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カテゴリ:江戸歳時記( 80 )

今年10月5日は、旧暦の9月9日にあたり、「重陽の節句」です。
残念ながら他の節句のように、現代にはあまり残っていませんが、
江戸時代、この日は千代田のお城に登城した大名諸侯は、
邪気をはらい、長寿を願って「菊酒」を賜ったそうです。
古くは中国から伝わった行事で、宮中で催されていたのが、
やがて武家にも広まったものです。

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これは、春信描く見立て菊慈童(きくじどう)。
「菊酒」の由来はこの「菊慈童」にあるようです。
菊は中国から伝来したものですが、もとは鑑賞物ではなく、
上等な薬として、邪気をはらい、血気を養い、不老長寿の効能があるとされました。

昔々、中国に魏という国のあったころ、王命により不老長寿の霊水の源を探すようにと、
探検隊が各地を経巡った。
あるとき、レッケンという山の奥に菊の咲き乱れる地があり、そこに少年がたたずんでいた。
聞けば少年は700歳になるという。
少年が言うには、周という、さらに昔々のもっと昔、
周の帝からいただいたありがたい仏の言葉を書いた菊の葉から、
滴ったしずくこそが霊水であり、それを魏の王様に差し上げる、と。
それこそが「菊水」すなわち「霊水」だと言われています。
「菊水」・・・・あの、日本酒。不老長寿のありがたい水だったのね~。
そこで、菊の花びらを酒に浸して飲む、
という風習が広まっていきました。

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なぜ、9月9日が「重陽」と言われるのでしょう?
陰陽では奇数は「陽」です。
奇数の中でも9は最高に「陽」ですね。
9月9日は、最高の「陽」が二つ重なるので「重陽」。
「重九」ともいい「長久」につながり、ことさら長寿の念が増したのでしょう。
本来はこの日、丘に上って菊酒を飲み、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)の薬玉(くすだま)を身に付けて、
邪気をはらい悪鬼を寄せ付けないようにしたのだとか。

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  広重描く、
  染井の植木屋の
  菊園風景。


江戸時代には、武家はもとより町方でも、赤飯をたき、刺身や焼き魚のご馳走をいただきます。
この日は、栗もつきもので、招かれれば栗を贈り物に持っていくことも多いようです。








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by edo-ukiyo-doll | 2011-10-05 12:51 | 江戸歳時記 | Comments(0)

音のある風景「虫聴き」

台風の被害はございませんでしたでしょうか?
想像を絶するほどの被害状況に、心が痛みます。
心よりお見舞い申し上げます。


大型で長引いた台風もようやく去り、
日が傾くころから虫の音が聴こえてきます。

江戸時代には、「虫聴き」と称して、
わざわざ郊外まで出かけることがありました。
お花見と同じような感覚だったのでしょう。
今はお花見は残っていますが、虫聴きはすっかり廃れてしまいました。


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江戸時代の虫聴きの人気スポットは、第一に「道灌山」です。
『江戸名所図会』にも取り上げられています。
道灌山は現代では西日暮里駅の、
すぐ上にある西日暮里公園がそこにあたり、
確かその表示が出ています。
広重の絵でも、虫の音を聴きながら一献傾け、
月も愛でる趣向のようです。


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      左の図は「広尾の原」。
      当時はまったくの郊外で、
      古川(渋谷川)が流れる湿潤な土地でした。
      ここは蛍狩りの名所でもあったところで、
      当時はどんなにか水の音も、耳に心地よかったことでしょう。
      渋谷川は今は、渋谷駅から上流は暗渠となっています。

 

江戸時代、風景は単に見るだけでなく、
聴くものでもあったのではないかと思います。
「音」を聴く風景です。
虫の音、川や堰、滝などの水音、風が吹き草むらの揺れる音・・・、
自然の風景にも、さまざまな音を聴いて、
風景を感じていたような気がするのです。
それが日本の風景の捉え方かもしれません。

ではどうして風景を愛でることから、
その「音」の部分が欠落してしまったのか?
鳥越けい子さんとおっしゃる大学教授の方がこうおっしゃっています。
「明治以降受け入れた西洋近代の美意識が、
ビジュアル中心の世界で、音風景は弱体化していった」
残念なことです。



