カテゴリ:江戸の食べ物( 24 )

長屋の初鰹

食えば七十五日長生きできると、
江戸っ子は初物に情熱を傾けますが、
さて、初物の代表格の「鰹」。
文化文政(1804~1830年)の頃には「5両してもかまわない」とまで言われ、
(このころの1両は今なら10万円くらいなので、1尾50万円でも欲しい!?)
あまりのフィーバーぶりに、幕府から禁令が出て、いっとき止んでも、
将軍よりも誰よりも早く鰹を口にする意気込みはすさまじい。


江戸時代には、そんな初鰹狂乱期が
3度ほどありましたが、
金持ちのみならず、
鰹の出初めには「女房を質に入れても」などと、
長屋住まいのような男どもさえ、
目の色を変えます。



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その熱狂ぶりはどれほどかと言いますと。
「初鰹妻に聞かせる値ではなし」
とてもじゃないけれど、女房の耳に入ったら恐ろしいことになる値段ですし、
詰め寄られてその値を洩らそうものなら、
「初鰹女房に小一年言われ」
と当時の川柳にありますが、そんなこと当たり前。
「その値では袷があたらしく出来る」
というほどなんですから。
でも亭主がバカバカしいこの「初鰹」に支払ったお金があれば……、
と思うほどに腹が立って、腹が立って仕方ない女房です。
「意地づくで女房鰹をなめもせず」
と絶対に食べない。食べるどころか舐めもしない。
そんな女房はまだやさしいもので、
「女房の我意をあらはす煮た鰹」
あ“~~~~~、刺身でなければ意味のない初鰹を、
煮てしまったのは女房の断固たる意思表示です。

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  一般に青魚は足が早く、
  特に鰹は「鰹の生き腐れ」といって、
  鮮度の落ちるのが早い。
  冷蔵手段などない時代、
  時間が立てば手の届く値段になり、
  昼頃には朝値の半額くらいだったようで、
  長屋の男どもにも財布の負担は軽くなります。



ところが青魚は当たると怖い。
嘔吐や頭痛などに苦しんで、医者にかかる羽目になります。
「恥ずかしや医者に鰹の値が知れる」
見栄を張って命を落とす気か! とこってり医者に叱られることに。
こんな風に鰹に当たって具合悪くなるのを「鰹酔い」というそうで、
特に頭痛がひどくなるらしいです。
「鉢巻きにあやまつて居る鰹売」
というのは鰹酔いで頭痛になって鉢巻きしてるわけ。
また、薬といっても桜の皮を舐める程度しかないらしく、
「あす来たらぶてと桜の皮をなめ」
ってなもんで、長屋の男ども、亭主族は、鰹売りを手ぐすね引いて待ってます。


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『江戸浮世人形』より「初がつお」と鰹をさばく様子












桜の皮は本来は「桜皮(おうひ)」という漢方薬。
桜の皮の外側の固い部分を除去した内側の部分で、
「フラボノイド・サクラニン」という成分が含まれていて、
解毒、鎮咳、じんましん、食中毒での頭痛などに効果があるようです。
桜皮は本来は煎じて飲むのでしょうが、もしかして上の川柳は、
床の中でぷりぷり怒りながら、
「いてて…」とうめきつつ、桜の皮をベロベロ舐めてる、
男の姿を思い浮かべて、吹き出しそうになります。


鰹やサバなどの青魚はたとえ現代でも、冷蔵庫の過信は禁物。
桜の皮舐めても、難しいかもemoticon-0105-wink.gif
お医者さんへ駆けつけましょう。











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by edo-ukiyo-doll | 2016-06-01 13:47 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

かんぴょうはお好き? 

「かんぴょう」、「干瓢」と書きますね。
ご存知のように、かんぴょうは夕顔から作られますが、
夕顔の実は瓢(ふくべ、ひさご)といい、それを干したものだから、
干瓢と書きます。
ふくべやひさごは、夕顔やひょうたん、冬瓜(とうがん)の総称だそうで、
これってみんな夏に実がなるものですね。

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かんぴょう好きな人なんて
めったに聞きませんが、
私はなんとなく好きです。
以前テレビで干瓢の生産地から
・・・・・・という番組で、
夕顔の実を台に載せて、
しゅるしゅるしゅる~~~っと、
実を細長~くむいていく様子を見たら、
ああ、おいしそうだアと、
たまらなくなりました。
ヘンなヤツ?


