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カテゴリ:江戸歳時記( 73 )

お江戸花見ツアー 「小金井桜」


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さても、お江戸も桜(はな)の頃となりました。
桜の名所は数々あれど、まず第一は東叡山、
上野のお山でございましょう。
それから品川御殿山に、王子の飛鳥山はいうまでもなく、
墨堤の賑わいもいかばかりかと・・・。
でも、ちと見飽きた聞き飽きたとおっしゃる方へ、
小金井の桜堤などいかがでしょう。
東都からは7里半(30kmほど)もありますから、
ワンデイ・トリップはムリです。
1泊覚悟で、ではゆるりと出かけましょうか。


今でしたら電車ですぐですけれど、
お江戸では、まずは四谷から内藤新宿へ出ます。
(私だってこの程度なら歩けます。この道はよく歩きましたモン)。
そしたら淀橋(ヨドバシカメラ発祥の地。西新宿)をぬけ、
中野へ向かいます。
左に鍋屋横丁があり(よく飲みに行った)、
堀の内を過ぎます(だんだん私にはわからなくなってきた)。
それからとにかく光円寺むら(お、高円寺のことですな)をめざし、
右には阿佐ヶ谷神明の道があるそうな(ご存知の方、そう?)。
このむら(村)をず~~~っと過ぎていくと左へ別れ、
この道が小金井へ行くらしい。


さて、日も暮れるといけませんので、
早足になり(というより、一気にワープしま~す)、
はい、ここが小金井の桜並木です。

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この川は「玉川上水」。
そうです、お江戸の町に水を運ぶ玉川上水です。

この橋は小金井橋といいますが、
「この橋上より眺望すれば、雪と雲とまがひて、一目千里前後 尽くるを知らず」
だそうで、なんたって、
かつては一面のススキの原だったところが、
見事なまでの桜の名所に大変身を遂げたのですから。
ま、それまでには、何十年もかかってはいますが。

ご存知、玉川兄弟の飽くなき挑戦によって、
ついにこの地に上水が完成しますと、
今度は幕府の命を受け、川崎平右衛門定孝という人が、
武蔵野新田世話役となって、
新田開発の責をにないました。
すると平右衛門さんは、
新田の開発もさることながら、元文2年(1737)には、
小金井橋を中心に玉川上水の両岸6キロの間に、
2000本もの山桜を植えたのでした。


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単に美しい風景にしようというのではありません。
堤に桜が根を張り、頑強な堤防を作ってくれますし、
夏は木陰で人々が暑さをしのぐことができます。
また、この頃は桜に解毒作用があると思われていて、
花びらが上水に落ちて水を浄化すると考えたとか。
  (そういえば、かつおにあたって頭痛がひどくなったら、
    桜の木の皮をしゃぶる・・・・というのがありましたね)
そして、これほどの桜ですから近隣のみならず、
江戸からも花見客の足を向けさせる
・・・・その経済効果をも狙ったようです。


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やがて50年ほどたちますと、
小金井桜は多くの絵師によって描かれ、喧伝され、
文化文政の頃(1804~1830年)には、
関東随一の桜の名所として、名をはせてゆくのです。

もうその頃になりますと、
近隣の農家の人々は、花見時には自宅で貸し座敷や、
茶店の経営に乗り出して、
貴重な現金収入となったようです。
小金井橋のたもとにある「粕屋」は、江戸にまできこえた酒楼らしく、
この一帯は、料理茶屋や茶店がおびただしいほど並んでいます。


や~、いいだろうなあ。
文政の頃の小金井桜ツアーに行きたいですね。


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*注 「小金井桜ツアー」は、参加人員を募集しておりません。
このブログのコメント欄や、HPのメールからお申し込みになりませぬよう、
お願い申し上げます。
あくまで江戸の道ですし、
そもそも添乗員が方向音痴のため、はなから無理です。
あしからず
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by edo-ukiyo-doll | 2013-03-23 23:01 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸の町に響く餅つきの音

