期に入ったころ、
川上善六という人物でした。
善六の住む八幡(市川に隣接)は、
砂地だったために稲作には難しく、
地質に適したものを探していた時、
李白の詩の一節、
「梨花白雪香」から啓示を受けたといいます。
なんとしてでも、この地に梨を実らせたい!
その一念で、
地元の人々のにそしられることもがあっても、
前に進み続けました。



そして寛政年間(1789~1801年)、美濃や尾張を視察に回り、
同じ砂地だった尾張から、強い梨の苗木を持ち帰り、
ついにはしっかりとした実を付ける梨の木を、育てることに成功したのだそうです。


善六は梨の栽培方法も惜しみなく人々に広め、
やがて「八幡梨」といういわばブランドで、
江戸の水菓子には欠かせないものとなったのでした。
これは将軍家にも献上されています。

  
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夜商いの水菓子売り
梨が積まれている

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                     梨の拡大。八幡の梨だね。
















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by edo-ukiyo-doll | 2014-09-25 21:10 | 江戸歳時記 | Comments(0)

雪見としゃれる


今年は立春に雪となり、そして週末にまた大雪となりました。
雪に慣れていない東京では、
気象庁から外出は控えてくださいというお達しも。



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山谷堀へ雪見に向かう人々

さて、江戸の頃は、江戸でも結構雪が降ったようで、
雪の浮世絵もたくさんあります。

「いざさらば 雪見にころぶ ところまで」
芭蕉の句ですが、
これは、一面の雪に、
「さあさあ、こんなに(さあらば)雪が降ったなら、雪見に行きましょうか。
雪で転んでしまうあたりまで、どこまでも」
それほどの気持ちではないかと思います。

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「雪月花」で、月見や花見があるならば、
雪見があってしかるべき、とも思うのですが、
現代では雪見などする人はあまりみかけません。

雪を愛でることは、
江戸の風流な人々にはこの上なく、
趣のある行楽だったようで、
家のこたつから雪見としゃれ込む人もいれば、
船で雪の景勝地へ出かける人もいます。


     隅田川には船。雪の待乳山(まっちやま)が素晴らしい。




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「木母寺(もくぼじ・向島にある)雪見」というタイトルの付いた広重の描いた雪景色。
高名料亭の「植木屋」の船着場です。



現代の、すっかりビルディング群に囲まれてしまった景色では、
たとえ雪がそれらを覆ったところで、
あまり景色もよくはないですしね。

でも江戸の頃は雪は、また別の美しい景色を生み出し、
人々には、時間もまた心にも、たっぷりとゆとりがあったので、
こうやって雪の風情を楽しむことができたのかもしれません。











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by edo-ukiyo-doll | 2014-02-08 17:35 | 江戸歳時記 | Comments(0)

雁の伝説

「雁が渡って行く」
なんとうつくしい言葉だろうかと、いまさらながら思うのだが、
雁が渡っていく空を、久しく見たことがない。
子どものころは故郷の津軽で、
鍵(「く」の字型)になって飛んでいるのを見たのだったが・・・・。


日本に渡ってくる雁はシベリアで繁殖し、
秋になると日本で越冬するために、やってくる。
そして春にはまたシベリアへと帰っていく。
「初雁」は最初に渡ってくる雁で、秋を告げるものとされる。

浮世絵には、雁が描かれたものがたくさんある。


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手元にはないが、本郷の月を背景にして、3美女が並ぶそこに、雁行が描かれている画がある。
たしかに江戸では、フツーに雁が渡ってきていたのだ。
江戸でさえ見られた雁・・・・。
では、いったい、雁たちはどうなってしまったのか?
古来より、雁は鴨などと同様に、狩の対象とされていたが、
1971年には、全国で数千羽まで減少し、狩猟は禁止。
マガンやヒシクイといった雁の類は、準絶滅危惧種となったという。
なるほど、なかなか雁を見ないのも、無理はなかったのね。



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津軽の北のほう、北海道の函館に近い、外ケ浦という海辺には、
「雁風呂」という言い伝えがあるそうだ。

雁たちは北から渡ってくるときに、枝をくわえて持ってくる。
疲れたら、海の上にそれを浮かべて休む。
津軽の浜に到着すると、雁たちは枝を浜辺に置き、
春になってまた北に帰るときに、浜に置いた枝を持って行く。
帰る時期を過ぎても浜に残った枝は、
冬にあえなくこの世を去った雁のもの。