かんぴょうは江戸時代にはすでに生産されていて、
東海道五十三次の五十番目の宿場町「水口(みなくち)」の名物でした。
水口は、現在の滋賀県甲賀郡水口町。
慶長年間に水口のお殿様、長束正家(ながつか・まさいえ)が作らせ、
江戸時代には一大産地となりました。
広重の『東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢』にも描かれています。

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            夕顔の実を包丁で、細長く剥いている様子。


現在の干瓢生産一は、栃木県の下野(しもつけ)で、
なんと全国生産量の90%以上を占めているそうです。
正徳元年(1711年)に、水口のお殿様、
鳥居忠英(とりい・ただてる)が
下野の壬生に国替えになったとき、
種や栽培法を持ってきて広め、
かんぴょうは下野で
さらに改良を加えられていったのだそうです。
下野は保水性がありながら、
水はけのよい東ローム層なので、
夕顔栽培の適していたようです。
さらにこの地方では、夏に夕立が多く、
雷を「らいさま」と呼んで、恵みの雨としてきたそうです。
そんな風にテレビ番組で言ってましたっけ。


江戸時代には昆布や鰹節だけではなく、
特に精進料理などでは、かんぴょうは椎茸同様、
出汁が取れる代表格でしたし、
現代よりもっとたくさんの料理に使われていました。

夕顔といえば、『源氏物語』に登場するあの夕顔を思い出しますね。
夕方に咲く白い花は、朝にはしぼんでしまうがゆえに、
薄幸の女、夕顔と名付けられたのでしょう。

ちなみに夕顔の原産地は、北アフリカだそうで、
それが中国にわたり、日本に伝わって『源氏物語』に描かれ、
いまは海苔巻きになってると思うと、
かんぴょうは地球を旅したんだね~。





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by edo-ukiyo-doll | 2015-07-17 15:42 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

王子の夏座敷



飛鳥山の下を流れるのが「音無川」。
正式の名称は「石神井川」なのだが、王子権現のふもとを流れるので、
紀州の音無川にならってこう名づけたそうだ。
いまは一部、音無親水公園になっているようで、
コンクリートの印象は消せないが、
思いを江戸にはせることができれば幸いである。



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古地図から、
このあたりを簡単に書き起こしてみた。
川を挟んで対岸に、
王子権現と王子稲荷があるが、
この間の音無川は複雑に、
4本の流れになっていて、
いったいどんな眺めだったのかと、
江戸に行ってみたくもなる。


王子といえば、王子権現、王子稲荷、桜の飛鳥山など、
現代の私たちでもすぐに思いつく江戸の名所だが、
江戸の頃はさらなり。

王子稲荷の参道沿いはもとより、
飛鳥山のふもとの通りや音無川沿いに、
料理屋や茶店が多く立ち並ぶ。

かの『江戸名所図会』にも、
飛鳥橋の料理屋の建物は壮麗で、桟敷の前は音無川の下流に面しているので、
いけすを設けている。ここは都心から離れてはいるけれど、
王子稲荷に参詣する人々はここで休憩してくつろぐ。
一日中流れを眺めながら、酒を酌み心行くまで酔う人々も。
まして夏なら川風に避暑の気分になり、
帰ることさえ忘れそうな人々も多い……
ってな事が書かれている。



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ほら、これがいけすで、魚をタモですくっているのが見える。



数ある料理屋の中でも、「海老屋」と「扇屋」はことさら有名で、
切絵図にもこの2軒は名前が書かれているし、
浮世絵にも描かれている。

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f0186852_10304037.jpg「海老屋」
左上のコマ絵を
拡大すると、
「海老屋」とある











こちらは広重が描くところの「扇屋」。
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名前は書かれていないが、
張り出した縁台の下に扇の文様があるので、
これも「扇屋」のようだ。
「扇屋」は落語「王子の狐」でも有名な卵焼きの店で、
今も卵焼きは売っている。






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そしてこの絵の背景にも描かれているが、
川に入って遊ぶこともできる。
川水の冷たさが、伝わってくるようで、
涼しそうだ。

今年はことさら暑く、体力も消耗しがちだが、
近年ではめったに口にしなくなった川魚料理を、
こんな水辺で楽しめたら、どんなにいいだろう。
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by edo-ukiyo-doll | 2014-08-06 10:40 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

目黒の筍

今年は桜の開花が早かったけれど、何だかその後が肌寒い。
桜が終われば、待ってました! 筍(たけのこ)の到来。
毎年、紀州から早々と送っていただくのだが、筍好きなのでたまりまへん!