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一番上の『江戸名所図会』を元に、広重が虫聴きの浮世絵を描いています。


例えば夕暮れのころ、まだ月は出掛かっている時刻で、
田舎の駅のホームで列車がやってくるのを待っている。
気がつくと集く(すだく)虫の音。
耳を澄ますと、「リ~ン、リ~ン」と鈴虫。
「キリキリキリキリ」と鳴くのはコオロギ。
「チンチロリン」は、あ、あれは松虫。
列車が明りをともして、カーブを曲がって駅に近づいてきます。
虫の音が一瞬、高くなり、そして静かになったような・・・。
そんな風景が、今私の脳裏に浮かんでいます。

虫の音、聴こえませんか?
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by edo-ukiyo-doll | 2011-09-06 22:50 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸っ子に限らず、江戸時代の人々の月への信仰は篤く、
「二十六夜待ち」という、月を拝む行事もありました。
今年なら8月25日が、旧暦の7月26日にあたり、この日が二十六夜待ちとなります。
本来は、確かにこの夜の月の光の中に、
阿弥陀(あみだ)、観音、勢至(せいし)のありがたい三尊が現れ、
これを拝むとご利益がある・・・・というもので、これを「月待講」といいました。
ところが、二十六夜目にもなりますと、月の出は深夜の1時か2時ころになります。
月の出を待ちながら、次第に人々は、信仰心よりも、遊ぶほうに心が行きますね。

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広重の描いた高輪の二十六夜待の画ですが、
なんという賑わいでしょうか。
さまざまな屋台が出、花火もあがっています。

この絵の中をもっと覗いてみましょう。

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太鼓を担いだ人、三味線を持った人まではいいのですが、
タコの着ぐるみ! お姫様に伊達男!
何かのお芝居を演じるようですね。
こんな扮装の衣装を貸す店もあったようです。

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こちらは三味線の箱を持った男衆を連れた芸者。
お座敷か船の宴席に出るのでしょう。



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イカ焼きの屋台。屋号は「当り屋」なんですね。


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すしの屋台には、すでに握られた鮨が並んでいます。
右手前の丼には醤油が入っているようです。



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二八のそば屋にてんぷら屋。
てんぷらを揚げています。

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右はだんご屋、下は水菓子(くだもの)を売っています。

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こちら↓は『江戸名所図会』の「高輪海浜七月二十六夜待」です。

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こうして、江戸末期にもなりますと、二十六夜待ちは、すっかり
よっぴいて遊ぶ日、と化してしまいました。

十五夜と十三夜は、現代まで残りましたが、
残念なことにこの楽しそうな二十六夜待の風習は、
天保の改革の引き締めであえなく下降し、
明治に入りますとすっかり廃れてしまったそうです。


でもいまも、二十六夜待ちの風習が残っている土地があるとか。
山梨県には「二十六夜待山」という山があって、
かつてふもとの村人たちは、山の頂で月を待ったのだとか。
おまけにふもとには温泉があり、その名も「月待ちの湯」!
芭蕉もここを訪れており、
        「名月や 夜やさぞかし 宝池山」
と残しています。
行ってみたいな「月待ちの湯」。








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by edo-ukiyo-doll | 2011-08-24 11:12 | 江戸歳時記 | Comments(0)

立秋が過ぎたなんて思えないほどの暑さですね。
東北の電力不足と異常な暑さは、災害の追いうちです。
関東のものとしてせめて節電に心がけます。

さて江戸のころの暑さ対策!
徳川家康が「暑邪を除くべき良薬」と推進したのは、
なんとマクワウリでした。
「真桑瓜」とも書きます。

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              北斎の描いた真桑瓜。

これの黄色いのもあって、
それは「金瓜」と書いて「キンカ」と呼び、
秋田では「キンカウリ」と呼んでました。
真桑瓜とスペインメロンを
掛け合わせて作られたのが「プリンスメロン」です。


夏には路上でも水菓子の一つとして売ります。



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黄色い真桑瓜とくびれた縞瓜ですね。


真桑瓜は、縄文時代の遺跡からも種が出土している
という昔からの食べ物です。
アフリカや中東が原産地で、中国・朝鮮半島を経て、
日本に入ったのだとか。
真桑村(美濃国。現・岐阜県本巣市)に、鳥が種を運んできて
実がなり、それを朝廷に献上したところ、
大いに喜ばれたそうで、以降、真桑村の瓜は
時代経て、織田信長がこれを大いに保護し、広めたようです。