年の瀬も迫ってきましたが、
大掃除の13日頃から、江戸では餅つきが始まります。
ずいぶん早いと思われるかもしれませんけれど、
この頃から大晦日の夜があける頃まで、
江戸中で餅つきが行われます。


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武家や大店では、自分の家で餅をつきますが、
「引きずり餅」といって、町内の鳶や人足たちが5人くらいで1組になり、
注文のあった家の前で、餅をつきます。
杵の音高らかにもちをつかせるのは、ちょっとした自慢だったようです。
この人たちは餅つきに必要な道具、
かまど、せいろ、うすに杵、薪も持参して一式を用意し、
景気よくつくのを信条としました。
「千本杵」といって、数人の男が歌に合わせて、一気につき上げる
などというパフォーマンスもあったほど、派手だったようです。
これも江戸っ子の見栄でしょうね。
菓子屋に注文する「賃餅」は、格が低い家と思われて、
「引きずり餅」を頼む家が多かったそうですよ。
まあ、長屋はみんながまとめて頼んだり、賃餅だったでしょうね。

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つきあがった餅は、大根おろしのからみ餅にして、
まずみんなでいただきます!
それから、「配り餅」といって、
塩魚や干魚などとともに、知人や親戚に配ったりもします。

上の浮世絵は豊国が描いた
『甲子春黄金の若餅(きのえねはるこがねのわかもち)』。
この画の左手、ゴザの上に大量のもちが並んでいますが、
たくさん作るのは配るためでもあるのです。

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この画を基に作ったのが、この作品「もちつき」です。
(立っている人形の大きさは、13センチくらいです)

こうして、年神さまを迎える準備が着々と進んでいきます。
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by edo-ukiyo-doll | 2012-12-27 18:14 | 江戸歳時記 | Comments(0)

鶏を奉納する元祖「酉の市」

今年の「酉の市」は8日と20日の二の酉まで。
東京なら花園神社や、府中も有名ですが、何といっても浅草です。
江戸時代なら、吉原の西門も、酉の市の日には開けて、誰でも通れるようにしますから、
その賑わいは浮世絵にも多く描かれ、江戸の風物詩のひとつですね。

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浅草の酉の市は明和期に始まったようで、吉原に行く口実も効いて大いににぎわい、
今に至ることはよくご存知でしょう。
浅草は「新酉」といわれ、これに対し「本酉」あるいは「大酉」「元酉」といわれていたのが、
いわゆる「葛西花又村」の鷲(わし)大明神社です。
葛西花又村というのは、現在では足立区花畑の一部となっていますが、
現在の江戸川区葛西より、ずっと北のほうです。
葛西はすご~~~く広いエリアを指していたのですね。


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上は『江戸名所図会』に描かれた「鷲大明神社


さて、鷲大明神社は今では「大鷲(おおとり)神社」とか「花畑大鷲神社」と呼ばれ、
酉の市には大いに賑わっています。
江戸時代には、この大明神の本尊は鷲に乗った釈迦如来像でしたが、
そのいわれは伝説に頼ることになります。
話が長くなるので、それはまた来年に譲ることとして、
酉の市は「酉の祭り」が次第に呼び方が変化したものです。
そして元祖・花又村の鷲大明神社の酉の市は、
近郊の農民の収穫祭とミックスされて行われるようになったようです。