さて、目黒といえば「さんま」ですが、
江戸時代ならもう一つ、筍。
『鬼平犯科帳』にも、桐屋の黒飴同様、
しきりと目黒の筍が出てきます。



                      下は目黒の飴の代表格の見世「桐屋」
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筍の原産地は中国の江南省で、
そこから琉球を経て、
島津藩に伝わったらしい。
寛政元年(1789年)に、
山路次兵衛なる人物が薩摩から持ち帰り、
戸越の自邸に植えたところよく育ったとか。
そこで彼は目黒不動尊門前の茶飯屋と共同で、
筍飯を考案して提供したところ、
一躍目黒の名物となったといいます。
     


   
江戸の人々は「初物を食うと75日、長生きする」
とか言っちゃって、
とにかく初物に熱狂しました。
かつおだけではありませんで、
茄子も豆も筍も、もうあらゆる季節物は、
初物だったらバカみたいな高値で売れていっちゃいます。
キャビアが高いとかマグロが高いのと、ワケが違う。
だって、初物は1ヶ月もすれば、
ごくフツーの値段になっちゃうのだから。


あまり初物にとち狂って値段が高騰するものだから、
幕府は初物などの売り出し期間を制限するなど、
あの手この手で、市場価格を安定させようと、
一応努力はしていました。
でも効き目は、ない。
いっとき、止んでも、またぞろ初物ブレイクです。
だって、江戸っ子ですもの。
お上なんざあ、こわかねいやい!
ってなもんでしょうなあ。


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豊広・豊国画


「筍羹」しゅんかん、と読みます。
江戸時代1674年に出版された『江戸料理集』の中の筍料理。
ゆでた筍をタテ半分に切り、軸部分をくりぬく。
くりぬいて取れた部分は乱切りにして、
きくらげ、しいたけなどをかつおだし、しょうゆ、みりんで濃い目に煮る。
汁気を切って冷ましたら、魚か海老のすり身と合わせ、
筍に詰めて蒸す。これを切って、木の芽を添えて出す。
どなたか作って、ぜひご感想を!
なんなら、クール便で送ってくださっても・・・・・にゃは!



そうそう、それで今、目黒の筍林、
じゃなかった竹林はどうなっているかと言うと、
昭和になってすっかり廃れたそうです。
噂によると目黒区に2箇所だけ竹林が残っている
と言うのですが、目撃情報をお寄せください
堂泥山他力本願寺派の私でございます(^^;)へへへ。






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by edo-ukiyo-doll | 2013-04-19 11:08 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

牡丹に紅葉の薬喰い

江戸の町では今頃年末を迎え、あちらこちらで歳の市が開かれています。
そして寒いこの季節に密かに人気だったのがジビエ。
ジビエは野生なら鳥も含めたものですが、
もちろん、江戸時代にも、牛や豚も含め獣肉は「薬喰い」と称して食べられます。


f0186852_6274271.jpg広重の『名所江戸百景』のこの画「びくにばし雪中」。
左に「山くじら」という看板が見えますが、
ここが獣肉を食べさせる店です。
くじらは魚という認識なので、獣肉はさすれば「山」の「くじら」
ということにしておくかあ、そんな発想でしょう。
さて、びくにばし(比丘尼橋)は、
現在の銀座1丁目あたりになりますが、
画の右手に描かれるのは外堀の石垣で、
「山くじら」の看板の右手に見えるのは、
数寄屋橋御門(現在の数寄屋橋)の火の見やぐらです。


幕末にはこのような、獣肉を食べさせる店が、
江戸に10余軒ほどもあったとか。
麹町の平河町三丁目の「ももんじ屋」も有名ですが、
ここもまた御城(江戸城)に近い場所です。