そして、徳川家康もまたこれに注目し、
真桑村からベテランの農民を呼び寄せ、
江戸の西、鳴子や府中で作らせました。
「暑邪を除く良薬」として、
幕府御用達の真桑瓜畑を作らせたほか、
庶民の間にも浸透させました。

そんなわけで、江戸では西瓜と真桑瓜は、夏の必需品!
たぶん江戸時代には、全国で真桑瓜が栽培されたはずです。



江戸では、夏の川遊びのシーズンに食物を積んで売りまわる「うろうろ舟」でも、
西瓜と共に真桑瓜も販売されます。


現在では江戸の野菜ブームでもありますけれど、
東京では「成子瓜」として、江戸の余韻を再び・・・・。
                     

                   
真桑瓜は、「味瓜」「ぼんてん瓜」「みやこ瓜」「あま瓜」
「甜瓜(てんか)」「まっか」などなど、
全国で呼び方が異なります。
それほど全国に普及していたのですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-08-10 07:03 | 江戸歳時記 | Comments(0)

今年は団扇の製造が間に合わないほどだそうです。
節電というより省電元年の今年は、
団扇もまた大人気!
各地にその土地独特の団扇がありますが、
の現代のうちわの90%は、四国の丸亀産だそうです。
すごいですね、一手に引き受けてます!

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さて、江戸時代のうちわの産地は、京都、讃岐などとともに、
なんと江戸も入っています。
「江戸うちわ」と呼ばれ、浮世絵の木摺りの技術を取り入れて、
役者絵、美人画、風景画など粋なうちわ柄をふんだんに使い、それが夏の風物にもなっていました。
それらの「うちわ絵」はかなりな数が残っていて、
へえ、こんなのがうちわになったんだぁ、
とちょっとオドロキだったりします。


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右の「うちわ絵」は、
「夕寿ず美」というタイトルも付いた国芳作です。
夕涼みの舟遊びとしゃれ込んでいるところですね。
川風の涼しさが伝わります。



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これも国芳の画ですが、蛸と熊の角力(すもう)に、
行司は蜻蛉です!

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「雪月花」というタイトル。
絞り風の花柄に、雪の風景と帆掛け舟の帆柱に月。
これで「雪月花」ですね。



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江戸うちわは房州の女竹という、
節が長くしなやかさのあるうちわに適した竹を使っています。
江戸独特の「絵うちわ」はどこか「江戸の粋」を感じさせます。
上のように、真夏に雪の絵をもってくる・・・・、
そんなところも、江戸のひねりのきいた粋の気がします。


ところで、ちょこっとだけ団扇を使うときのお作法。
電車など人ごみで、バタバタ大きくあおぐ人を見かけますが、
周囲の方にはとっても迷惑ですね。
うるさいだけでなく、隣の方の顔やら体に当たってたりします。
混んでるところでは、あおぐ部分が顎の下辺りに体に平行するように持ち、
静かにあおぎましょうね。
それだけでも涼しいですよ。

  emoticon-0159-music.gifあおげば涼し我が家のうちわ 
       押入れ庭にもはや幾本~~~~~~~emoticon-0159-music.gifemoticon-0140-rofl.gifemoticon-0102-bigsmile.gifemoticon-0141-whew.gif


       
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-26 09:49 | 江戸歳時記 | Comments(0)

きょうは「土用の丑の日」。
うなぎを食べる日? ということになったのは、江戸時代も後半になってから。
土用は四季それぞれにありますが、夏の土用はこれから真夏に突入なので、
精のつくものを食べて夏バテしないように・・・・・・とのことからでしょう。

通説では平賀源内が、売れ行きの伸びないうなぎ屋の夏の宣伝文句に、
この日にうなぎを食べようと書いて店前に貼り出したところ、集客に成功したとか・・・。
大田南畝にも同様の伝説があるので、はっきりしたことはわかりませんが、
源内の郷里の四国では、この日に「う」の字のつくものを食べる習慣があるそうなので、
やや源内説が有利でしょうか?

