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髪結床 暇つぶしには もってこい

「髪結床」は今でいう「理髪店」。
でも今でも「床屋」って言いますけれど、これは江戸時代の名残りなのです。
江戸時代以前から、髪結いも職業としてあったようですけれど、
店を構えるようになったのは江戸時代からのようです。

式亭三馬の『浮世床』で、もうおなじみかと思いますが、
湯屋(銭湯)の2階と同じで、男の社交場みたいなところでもあります。

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これが「うきよ床」の様子を描いた挿絵です。


「うきよ床」に限らず、髪結床はたいてい長屋の脇にあり、
こんな風に、建物の中にあるのを、「内床(うちどこ)」といい、
橋のたもとや町の境の空き地に構えたのを「出床(でどこ)」といいます。

髪結床がどうなっているか、簡単に説明しますね。
あなたがおいでになったときに、戸惑わないために!
店入り口の障子には、「だるま」とか「海老」など、
屋号を表す絵が描いてあったりします。



入るとすぐに「上がりかまち」が1メートルくらいの板敷きになっていて、
その奥は畳敷きで、ここで自分の番が来るのを待ちます。
囲碁に将棋、読み本など置いてありますし、
なんたっておしゃべりのし放題。

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番が来ますと、
まず「小僧」さんのいる上がりかまちに腰掛け、
元結(髪を束ねている紙のヒモ)を切り、
フケを取り、髪をすきます。
次に「中床(なかどこ)」さんが、
月代と顔をそり、ザッと髪を結い、
最後に親方が、
きれいに撫で付けて仕上げます。


江戸、京都、大坂の髪結いさんは、単なる髪結いではありません。
なんと公儀の仕事もしました。
高札場(幕府などの大事なお知らせ板を掲げている場所)を守らなければなりません。
それから、奉行所や牢屋敷の非常時には、公文書を担いで運び出すという、
重要な任務も持っていました。
その話を描いた時代小説があったのですが・・・忘れました・・・(オモシロカッタ!)。


   





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by edo-ukiyo-doll | 2009-04-27 19:56 | 江戸ぐらし | Comments(0)

春の貝づくし


春はなんと言っても、貝がうまいですねー。
散歩コースの中に、なぜかしっかり
すし屋(当然回転するとこ)が組み込まれていて、
毎週末に顔を出すものだから、すっかり記憶され、
「いつものように、シャリショウすか?」
と聞かれ、 そんなこと言ったことないし、
第一「シャリショウ」って、なんだ? と瞬間、
「うん、ご飯少しにしてね」ってちゃんと答えていた。
やっぱり、食べ物への動物的本能だけは、
働いてるってワケで、
「シャリショウ」に握ってもらった貝のうまいこと。


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ツブのコリコリしたの、
ミル貝はちょっとチュウイーだが味がいい、
浦安あたりは今もアオヤギがいい。
アオヤギは鮨に握るより、酢味噌和えのほうがうまい。
ハマグリの潮の椀も取って、
「アワビある?」
今日はちょっと豪勢だ。
ああ、アワビの味!
好みで言えばホタテは、貝柱を四つ切にコロッと切った方が、
ホタテの味がする。
獲りたてのホタテは、ウソみたいに甘い。
東京では、築地から仕入れるような店でなければ、しょうがないか・・・・。


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ホタテといえば、わがふるさとの津軽の小村で、
「ホタテの養殖ってもんば、おらだぢもやってみるがァ」
と言い出したのは、一体誰だったのか、
今となってはわからないが、
とにかく始めた。
1回目、失敗。うまく貝が付着しない。
2回目、失敗。貝は付いたが、育たなかった。
3回目・・・、
4回目・・・、
5回目には、あきらめた。やめた。
今でも、私の村の「シジミホタテ」といえば、
そこらへんでは有名なのである。
そう、ホタテは何年たっても、
シジミ貝ほどの大きさにしか成長しなかったのだ。
どうやら、海がきれい過ぎて、貝には適さなかったらしい。

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ところで、私はその村の「ウニの養殖権」を持っている。
父から譲り受けたのだ。
そんなものを私にくれるわけを聞いたが、
父はあいまいな返事しかしなかった。
ははあ~ん、ホタテの二の舞。
決まってる。
その権利書、もう、紙切れ同然なのだろう。
立ち上がれ、村民よ!
なんとしてでも、ウニの養殖を成功させて、
私を億万長者、いや、夢はでっかく、
ビリオネアにしておくれー!
やっぱり、なんとな~く、ヘンな村なのである。




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by edo-ukiyo-doll | 2009-04-27 00:12 | my favorite | Comments(0)

光る、ひかる、笹色紅。

京、大坂の化粧は濃く、江戸の化粧は薄いと
一般的に思われがちだが、
一概にそうとも言いがたいところがある。
江戸の生活、風俗、文化を知るのに、
喜田川守貞が克明に書きのこした『守貞漫稿』は、
最も一般的なテキスト。
これによれば、
口紅は当初は紅を濃くして、玉虫のごとくに光るのを良しとしていたが、
これでは紅が多く必要なので、
下に墨を塗り、その上に紅を塗ればしんちゅう色に光る、
てなことが書いてある。


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あちきは、笹色紅でありんす。


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            あたしだって、笹色紅さね。



これは『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』
という京で出された本には、
「濃く見え紅の色、青みて光る」
とあり、この塗り方を
「笹色紅」または「笹紅」と呼んだ。