江戸時代に獣肉を食べることは、
法的に禁止されていたわけではないので、
このように将軍のお膝元で、店を構えていられます。
彦根藩では毎年、将軍家と御三家に、
赤斑牛の味噌漬けを献上していたほどです。
ただし彦根の家中では、牛の中で赤斑牛だけは食べても穢れないという、
ステキな主張をしています。


しかし仏教では獣肉は穢れたものとされますから、
獣肉を食べると数十日は寺の門をくぐってはならない、という禁忌は強くあります。
たとえば牛肉を食べると150日は、お寺には行けません。
現代と違って、江戸時代の人々にとって寺社参りは、
私たちがカラオケや映画に行くような、
日常に欠かせないエンターテイメントですから、
これに行けないのはキツイです。

それと近所や、まして女房にバレたら、こりゃあまずい。
四足を食べるなんて、罰当たりだし、気色が悪いことなのです。
でもね、一度食べたら病みつき・・・・・・なんてこともありますよね。


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これは『仮名手本忠臣蔵』五段目の猪と間違えて・・・の場面

鹿、猪、兎、牛、狸が人気の順番。
大抵は葱を入れた鍋にします。
おおっぴらにはできないので、「薬喰い」と称し、
滋養があるから「薬」なのだと言い訳します。


蕪村の句に
  「薬喰い 人に語るな 鹿ケ谷」
というのがあります。
やはりおおっぴらに食べるのは気がひけるのでしょう。
そこで獣肉を大和言葉に置き換えて・・・・・・なんて、
苦肉の策が現代にまで引き継がれていますね。

猪を「牡丹」というのは、獅子には牡丹がおきまりですから。
鹿は「紅葉」。これもまた花札でもおなじみの、決まりごと。
牛は「ワカ」。もちろん「牛若丸」ですよね。
牛はまた「冬牡丹」とか、「黒牡丹」などとも呼ばれたとか。

忌み嫌われ、おおっぴらに食べられませんが、
抜け道はどこにでもあるもので、
蕪村には
   「薬喰い 隣の亭主 箸持参」
というのもあります。

この「箸」がクセモノなのです。
なぜ箸なのか? 

わざわざ「持参する箸」のナゾはまたいずれ。









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by edo-ukiyo-doll | 2013-02-01 21:17 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

カステイラはどこからやって来た?

風邪で寝込んでおりましたら、ご近所の遊海ちゃんが、
「カステラ持ってきたぁ」
と、大皿に大きなカステラの切り身(?)を持ってきてくれました。
ついでに紅茶も入れてくれ、一緒にいただきました。

そう、そう、カステラも古いお菓子ですよね。
「カステイラ」と書くほうが、
いかにも南蛮菓子、長崎から伝わってきたという、
異国情緒たっぷり、という気がします。

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ヨーロッパが新航路、
新地発見に血道をあげた「大航海時代」(15~16世紀)に、
ポルトガルの宣教師が、
長崎にもたらした南蛮菓子の中のひとつなんですね。
日本は室町時代の終わり(1570年頃)で、
金平糖や有平糖、ぼうろなんかと一緒に、伝えられたのでした。
そのころから、あんなおいしいお菓子があったの!
などと、早まってはいけません。
一説には、7、80年もかかって、
長崎で、今のカステラに近いお菓子が、やっとできたのだとか。



f0186852_2031183.jpg  「カステイラ」という名前は、
  現在のスペインに当たる
  カスティーリア王国のパンからきたのだとか。
  大航海時代ですから、
  船に積むのに保存のきく食品ということで、
  スペインの「ビスコーチョ」
  というパンがもとになったとも、
  あるいはポルトガルの「パァン・デ・ロー」
  という、スポンジケーキのようなものだったのではないか
  といわれているようです。
  見た目では、「パァン・デ・ロー」の方が、
  現代のカステラに近いようです。