『江戸名所図会』にも、鷲大明神社では11月の酉の日は「酉のまち」が行われ、
近くの農民が鶏を奉納する。
そのあと、奉納した鶏は浅草寺観音の堂前に放つとあります。

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鷲大明神社」に奉納した
鶏のようす



花又村から浅草まで運んだのでしょうか。
浅草寺では「納め鶏」として、ここで放し飼いをし、
境内では楊枝と同様に、鶏の餌を売っています。


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もともと鷲大明神社の氏子は鶏は食べず、
社家(大明神を継ぐ家)では卵すら食べなかったそうで、
鷲(わし)がいつかしら鶏に移行してきたのでしょう。
奉納した鶏が、浅草寺の境内を「コッコッコッココ」と
歩き回ってる・・・なんて光景を想像すると、
ああ、江戸時代っていいなあ! いいなあ! 行きたいなあ!
と思うのであります。
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by edo-ukiyo-doll | 2012-11-08 19:42 | 江戸歳時記 | Comments(4)

涼を運ぶ江戸のアイテム

江戸のころの涼を呼ぶ工夫のひとつに、
こんなものがあります。
画の左下に描かれた緑の置物。

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水盤部分を拡大しています。
稗のなかに笠と蓑をつけ、弓矢を構えた狩人。
向こうに鶴がいます。金魚もいますね!


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現代ではこのようなものは、「水盤」と呼ぶようですが、
江戸のころには「稗蒔(ひえまき)」と呼んでいます。
平たい陶磁器の器に、みどりの苗のようなものを植えてありますね。


この草が稗で、夏になりますと
「ひえまァき~、ひえまァき~」という呼び声で売りにきます。
稗蒔売りは、天秤棒に四つ手にした台を提げ、
4,5センチに育った稗を入れた水盤を載せて、町中を流します。
この水盤は、小さいのなら5寸(約15センチ)から、
大きいのでは1尺(約30センチ)のもので、
これは田んぼや水辺の葦などに見立てたものですから、
ここに小さな橋や、笠に蓑をまとった小さな人形、
鶴と狩人などの今で言えばフィギュアを置いたりしています。


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上の画に見えるのは、上から水を入れると
噴水のように水が吹き上がるもので、
「水からくり」といいます。

「稗蒔のわづか四文の青あらし」
売りに来る稗蒔は小さいのだと四文(80~120円ほど)で、
青々と草をゆすり吹き渡る初夏の風を思わせるのでしょう。


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水からくりには、こんな大がかりなものもあります。
上の瓶に水を注ぐと、水圧でしたまで勢いよくきて、
円錐形の部分から引きあがる簡単な仕組み。
大人の「夏の自由研究」に、身の回りにあるものを利用して、
「水からくり」作ってみませんか?
江戸の涼を呼ぶ水盤や水からくり、
涼しげでしかもたのしい! 家族で楽しめますね。




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一番上の画を参考に制作した「カニさん」。
水盤も狩人と鶴を作って入れました







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by edo-ukiyo-doll | 2012-08-19 08:54 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸の盆


江戸のお盆は、なかなかに忙しいのですが、文月12日には、盆市が立ちます。
盆市はお盆の行事に必要なもの一切を商う市で、「草市」とも言われます。
東京ならば、もんじゃ焼きで有名になった月島で、
新暦のお盆になりますが、現在も続いていて大いににぎわっています。
      

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お盆は盂蘭盆会のことですが、
文月の13日~16日は「魂祭(たままつり)」といって、
ご先祖さまの霊を迎える習慣は、現代もおなじですね。
現代よりはもっとしっかりしてまして、
家の中には竹で精霊棚を作り、ここにお供えをします。
そういえば子どものころ、田舎の祖父の家で精霊棚を見た記憶があります。
その土地ではお墓の前にも小さな精霊棚をつくって、お供えをしていましたっけ。



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さて、江戸です。
7月12日の昼から、
市中の各所で開かれますが、
12日は吉原仲ノ町、深川櫓下、
本所四ツ目などで。
13日には日本橋や両国、
人形町などで、さまざまなものが売られます。

竹、菰のむしろ、間瀬垣(ませがき)、苧殻(おがら)、ほおずき、
白や黄の茄子、紅花、榧(かや)の実、青柿、青栗、秋の花々、
蓮の葉、蓮花、瓢箪、瓜などで作った牛馬、盆燈籠、盆提灯、
線香、焙烙(ほうろく)、
そのほかに、さまざまな菓子や食べ物も売っています。
盆市でなくても、荷担い売りが町にやってきますので、
それでもお盆のしたくはできますが、やっぱり市は楽しみです。