f0186852_22272752.jpg うなぎには精力をつける成分があることは古くから知られ、
少なくとも安土時代には、
うなぎを丸ごと串に刺して焼いて、塩で食べていたとか。
焼いてぶつ切りした串刺しが、
蒲の穂(がまのほ)に似ているところから
「蒲焼」と呼ばれるようになりました。
江戸期に入り醤油が登場すると、
丸焼きに醤油と酒を混ぜたのを塗ったり、
山椒味噌を塗って食べていたようです。


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でも丸焼きは脂が強いし、よく焼けないので、
食べにくかったようで、
もっぱら肉体労働をする人々の間で食べられました。
これを開いて焼くようになったのは江戸時代。
京坂では腹開きにして長いまま串刺しにして焼き、
切らずにくしを抜いて盛り付けますが、
江戸では背開きにしてかた2~3片に切り、
串にさして焼きます。


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うなぎで思い出すのは、池波正太郎の『剣客商売』に登場するうなぎ売りの双六。
「悪い虫」という物語で双六は、若き道場主の大治郎に5両を渡し、
剣術を教えてくれ、と迫ります。
この男、じつにいいヤツで、後には手裏剣の名手杉原秀と夫婦になります。
双六は道端に2畳ほどの縁台を出し、
その上でうなぎを焼いていることになっていますが、
こんな感じでしょうか。


f0186852_2131141.jpgこの画は広重描く張交絵の「すさのおのみことの蒲焼屋」。
すさのおのみこと(広重のあてた漢字がないのでかなにします)は
出雲の国で、櫛名田姫(くしなだひめ)を襲う
八股の大蛇(やまたのおろち)を退治したという逸話があって、
すさのおのみことがさばいているのは、
うなぎ状の八股の大蛇!
アタマが龍みたいになってます。
うなぎの蒲焼に串はつきもの。
隣にちゃんと櫛名田姫がいますね。

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左の画は宮戸川のうなぎ漁。




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                                 五十三次の荒井宿もうなぎが名物で、
                                 上はそこのうなぎ漁の様子。


英国でもうなぎを食べます。
ヴィクトリア時代を背景にした推理小説など読みますと、
イーストエンド(ロンドンの場末の土地)の屋台で、
うなぎのジェリーを食べた・・・・・・などと書かれていて、
専門家にうかがったら、いまでもうなぎのジェリーを出す店があるとか。
でもとっても不味かったそうです。
いつか食べてみたいです!
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-21 16:46 | 江戸歳時記 | Comments(2)

涼風に風鈴

「涼風」・・・
「りょうふう」とも、「すずかぜ」とも。
いい響きですね。
さ~~っと涼しい風が入り、
軒下の風鈴が「ちり、ちり~ん」と鳴る。
近年廃れたと思われていましたが、
節電、いえ省電元年の今年、すだれとともに、
ふたたびあちらこちらに出現しています。

江戸時代に、もちろん風鈴はありました。
でも一般に普及したのは、案外遅く、
江戸時代も後期近くになってからでした。
素材としては、鋳物、陶器、ガラス(ビードロ)なんかですね。

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この浮世絵の女性が持っている風鈴は、
現代では見たことがありません。
おそらくは陶器ではないかと
思われます。
こんな凝った風鈴が
作られていたのですね。





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初期のころの錦絵にも、
すでに現代のカタチと同じ風鈴が。
このカタチはやっぱり
風鈴の基本なのですね。

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風鈴は弥生時代の銅鐸(どうたく)がルーツともいわれ、
これは祭事用のものでした。
やがて中国では竹林の中に、風鈴を下げて、
吉凶を占うものとして用いるようになります。
これがのちには、家の四方に下げて魔除けとしました。
そして遣唐使によって、仏教とともに日本に伝えられ、
日本では寺院の四隅にこれを下げ、
「風鐸」と呼んで、
音で魔物の侵入を防ぐ意味を持たせます。
今でも下がっている寺院がありますね?
中世に貴族たちもまた、軒下に下げて、
疫病神の侵入を防いだそうですよ。


全国各地に、風鈴の名産地がありますが、
南部風鈴もその一つ。
トーンの高い澄んだ音色は、金属ならではの音。
伊達藩御用の鋳物師だった江雲堂の松笠風鈴は、
安永の頃(1772~78年)に考案されたもの。