おそらくは宣教師たちが、自分たちが食べるために、
長崎で雇い入れた料理人たちに、それらの製法を伝え、
それが日本人の口に合うように、だんだんと現在のカステラ状のものに、
近づいていったのではないかと思われます。
京では、多くの南蛮菓子の中で、生き残ったというより、
現地のものとは違った、日本独自のお菓子として発達したのには、
粉、卵、砂糖だけで、乳製品を使わなくても作られた
(乳製品は入手困難)からだとか。
京の油小路三条の菓子屋「萬屋五衛門」では、引き札(広告)に、
わさびをつけて食べるもの・・・として宣伝していました。

これを、現代のカステラと同じもの・・・
と思い込んでしまった人も多いのですが、
なんぼなんでも、それはありまへんがな。
それは現代のカステラとはまったく異なったもの。
秋田では今も「豆腐かすてら」という食べ物がありますし、
わが故郷津軽でも、子どものころには「カステラ」と呼ばれはしますが、
むしろ蒲鉾に近い食べ物がありました。
この地方では、小麦粉も手に入りにくかったので、
大豆でできる豆腐で、カステイラに似たものを作ったのではないでしょうか?
それらは今でこそ甘いのですが、
最初は砂糖がつかえたとしても少量・・・。
あの味ならば、たしかに醤油やわさびをつけてもOK。


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京のわさびをつけて食べるカステイラは、おそらくそれのようなものだったと思われます。
秋田・津軽の昔ながらのカステラは、
結婚式のお膳や、祝い事に使われました。
すくなくとも、秋田の豆腐かすてらは、幕末にはあったと言われます。
今ではすごお~~~~く甘いものになっていますが、
「粉」でなく、豆腐で作るほどです。
その頃はまだ甘いものではなかったのでしょう。


・・・・・・ってことは、京のカステラが北前船で、
秋田や津軽にも伝播して行ったということなのですね。
北前船がもたらしたさまざまなものが、
現代でも各地に変化しつつも残っていて、
北前船のパワーを今さらながら感嘆するのです。



ところで、カステラの端っこ・・・・・・あそこが一番おいしいと思いません?


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by edo-ukiyo-doll | 2012-12-07 20:26 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

走れ、はしれ! 初鰹

まさに、この時期が鰹の旬。
値段も手ごろになってきて、きょうは刺身かたたきで・・・、
カルパッチョもいいなあ、
などおいしいシーンが浮かんでしまいます。

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日本橋を渡る鰹売り



江戸は初物大好き、初物食わずに何のこの世かな、
みたいな風潮でしたので、
とくに鰹は「勝男」にも通じ、武家の都市江戸では大人気です。
また、「初物を食えば,七十五日長生きする」ともいわれますので、
正規に魚河岸に入るより先に、鰹を食すことが見得でもありました。
上方では鰹は人気はなく、この熱狂振りは、江戸独特のものでした。

ちなみに七十五日長生きをするというのは、
ある時、処刑場に向かう男に最後に所望するものを尋ねたところ、
季節ではないものを食べたいと言い、
そのため処刑が七十五日間、延期されたことにあやかっているのだとか。


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北斎の描いた神奈川沖のおしょくり船


さて、神奈川や房総沖で獲れた鰹は、「おしょくり船(押送船)」という、八丁艪(はっちょうろ)の、高速船で日本橋へと運ばれます。
鰹は足が早いので(早く悪くなりやすい。鰹は走りません)、獲ったら市場へ! がキメテ。
なかにはこの船を途中で待ち受け、「買った!」という人もいたとか・・・。
「初がつお むかでのやうな 船に乗り」
とは八丁の艪が百足の足のようで、その船で運ばれてくることをいっています。



将軍家の御膳に上るより先に口に入れる。
これが江戸っ子の心意気ってものだったようです。
もちろん、そのお値段たるや!
文化9年(1812年)の3月25日(新暦なら4月下旬)のこと。
日本橋に17本入荷した初鰹のうち、6本は将軍家に献上され、
残り11本の競で、1本が2両1分(20万円以上)となり、
あの八百善が3本買い、中村歌右衛門も1本買って、
下積みの役者たちにふるまったそうです。

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文政6年(1823年)の初鰹は、
3月15日に河岸に入荷しましたが、
やっぱり八百善が、
1本約30万円で落としたとか。
(正確には4両だったので、40万円くらい?!)
しかも2本も買ったそうです。
これは宣伝の為だったらしいのですが、
そう書いた太田蜀山人は、
自分は某家中の留守居役宅で、
3月10日に鰹をご馳走になったそうで、
いやはや、
世の中には上の上がいるのですねえ。