12日の夜には、迎え火をたきますが、
いまでも土地によっては、迎え火、送り火をたかれるところもありますね。
場所によっては13日の朝にたくところもあります。
これは十億万土の彼方から、
精霊が迷わないでたどり着けるようにとか、
たいた煙に乗ってやってくるから、などと言われています。



盂蘭盆会の期間を「盆中」と呼んで、
墓参りをしたり、僧侶を家に呼んでお経をあげてもらうのは、
これも現代でも同じですね。


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現代で見られない盆の様子があります。
江戸の街中では、女の子たちが手をつなぎ連なって、
歌を歌い歩くのですが、これが「かまびすしい」とまであります。
これは、延宝5年(1677年)には禁令が出るほどで、
文月に入るなり、女の子たちはいたるところで踊りまくり、
衣装も華美になって、エスカレートしていったためのようです。



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文月の13日には、
王子稲荷の大祭もありますし、
吉原の灯籠も
見に行かなくっちゃならないし、
盆踊りも参加したいし、
江戸のお盆は大忙しで、
16日の朝に送り火をたいて、
ご先祖さまをお送りして、
やっと一息つける、
といったところでしょうか。


盆灯篭もとってもきれいで、心惹かれます。
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by edo-ukiyo-doll | 2012-08-13 20:08 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏の物売り。「夏を乗り切る」薬売り。

枇杷の葉のお茶を飲んでる方もいらっしゃるのではと思いますが、
江戸の頃には、「枇杷葉湯」といって、枇杷の葉に、
肉桂(にっけい)や甘草(かんぞう)など、数種の薬草を混ぜて煮出した、
いわばハーブティーは、夏の定番の手軽な煎じ薬でした。
暑気当たりやかくらん、くだり腹に効くそうで、
甘草が入っているので、ほのかに甘いのでしょう。
無料で飲ませて宣伝し、良ければ買ってもらうという販売です。

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上の図の右にいるのが
枇杷葉湯売り。
拡大してみます。














  「枇杷と桃 葉ばかりながら 暑気払い」
桃の葉も、あせもや湿疹など皮膚の炎症などを抑えるので、
お風呂にいれたり、特に夏には欠かせないものです。
枇杷も桃も実を食べるのに、「葉っぱばかり」使うのと、「憚りながら」をかけた川柳。


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これも枇杷葉湯売り





本店は京の烏丸にあり、江戸には天明(1781~88年)の頃に、
薬炉を取り付けた箱を担いで、通りを行く人々に飲ませる・・・・
ってなことを、太田南畝が書いているそうで、
これが「京の烏丸枇杷葉湯」という薬売りです。
箱には烏がトレードマークになっていて、夏の江戸の風景にはよく見かけます。
   「京の烏を江戸で売る熱い事」
   「真黒になって売るのは烏丸」



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一方の定斎屋。
「是斎屋(ぜさいや)」ともありますが、
「じょさいや」というのが江戸風のようです。
町を売り歩く薬屋ですが、
夏の諸病に効果があるという薬を売っているので、
江戸の夏の風物詩ともなっているほどです。
濃紺の印半てんに股引(夏は脚絆のことも)、
炎天下でもけっして笠や手ぬぐいはかむらず、
「これを飲んでいれば、ほれこの通り暑気もなんのその」
という宣伝でもあるわけです。

   「定斎屋は色が黒いが自慢なり」
天秤棒で箱を担いでいますが、
この箱には朱や青貝の螺鈿で、
「定斎」あるいは屋号などが入っています。
屋手長の箱には、小さな引き出しがたくさんあり、
ここに付いている取っ手が「鐶(かん・金属のCの字型)」になっていますから、
歩くたびに、カタカタとリズミカルな音がします。
売り声を上げずとも定斎屋が来ているのは、この鐶の音でわかります。