帰れなくなった雁たちの供養のため、
村人たちは残された枝を集め、風呂を焚く。



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江戸の人たちはそんな伝説を知っていただろうか・・・・。
雁を描いた絵師たちの心には、
きっと同じようななにか、
渡るその姿に、哀愁のようななにかを感じていたのかもしれない。





















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by edo-ukiyo-doll | 2013-11-07 11:47 | 江戸歳時記 | Comments(0)

お江戸花見ツアー 「小金井桜」


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さても、お江戸も桜(はな)の頃となりました。
桜の名所は数々あれど、まず第一は東叡山、
上野のお山でございましょう。
それから品川御殿山に、王子の飛鳥山はいうまでもなく、
墨堤の賑わいもいかばかりかと・・・。
でも、ちと見飽きた聞き飽きたとおっしゃる方へ、
小金井の桜堤などいかがでしょう。
東都からは7里半(30kmほど)もありますから、
ワンデイ・トリップはムリです。
1泊覚悟で、ではゆるりと出かけましょうか。


今でしたら電車ですぐですけれど、
お江戸では、まずは四谷から内藤新宿へ出ます。
(私だってこの程度なら歩けます。この道はよく歩きましたモン)。
そしたら淀橋(ヨドバシカメラ発祥の地。西新宿)をぬけ、
中野へ向かいます。
左に鍋屋横丁があり(よく飲みに行った)、
堀の内を過ぎます(だんだん私にはわからなくなってきた)。
それからとにかく光円寺むら(お、高円寺のことですな)をめざし、
右には阿佐ヶ谷神明の道があるそうな(ご存知の方、そう?)。
このむら(村)をず~~~っと過ぎていくと左へ別れ、
この道が小金井へ行くらしい。


さて、日も暮れるといけませんので、
早足になり(というより、一気にワープしま~す)、
はい、ここが小金井の桜並木です。

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この川は「玉川上水」。
そうです、お江戸の町に水を運ぶ玉川上水です。

この橋は小金井橋といいますが、
「この橋上より眺望すれば、雪と雲とまがひて、一目千里前後 尽くるを知らず」
だそうで、なんたって、
かつては一面のススキの原だったところが、
見事なまでの桜の名所に大変身を遂げたのですから。
ま、それまでには、何十年もかかってはいますが。

ご存知、玉川兄弟の飽くなき挑戦によって、
ついにこの地に上水が完成しますと、
今度は幕府の命を受け、川崎平右衛門定孝という人が、
武蔵野新田世話役となって、
新田開発の責をにないました。
すると平右衛門さんは、
新田の開発もさることながら、元文2年(1737)には、
小金井橋を中心に玉川上水の両岸6キロの間に、
2000本もの山桜を植えたのでした。


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単に美しい風景にしようというのではありません。
堤に桜が根を張り、頑強な堤防を作ってくれますし、
夏は木陰で人々が暑さをしのぐことができます。
また、この頃は桜に解毒作用があると思われていて、
花びらが上水に落ちて水を浄化すると考えたとか。
  (そういえば、かつおにあたって頭痛がひどくなったら、
    桜の木の皮をしゃぶる・・・・というのがありましたね)
そして、これほどの桜ですから近隣のみならず、
江戸からも花見客の足を向けさせる
・・・・その経済効果をも狙ったようです。


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やがて50年ほどたちますと、
小金井桜は多くの絵師によって描かれ、喧伝され、
文化文政の頃(1804~1830年)には、
関東随一の桜の名所として、名をはせてゆくのです。

もうその頃になりますと、
近隣の農家の人々は、花見時には自宅で貸し座敷や、
茶店の経営に乗り出して、
貴重な現金収入となったようです。
小金井橋のたもとにある「粕屋」は、江戸にまできこえた酒楼らしく、
この一帯は、料理茶屋や茶店がおびただしいほど並んでいます。


や~、いいだろうなあ。
文政の頃の小金井桜ツアーに行きたいですね。


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*注 「小金井桜ツアー」は、参加人員を募集しておりません。
このブログのコメント欄や、HPのメールからお申し込みになりませぬよう、
お願い申し上げます。
あくまで江戸の道ですし、
そもそも添乗員が方向音痴のため、はなから無理です。
あしからず
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by edo-ukiyo-doll | 2013-03-23 23:01 | 江戸歳時記 | Comments(0)

「江戸浮世人形」人形師・岩下深雪の江戸はここにあり       ホームページ開設 http://edoukiyoningyo.edo-jidai.com


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