              こちらも日本橋を渡る鰹売りですが、空の様子でまだ早朝だとわかります。
           



魚屋は朝早くに日本橋で買って、鰹なら朝のうちに市中で売るのが信条です。
「丸の内 まだ薄暗き 初鰹」
丸の内は大名屋敷の立ち並ぶエリアです。
大名屋敷ともなれば、魚屋も決まっていて、
ほとんどは予約で、売り損なうこともないのでしょう。
それでも鮮度を下げまいと、鰹担いだ男は、走ります!


この初鰹ブームは天明・寛政年間(1781~1800)が最盛期で、
およそ40年間続きました。







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by edo-ukiyo-doll | 2012-05-25 18:43 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

長命寺の桜餅

ゴールデン・ウイークは、東北の桜が満開になるとか。
ソメイヨシノは花の期間が短いので、
桜の時期はあっという間に終わってしまう気がしますが、
関東南部でも、八重桜や大島桜は、まだ咲いていたりします。

さて、春の菓子もいろいろありますが、
代表といいますと「桜餅」でしょうか。
桜餅の桜葉は大島桜の葉が使われます。
大島桜はとても香りがよくて、開花時も一段と高い香りを漂わせています。


享保2年(1717年)・・・
暴れん坊将軍吉宗が将軍になったばかりの頃、
隅田川の川向こう(浅草の対岸)、
向島で桜餅が売り出されました。
前回お話した木母寺から河畔を南下したところに
「長命寺」という古~いお寺があって、
桜の木がたくさんありました。

ここの門番の山本新作という人が、
来る日もくる日も舞散る大量の桜の葉を履き集めながら、
この葉をなにかに使えないだろうかと考えたようです。
思いついたのは、桜の葉を塩漬けにして、
これであんこ餅をくるんでみようということでした。
おそらくは、試行錯誤の連続だったでしょう。
でも努力が実って、長命寺門前で桜餅を売り出すことになりました。

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墨堤の看桜のお帰りには、長命寺の桜餅。



そしてついには、地図に記載されるほどの名物となりました。
文政年間(1818~1830年)には、
1年間に40万個近い長命寺の桜餅が作られ、売れていたとか。
「長命寺の桜餅」として、
「山本や」は向島にあって、
特にこの時期にはまさに江戸の味と風情が楽しめます。

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長命寺の桜餅は、こんな籠に入れておみやげに。
ちなみにこの形の籠を「えぼし籠」といいます。



現代の桜餅は、関東では小麦粉を水で溶いて薄く焼いたもので餡をくるみますが、
関西では「道明寺」といって、
糯米を加工して細かく砕いたもので餅を作って餡をくるんでいます。
どちらかというと、道明寺のほうが好きですが、
長命寺の桜餅は別です。
塩漬けの桜葉3枚でくるまれた白い桜餅は、
それまで食べてきたものとまったく違った桜餅。
餅は白だけで、3枚の桜葉にすっかりくるまれているので、
餅の部分はしっとりと、とても上品です。
桜葉はむいて食べるのがよろしいそうで、
確かに3枚も一緒に食べますと、桜葉を食べるようなものですね。


こんな話はご存知?
ある日長命寺の桜餅を食べに来た二人。
ひとりが教えました。
「桜餅ってえのはなあ、かわをむいて食うんでえ」
すると相棒は、くるりと川のほうに向き、ムシャムシャ食べ始めました。
山本やさんにおいでになりましたら、隅田川を向いて召し上がるのもよろしいのですが、
どうぞ、皮(桜の葉)も剥いて召し上がってくださいましね。

でも、2個目は葉っぱを1枚一緒に食べるのが好きです。



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幕末には桜餅の屋台も出ました









・・・
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by edo-ukiyo-doll | 2012-04-27 12:04 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

江戸名物の白魚

「白魚のような指」と言いますが、私自身は程遠く(笑)、
そんなたとえに用いられる「白魚」は今では遠い存在になりました。
それでも先日、神田の「藪蕎麦」で白魚蕎麦とあったので
注文したら、まだ少し先とのこと。