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               右の画は硝子師が風鈴を作っている光景。


よく言われる江戸風鈴は、あくまでブランド名ですが、
江戸では中期頃に長崎のビードロ師が製法を伝えました。
当初はまだまだビードロは高嶺の花。
お大名や豪商などが、楽しんでいただけでした。

江戸には「風鈴蕎麦」というのがおりました。
担いの夜蕎麦売りが、
それまでの、夜鷹蕎麦の不衛生だとの悪評を改善し、
荷の端に風鈴をくくりつけて売り歩き、
夜蕎麦売りの評判も、グンとよくなったそうですよ。


そして、幕末には、
ビードロなどの風鈴も、庶民の生活にもごく身近なものとなり、、
たくさんの風鈴を担いで歩く風鈴売りの姿は、
江戸の夏の風物詩ともなりました。



どこからか、風鈴の音が聞こえませんか・・・・・・・。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-18 18:19 | 江戸歳時記 | Comments(0)

ほ、ほ、蛍の宵

蛍をごらんになったことはありますか?
源氏蛍の時季はもうすぎて、平家蛍のころでしょうか。
私は超田舎育ちなので、家の二方は田んぼでしたから、
窓を開ければ蛍が飛んでいるのが見えたものです。
それでも夜、蛍狩りに行くのは楽しみとこわさが半分ずつ。
というのも、
「蛍と蛇を間違えないで。蛇の目は光って蛍に見えるから」
って言われたからでした。



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さて、江戸時代の蛍狩りです!
蛍狩りにはやはり少々郊外へと出かけます。
まず第一の名所は、落合の姿見の橋辺あたりといいます。
このあたりの蛍は「落合蛍」といって、ひときわ明るかったとか。
現在は「おとめ山公園」になって、蛍の保存飼育ががなされ、
夏には蛍鑑賞会が行われています。
「おとめ山」は乙女山ではなく、御留山。
将軍のお狩場があった名残です。
王子滝野川では、どこよりも早く蛍が飛びかうので、名所になっています。
他には石神井川、谷中の蛍沢、目黒あたりの田畑、墨田堤などなど。



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上の画は英泉の描く御茶ノ水の蛍。
画中に「茗渓」とありますが、
そういえばかつてお茶の水橋のそばに「茗渓堂」という本屋さんがありました。


平家蛍に源氏蛍。日本には約40種の蛍がいるそうです。
農薬や汚水、はたまた開発によって、蛍は激減してきましたが、
近年、蛍は健康な土地のバロメーター的役割をになって、
人工飼育などによって、復活されている地域も増えました。


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蛍の語源ですが、「ほ」は「火」のこと、「たる」は「垂れる」の意。
「蛍とは、この虫の身より火垂るるの意」と昔の本にあります。
清少納言は『枕草子』で、
「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ蛍飛びちがひたる、
雨など降るさへをかし」
と述べています。


今年はどこかで、蛍が見られますでしょうか?
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-08 22:24 | 江戸歳時記 | Comments(0)

スーパーに行ったら、
「7月2日はタコを食べましょう」とテープから流れてました。
「タコの日」かと思いきや「7月2日は半夏生(はんげしょう)!」とまたテープ。
そうでした、7月2日は「半夏生」といわれる日です。


「半夏生」という植物があります。
大きめの葉の表面の半分ほどが白いので、「片白草(かたしろくさ)」とも言われ、
この花が咲くのが夏至を10日ほど過ぎた時期。
漢方薬の「半夏」は「カラスビシャク」といわれて、違うものですが、
開花時が同じころなので、混同されているようですが、
カラスビシャクの花の咲くころ・・・という説もあります。




もともとは、夏至が終わったら田植えを始め、半夏生までには田植えを終わっていなさいよ、
そして、この日がきたら少しはお休みしなさいね~、
という稲作の民の目安の日と思えばいいみたいです。



今頃田植え? と思われるでしょう。
明治時代になって稲の改良が始まり、寒さに強い品種が生まれましたが、
それ以前の稲は、寒さとの戦いでした。
この日までに田植えが終えられれば「半夏半作」といって、
いつもの半分は米が取れる、とされていました。