「鬼のかくらん」といいますが、
日本では暑気あたりや日射病などのこともさしたようで、
江戸の頃には経験的にこのような薬で、対処していたんですね。









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by edo-ukiyo-doll | 2012-08-09 12:29 | 江戸歳時記 | Comments(1)

蓮池や買わず飛び込む・・・・・・・・

ロンドン・オリンピックでは、
やや中心にあるハイド・パークのサーペンタインの池で
トライアスロンの水泳をやるそうで。
あそこでほんとに泳げるのだろうか・・・
と???の人も多いようですが、
一方、東京の中心から少しハズレの、かつては忍ヶ岡と呼ばれたそばの不忍池。
ここではまず水泳は無理でしょうが、
江戸のころには、東都第一の蓮池といわれています。


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蓮の花見頃は、小暑のあと20日頃と言われますので、
先週末に行ってみました~。
が、まだ3分咲き。

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それでもやっぱり美しかったですよ。
8月にはいって少したってからは、もっときれいですね。



不忍池の広さは見わたし3,4丁(300~400メートル強)、長さ5,7丁というのですが、
今は、かつては島として築かれた弁才天のある島も、
すっかり陸地になっているので、池がどれほど小さくなったかを感じます。

江戸の頃は隣接する動物園もなかったですし、
周囲のビルヂング群もなかったので、それはそれはみどりの只中。
黎明(未明~曙の頃)には、蓮の花が開くのをみようと、
大いににぎわいました。
この時間にはことさら匂い芳しく、
紅白の蓮の花が朝日に映える光景は、「たとへんにもの無し」だそうです。



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かつて、この界隈には料理屋が多く、広重なども描いています。
このような料理屋では、蓮飯が名物で、
蓮の若い葉を刻んで混ぜた飯を、ちょっと塩を入れて炊き、
大きな蓮の葉で、炊きあがった飯をくるんで少し置いてからだすと、
さぞや香りも良かったのでしょう。


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上の画は蓮の葉を採取している風景

蓮の花の香りの高さは、「蓮茗(はすちゃ)」としても、
のまれているようです。
作り方はちょっと大変。
蓮の花の中に質の良い、濃く入れたお茶を注ぎ、花びらを寄せて、
コヨリで花の先を結びます。
何枚も重なり合っているので、お茶はこぼれなくなります。(と書いてある)
それを、エイヤー! とばかりに逆さにしたら、
しばらくおきます。
今度は薄く入れたお茶を茶碗についで、そこに蓮の花のお茶を少しずついれて飲むと、
匂い高く、心すがすがしくなり、精神を養うそうです。
どなたかやってみたら、ご一報ください!

暑くてたまらないこんな日に、
蓮茗なんぞ飲んでみたいものですなあ。




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by edo-ukiyo-doll | 2012-07-31 16:19 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸にいながら登る富士。

最近、富士登山者の2人に1人は女性だそうで、
「山女(やまおんな)」とは昔の言い方、いまは「山ガール」と言うそうな。

さて、富士山といえば、江戸時代の富士登山の賑わいは、
凄まじいとさえ言えるもので、
信仰心がありますから、誰しも一生に一度は登っておきたいわけです。
でも大変にお金がかかりますから、大勢で「講」という団体を作って、
ちょっとずつお金を積み立て、毎年、順繰りに富士山へ登拝できるという仕組みです。


ですが、登れない人のほうが多いので、
なんとかして富士のご利益を得られないものか・・・、
と考え出されたのが、見立ての富士。
江戸人は、実にこの「見立て」がうまい!
富士山から溶岩を持ち帰ってもらい、それで江戸市中に富士山をつくっちゃいました~。


f0186852_2255472.jpgこれが、あちらこちらにできて、
これを「新富士」とか
後には「富士塚」などと呼んで、
旧暦5月28日の夜から、
6月朔日にかけて参詣に行きます。
今年なら、新暦7月19日、昨日になります。

