カテゴリ:江戸の女性たち( 3 )

高尾と綱宗

「君は今 駒形あたり ほととぎす」
は高尾太夫の句とされる。
この句はただ、「あなたは今駒形あたりかしら」
と言ってるだけなのに、
なにかしら、思い遣る心、
情感みたいなものを感じるのはなぜだろう。

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          広重画「名誉江戸百景 駒形吾妻橋」 左下の屋根は「駒形堂」




伊達政宗の孫、伊達綱宗は19歳で藩主となった。
当時、伊達の石高は表立っては60万石といわれるが、
実収は100万石あったという。
そこで幕府の魔の手が伸びる。
伊達藩の財力削減のために、綱宗に土木工事を命じる。
ところが殿様、若い。
休憩と称しては吉原に通ってしまう。

綱宗をとりこにしたのは、三浦屋の高尾太夫。
彼女の気を引くために、
伽羅の香木でこさえた下駄を履いちゃったりなんかして、
吉原にお金をばら撒く。
しかし、高尾はなびかない。

     仙さまは大事な客と三浦いい

いくら店の主人、内儀に言われても、

     伊達ぎらい吉原中にただ一人

そう! 高尾太夫は伊達の殿様が嫌いだった!
キライだったのか否かは定かではないが、
少なくとも高尾には間夫(まぶ)がいた。
その彼に操立てして、60万石の大名を振った。

    大鳥毛高尾立派に振りとおし

伊達家の参勤交代で先頭を飾るのが、
この大鳥毛と呼ばれる毛槍である。
伊達家の象徴。

吉原ではこのクラスの遊女とは、
初回ははじめましての挨拶程度。
2回目には「裏を返す」といって、客が遊女を呼ぶ。
3回目にやっと客の念願がかなうことになるのだが、
それさえ、遊女の気に入らなければ、
太夫格なら客になびかない。
それが意気で張りなのだ。


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                        現在の吾妻橋




だが高尾は振られ続けてアタマにきた綱宗に、
舟遊びの最中、無惨にも殺害されてしまった。
そして綱宗は隠居謹慎となり、
やがてこの事件が又新たな事件へと発展する。

それが世に言う「伊達騒動」で、芝居にもなっている。
「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」だ。
綱宗が高尾を惨殺したというのは、どうやらフィクションのようだが、
芝居は史実をモデルに作られた。



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                        現在も広重の絵にある「駒形堂」は残る。




三浦屋の高尾は11人いた。
ここでの高尾は4代目。
それにしても、袖にし続ける男に、
「君は今 駒形あたり ほととぎす」
だなんて、心にかけるものか?
広重は高尾の気持ちを知ってか知らずか、
雨ではあるが、なにやら明るくなりそうな、
初夏の駒形の空を描いている。
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by edo-ukiyo-doll | 2009-05-12 00:14 | 江戸の女性たち | Comments(0)

光る、ひかる、笹色紅。

京、大坂の化粧は濃く、江戸の化粧は薄いと
一般的に思われがちだが、
一概にそうとも言いがたいところがある。
江戸の生活、風俗、文化を知るのに、
喜田川守貞が克明に書きのこした『守貞漫稿』は、
最も一般的なテキスト。
これによれば、
口紅は当初は紅を濃くして、玉虫のごとくに光るのを良しとしていたが、
これでは紅が多く必要なので、
下に墨を塗り、その上に紅を塗ればしんちゅう色に光る、
てなことが書いてある。


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あちきは、笹色紅でありんす。


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            あたしだって、笹色紅さね。



これは『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』
という京で出された本には、
「濃く見え紅の色、青みて光る」
とあり、この塗り方を
「笹色紅」または「笹紅」と呼んだ。

くちびるが緑色に光る!
しかも下くちびるだけ!
想像してみよう、かなり不気味。
誠に不思議なものがはやる。
ヤマンバはそのひゃくばいは不思議だけど。

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当時の口紅は紅花からとった紅を、
陶磁器の猪口(ちょく)に塗りつけたもので、
これがえらく高価。
「紅一匁、金一匁」といわれたくらい。
だから、これはたくさん使っていることを誇示したいって女もいたわけで、
笹色紅は、相当何度も塗らないと緑には光らない。
そこで守貞の
下唇にまず墨を塗り、その上に紅を塗ると、
何度も塗ったように笹色に光る!
安上がり。



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笹色紅はもとは京ではやったものだったが、
文化年間には江戸でも大ブレイクした。
守貞は文化10年ころまで江戸でもはやったと書いているが、
浮世絵を丹念に調べたら、
文政5、6年ころまでは、はやっていたようだ。


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            しかし、天保の改革が施行されると、
            華美な服装や高価なものは禁止され、
            化粧が濃いのは目立つからイヤ、
            と淡い化粧がはやるようになった。
            政治と化粧が関係してたってわけ。
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by edo-ukiyo-doll | 2009-04-22 17:55 | 江戸の女性たち | Comments(0)

アイドルは茶屋娘



カフェはよくいらっしゃいます?
一時、大ブームだったメイド喫茶なんてのもありましたね。
もちろんメイドだのコスプレだのの喫茶ではありませんけれど、
江戸時代にも、
現代のカフェ・・・・のようなものがありました。
それが「茶屋」とか、「茶店」といわれるものです。

茶屋には、大茶屋と小茶屋があって、
大茶屋は建物の中にありますけど、
小茶屋は、「出茶屋」といって、葦簀張の小屋掛けで、
朝出かけていって小屋をつくり、暮れ方にはしまって帰ります。
京坂ではこれを「掛け茶屋」と呼んでました。

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出茶屋は、浅草や愛宕、神田や湯島などの
神社仏閣の境内から始まりました。
市内では(神社仏閣は市内には入らないんです。管轄が異なりますから)、
芝居小屋付近から始まったのですが、
こっちの方は芝居小屋自体が、土蔵造りになったので、
茶屋の方でも、自分たちも家にしたいと申請しました。
これが認められて、享保10年2月18日に、
初めて茶屋の定店(じょうだな)となり、
後にはこれが芝居茶屋となっていきました。

右は『江戸浮世人形』の「浅草寺・茶汲み女」






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この2枚の浮世絵に描かれているのは、どちらも「笠森おせん」。
違う絵師が描くと、こんなにも違います。
当時の人物画、特に美人画は、絵師次第に描かれました。

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ウェイトレスさん、メイド喫茶ならメイドさんのことは、
「茶汲み女」といって、
どの茶屋でも美人を置いたもんです。
一番有名なのはやはり「笠森おせん」です。
さまざまな絵師が彼女を描いていますし、
浄瑠璃に歌われ、芝居にまでもなったほどです。
それから二十軒茶屋の「蔦屋およし」
「高島お久」は歌麿が、前からも後ろからも描くという、
珍しい手法で有名です。

彼女たちは美しいだけでなく、
愛想よく、茶代にかかわらずもてなしが良かったので、
その人気はすさまじく、
一目見るために店が込みすぎて困ってしまい、
水を撒いて追い払わなければならないほどだったそうです。
ちょうど現代のアイドルなんですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2008-09-19 15:52 | 江戸の女性たち | Comments(0)

「江戸浮世人形」人形師・岩下深雪の江戸はここにあり       ホームページ開設 http://edoukiyoningyo.edo-jidai.com


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