田植えを終えられたお百姓さんたちは、
お疲れ会と稲の生育を願って、いつもとはちがったものを食べます。
それで「タコ」なんですね。
各地で食べるものは異なりますが、京坂ではタコ!
田植した苗が、タコの脚のように伸びて、しっかりと地面に根付くように!
との祈りをこめて。
それが今でも受け継がれ(特にスーパー? ビジネスは大事)、
いまや半夏生のタコは、全国展開です。



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讃岐では、田植えと麦刈りが終わり、ねぎらいのためうどんを打って食べたとか。
それで讃岐のうどん好き! なんですね。
奈良では小麦でもちを作り、田んぼの神さまにお供えするそうです。

私が感激したのは、福井・大野の焼きサバです。
江戸時代、大野の藩主が飛び地の越前町で獲れたサバを運ばせ、
田植えで疲れきっている農民たちに振舞った、
いえ、食べさせたのですって・・・・。
想像して、なんだかウルウルきました。
魚が口に入るなんて、内陸部ではなかったでしょうに、
焼いたサバは、お百姓さんたちの栄養となり、
なによりも「殿さまがなぁ、食べろってくださった・・・」
そのことがどんなに、心の栄養になったでしょうか・・・。
大野では今も半夏生には、魚屋さんで丸ごと焼いたサバが、
この日だけで1200尾も売れるのですって!


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てなわけで、きょうはお昼にうどんをいただきました~。

青森の夏イカも売ってたので、夜にはタコならぬイカの刺身もどんぶりいっぱい作り、
新生姜をたくさん混ぜ、ガーっとかきまぜて。


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梅ジュースも造ったので、クエン酸で元気だそう。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-02 22:11 | 江戸歳時記 | Comments(0)

鮎の解禁日は、早いとこなら5月中旬。
生まれ育った村から、5村くらい南下したところに、
追良瀬川という鮎のいい川があって、
子どもの頃、親しくしていた別の一家とよく行った。


広い川原で父たちが川に入って竿を振るのを見ていた。
何をしているのか良くわからなかったが、
しばらくすると魚がかかって、大人たちは忙しくなる。
私はただじっと、川の音を聴いている。

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やがて大人たちは、
拾った木切れで焚付けた火の中に石を入れ、
しばらくすると
火の中から石を取り出し、その上に獲れた鮎を置く。
それから味噌をつけ又少し焼いた。
みその焦げるいい匂いが、川原に漂う。
なんてステキなピクニックだったろう。まだピクニックという言葉は知らなかったが。

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江戸時代、相模川の鮎は幕府への献上品だったので、
明治時代に至るまで、厚木から江戸の青山までの青山街道を、
鮎を担いだ人々が歌を歌いながら走って行った。


多摩川の鮎は平安時代から、歌にも詠まれ、
江戸時代になると、「御春屋(おつきや)」といって、
江戸城内で使われる食材や燃料などを管理する場所に、収められた。
これを「御菜鮎」と特別に呼んだ。
ちなみに「御春屋」があったあたりは、現在の毎日新聞社本社のある場所だそうな。



鮎は初夏か秋の落ち鮎。
海に帰った稚魚は、春に5~6センチになって、
再び遡上し、コケを食べて育つ。
夏に上流にいた鮎は、秋には下流に下り産卵する。
これを落ち鮎という。
鮎の一生は1年。だから「年魚」とかいて「あゆ」と読ませる。

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夏は焼き鮎に、たで酢を添える。
たでの葉をきれいに洗い、当たり鉢で当たったら、
中鉢に移し替えて、そこへ酢を注ぎ別の空の器に又移す。
かき混ぜてはいけない。
これを繰り返すと味良いたで酢ができる。


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右の画は豊国の『東都高名会席盡』より。
コマ絵のなかに鮎があり、「中勝(なかかつ)」と書いてある。
「中勝」は鮎料理で有名な甲州街道の新宿の料亭。


「義経千本桜」の三段目で、鮓屋が登場するが、
ここの鮓は鮎の生馴れ鮨。
塩漬けにした鮎と飯を交互に鮨桶に入れて、
重石をすること1ヶ月。
東北や北海道では、これをホッケや鮭、ハタハタなどで作る。
「飯ずし」と言われるものだ。
発酵食品なので、癖が強い。
だが気に入るとクセになる。
       



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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-16 10:43 | 江戸歳時記 | Comments(0)