人工の小さな富士であっても、
お参りの前に家で線香を立てて捧げてから、
新富士へと出かけます。
        
        右の画は広重の描く「目黒元不二」。
         桜のころ、花を眺める人々。向こうには本物の富士。




駒込、深川八幡、鉄砲洲稲荷、浅草埋堀の砂利場、高田戸塚村、
茅場町天満宮、目黒行人坂などにあります。
現在でも、残っているところがあるので、実際に行ってみるのも江戸気分。


なかでも、駒込の冨士は、「一冨士 二鷹 三茄子」というのは駒込のことだとも言われ、
ここが新富士の元祖とも言われています。
駒込の「お富士さん」は、六義園の近く、富士神社の境内に現在しています。
下の図が、駒込のお富士さん。
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江戸の人々は、朝早くに富士に詣でますと、縁起物の麦藁細工の蛇を買います。
これは火除けのお守りですから、少しずつ形は変わりましたが、今も売っています。

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上の駒込のお富士さんの図にも、3人、麦わらの蛇を持っています










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  右の美人画は、英泉画描く美人画。
   この美人の左上のコマ絵には高田の富士。
   (コマ絵を拡大したのが左)
   ちょっと誇張していますが、
   実際にはもっと低いようです



牛込の高田富士は、朱楽菅江の
安永8年刊の『大抵御覧』では、
今戸の料亭や三叉中州と並んで、
江戸の新三景のひとつになっています。

安永年間に、
馬場下町の長四郎という人が、
高田水稲荷の境内に作ったもので、
これがきっかけで、
江戸市中のあちこちに、
新富士を築くのが流行ったと言われます。

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江戸の夏は、今でいう「エンターテイメント」が、
たくさんあって、
多くは信仰に関連するものですが、
自分の足で歩いて(船もあるけど)行って見た
「それ」らは、どんなにか感激だったでしょうね。





                  右は鉄砲洲稲荷の富士塚







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by edo-ukiyo-doll | 2012-07-20 16:43 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏の物売り。「のどをうるおす」水菓子売り

「水菓子」といっても、スイーツのことではなく、フルーツのことです。
いまでも、茶の湯では水菓子といっていますし、料亭などでもそういっていますね。

さて、江戸では夏になりますと、道端でこの「水菓子売り」が、店を広げます。

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盤台桶や籠などに、西瓜、真桑瓜、桃などを積み並べ、
西瓜は切って赤い色と、
甘みがあるところを見せますし、
真桑は皮を剥いて四ツ割りにし、
桃には水を打って夏桃のうつくしさを演出して売ります。
てなことを、明治時代に江戸の風俗として書かれています



冷たいわけではないし、現代の果物のように、
とっても甘いわけでもないのですが、
水分が多くほのかな甘さでも、江戸の人々には、
どんなにかおいしく感じられたことでしょう。
現代人は、冷たいもの、甘みの強いものに慣れ過ぎてますね。

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     この西瓜は暗緑色に筋が入っています。
     割り方も、横割り!
     真桑瓜や桃も並んでいますね









ろうそくを立てて、
西瓜を切り売りしているおいちゃん。
一服つけるとこです。
盤台桶を逆さにして、上に西瓜並べてます





なかでも西瓜は一番人気。
原産地は南アフリカのカラハリ砂漠あたりらしいです。
砂漠で西瓜? 西瓜も生き延びるために、水分蓄えたのね。
もちろんその原種からどんどん変化し、私たちの知っている西瓜になったのでしょうけど。