「白魚」は「しらうお」と読み、よく「しろうお」と混同されがちですが、
「白魚」はサケ目シラウオ科、「しろうお」は「素魚」と表記し、スズキ目ハゼ科です。
踊り食いで有名なのは「しろうお」のほうです!
水の中にあるときは透明で、あげると白くなり、成魚で10センチほど。


さて、江戸の名物のひとつがこの白魚で、
「月も朧に白魚のぉ 篝(かがり)もかすむ春の空・・・」
と歌舞伎『三人吉三』で、100両奪ったお嬢吉三がニンマリします。


白魚は汽水域にいる魚ですから、隅田川の河口や江戸湾の浅いところでとれます。
立春から始まる白魚漁ですが、弥生の頃には卵を持つので、味は落ちるようです。

家康とともに江戸にやってきた佃の漁師たちは、
白魚漁の特権をもらい、将軍家への白魚を献上します。
家康は白魚が大好きだったようで、桑名あたりから持ってきた白魚を
隅田川に放流したという説もあります。
家康の時代には白魚は「御止魚」で、庶民の口には入りませんでした。


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               佃の風景


時代が下がりますとその禁も解かれ、佃の漁師のほかにも特権をもらった漁師たちが
白魚漁をしますが、暗いうちに舟に篝火(かがりび)をたいて、魚をおびき寄せます。
そこを四手網(よつであみ)というもので、すくいとるのです。

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右手に四手網が見える。


「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」
芭蕉の桑名での句ですが、
「明ぼの」は「年の明け」と「朝の明け」に掛けていて、
早朝の漁の景色が目の前に広がるようです。
芭蕉は漁であがったばかりの白魚を、見ているのかもしれません。







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by edo-ukiyo-doll | 2012-03-14 09:23 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

浅草海苔のお話

知多半島の先にある篠島というところが好きで、何度も行きました。
夏もよし、冬もまたよし。
夏は釣りも海水浴もできますが、冬がいいというのは、ここでは海苔がすばらしくうまい。
生海苔は、この時季でなければ味わえない逸品です。
ところが最近、千葉産の生海苔が手に入るようになり、
篠島まで行かずとも、冬の生海苔が味わえるようになりました。

よく海苔の缶に「浅草海苔」と書かれていますね。
「浅草海苔」は紙状の乾燥海苔の代名詞ともいえるでしょうか。
「アサクサノリ」という種類の海苔もありますが、
総称して「アマノリ」というようです。
そして冬場が海苔の季節でもあります。

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海苔屋の店さき風景



もともと浅草には「浅草紙」といって、早くから紙漉きの技術がありましたので、
隅田川の河口で採れていた海苔を、その技術を応用して紙状に乾燥させ、
保存と運搬の効果を大いに発展させたようです。
ところが江戸の町が拡大するにつれ、
元禄の頃からは大森や品川あたり、河口ではなく、江戸湾の汽水域に海苔の養殖場を作ったのだとか。



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品川や大森あたりの海では、こうして「ヒビ」を立てて、手摘みでした。
今はロープの網に養殖し、巻き上げ機で採取しますが。
「ヒビ」というのは、海苔の養殖用の細い枝の付いた木や笹竹のことで、
これを海の中に立てて、海苔が付き、成長したところで採取します。


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海苔は長いので、これを細かく裁断し、紙を漉くようにすだれに漉いて、天日で乾燥させます。
その様子が、上の画に描かれています。

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千葉のディズニーランドに近い浦安というところの川っぺりで、
ざるそばのざるがたくさん干してある! と思ってよく見たら、
それはまさしく、海苔を干すためのすだれと、その枠だったと気づきました。
山本周五郎に「青べか物語」というのがありますが、
浦安の海苔採集の小舟を「べか舟」のお話ですね。
ここもまた海苔の養殖地だったのです。
浦安はもともとは漁師町でしたが、今も少し歩くとその面影が偲ばれます。



ちなみに2月6日は「海苔の日」だそうですよ。
それから、冬の波に身をさらしながら
漁師のオカミさんたちが採る「岩海苔」は、格別です!



















・・・
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by edo-ukiyo-doll | 2012-02-26 16:22 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

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