エジプトでは紀元前何千年も前にすでに、西瓜があったらしいですし、
11世紀ころには中国に伝わっています。
中国では西から来た瓜というので、西瓜(シイグワ)と呼んだのだとか。
日本には天正7年(1579年)に、長崎に持ち込まれたのが最初とか、
17世紀半ばに隠元禅師が中国から持ってきたなどいわれますが、
平安時代にはすでに伝わっていたらしいです。

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それはさておき、江戸時代の西瓜は、現代のようにシマシマでなく、
全体が黒っぽい緑色のまん丸なものが多いようです。

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元禄のころ(1700年前後)には、日本各地でそれぞれに改良がなされ、
さまざまな種類が作られていたようですが、
江戸近郊の大森羽田、北沢、世田谷、八王子、亀戸などで栽培され、
水路などで江戸市中に運ばれ、市場へ届きます。


それほど甘みはなく、出回った初めのころは、
下世話な食べ物とされていましたが、
果実をすくい取って、砂糖をかけ、しばらくおいてから食べるなど、
高級な食べ方もされるようになりました。

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  でも、働くおいちゃんたちは、
    こんなところでムシャムシャ、
   ガブガブ食べてたのね!
   証拠の皮が残ってますよ。
   西瓜が江戸では、気軽に買える
    人気の食べ物だってわかりますね




ちなみに西瓜は漢方では種も皮もよく使われ、
皮はコレステロールの減少、血管拡張の働きがあるとされます。
また、果汁は利尿効果が高いので、「スイカ糖」は腎臓の薬として用いられるとか。
夏のむくみでお医者さんに行ったら、
スイカはカリウムが多いので、むくみをとる効果がありますよ、
と勧められ、以降、夏の朝には一切れいただきます。






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by edo-ukiyo-doll | 2012-07-12 18:20 | 江戸歳時記 | Comments(0)

七夕の食べ物

七夕は今年も雨のようですね。
といっても、梅雨のシーズンに七夕を、というのですから、
仕方ありませんね。
ほんとうの七夕は秋の行事で、今年は8月24日ですから、
織姫と彦星のデートをごらんになりたい方は、
ぜひ、この日に夜空に目を凝らしてくださいね。

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さて、江戸時代の七夕は、京の貴族の行事を踏襲したものなので、
七夕の日には、将軍の江戸城はもとより、
諸藩でも家臣は礼服をまとい、ご祝儀の挨拶に行きます。

七夕には、何か特別なものを召し上がりますか?
江戸時代には、素麺(そうめん)をいただきます。
夏の終わりに素麺・・・健康のためではなく、
中国の故事に由来しているようです。

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奈良時代に、中国から日本に、
「索餅(さくべえ)」というお菓子が渡来しました。
別名、「むぎなわ」ともいわれていますが、
小麦粉と米粉をミックスしたのに塩を入れ、
縄のようにねじって作ったものらしいです。
それが時代が進むと、柔らかいうちに伸ばして、
包丁で細く切ったものに変化したらしいのです。

これがなんで七夕に?
中国の伝説に、
王の子が7月7日になくなったのですが、
成仏できなかったのか、
この子の霊が人々に「おこり」
という病気をもたらしました。
そこで、この子が好きだった索餅を作ってお供えし、
霊は去っていったといわれます。


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 笹竹に短冊などを飾るのは、
        江戸時代になってからの風習。
        7月6日にこの画のように、
        物干し台の手すりなどに
        くくりつけて飾ります。
        それで、江戸の七夕は、
        笹竹で空が覆われるようだ
        と言われます。





この索餅というお菓子が、素麺の元になったとも言われ、
お公家さんはもとより、江戸時代には将軍から庶民まで、
七夕には素麺を食べることになったのです。
食べるだけでなく、七夕はお祝いの日ですから、
上司や親戚咽にもご挨拶に行きますが、
たいてい素麺や水菓子(果物)を持っていきます。


明日は、素麺食べようっかな~003.gif









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by edo-ukiyo-doll | 2012-07-06 18:18 | 江戸歳時記 | Comments(0)