くちびるが緑色に光る!
しかも下くちびるだけ!
想像してみよう、かなり不気味。
誠に不思議なものがはやる。
ヤマンバはそのひゃくばいは不思議だけど。

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当時の口紅は紅花からとった紅を、
陶磁器の猪口(ちょく)に塗りつけたもので、
これがえらく高価。
「紅一匁、金一匁」といわれたくらい。
だから、これはたくさん使っていることを誇示したいって女もいたわけで、
笹色紅は、相当何度も塗らないと緑には光らない。
そこで守貞の
下唇にまず墨を塗り、その上に紅を塗ると、
何度も塗ったように笹色に光る!
安上がり。



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笹色紅はもとは京ではやったものだったが、
文化年間には江戸でも大ブレイクした。
守貞は文化10年ころまで江戸でもはやったと書いているが、
浮世絵を丹念に調べたら、
文政5、6年ころまでは、はやっていたようだ。


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            しかし、天保の改革が施行されると、
            華美な服装や高価なものは禁止され、
            化粧が濃いのは目立つからイヤ、
            と淡い化粧がはやるようになった。
            政治と化粧が関係してたってわけ。
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by edo-ukiyo-doll | 2009-04-22 17:55 | 江戸の女性たち | Comments(0)

英泉の文様




浮世絵は、当時は絵として鑑賞したというよりは、
もっと身近なものでした。
江戸百景や五十三次などは、江戸の、旅のガイドブックでしたし、
美人画は今ならさしずめ、
アイドルの写真や、ファッション雑誌に当たります。



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吉原の遊女や、町芸者などを描いた美人画も、
買うのは男・・・・だけと思ったら、とんでもありません。
年増も娘たちも、
ファッションの参考や憧れで買い求めました。
中でも江戸末期に活躍した英泉は、
今でもうならせるほどのデザインで有名です。



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文化文政期以降の退廃美が、耽溺的とでも言うのでしょうか、
英泉は完全に当時の退廃美を支配しています。
確かに、風景画は当たりを取れず、広重に取って代わられましたが、
美人画、しかも顔よりもさらに彼の描く、
デザインする着物の柄は、一世を風靡しました。



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私が人形を作ろう! と思った理由のひとつには、
英泉の着物の文様の、圧倒的なすばらしさに、魂を奪われたからでした。
こんな美しい文様が江戸時代にデザインされていた!
カルチャー・ショックやね。
しかもそのデザインの、現代にはない斬新さ。夢中になりました。


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                                                                                                        英泉は、「櫻」と「蝶」が大好き。↑




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例えば当時流行した、こうもり柄やひょうたん柄を、
実にたくみにデザイン化して用いています。
こうもりやひょうたんなど、
模様にしたらおかしくないかと思うかもしれませんが、
そこがすぐれたデザイナーの手にかかると、う、うつくしい・・・。




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  ですから、
  お内儀も娘たちも、
  「英泉の,このひょうたん模様のと、
  ソックリに染めてね」
  などと、注文したりしました。

  こうもりやひょうたん文様は、
  歌舞伎の
  市川団十郎(成田屋)好みのもので、
  爆発的に人気になったものです。

  成田屋びいきには、
  たまらなかったでしょうね。
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by edo-ukiyo-doll | 2009-04-20 14:16 | 江戸の文様・江戸の色 | Comments(0)

弥生は潮干狩り


4月・・・旧暦弥生の頃は、
1年中でも最も潮の満ち引きの差が大きくて、
満月、新月の前後は大潮となる。
したがって、この頃潮干狩りも盛んになるわけ。

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江戸時代も同じ。
品川、芝浦沖、深川の洲崎、高輪、佃沖など、
二十余町は全面、干潟となる。
早朝に舟を沖まで漕ぎ出し、
朝6時頃から潮は引き始め、正午頃には沖が海底をあらわす。
一面の干潟で、老若男女、ひざ上まで着物をたくし上げ、
いっせいに潮干狩りと相成る。

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ハマグリにアサリ、時にはひらめや小魚が
ばたついている!
「蛤にひらめも混じる大当たり」
とはそんな様子を描いた川柳。
獲った魚介は土産にも、
その場で調理する組もいたり、
うたげはつきものである。


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品川となれば、
潮干狩りと称して遊郭に繰り出す男も多い。
深川の洲崎も明治になってからは、この手が使えた。
「潮干狩り」と称して、洲崎の遊郭へ。
明治22年(1888年)に、根津に東京帝大ができて、
根津にあった岡場所が、この洲崎に移転されたものだ。
ここも大変な人気の場所で、
洲崎弁天を望みながらの風景もよい。


舟には煮炊きの道具が用意され、
女の中には「潮干狩り小袖」といって、
袖丈を極端に短く仕立てた着物を着るものもいる。
てんでに篭を持ち、キャアキャアはしゃぎながら、貝を拾う。
まだ水も冷たい頃だ。
潮風に吹かれ、一日こうして戸外で過ごす。

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ああ、私も潮干狩り、してみたい。
海辺で生まれ育ったのに、潮干狩りの経験がない。
そもそも「潮干狩り」という言葉を聞いたのは、
東京に来てからだった。
津軽で、潮干狩りなんて聞いたことがないもの。
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by edo-ukiyo-doll | 2009-04-12 21:11 | 江戸歳時記 | Comments(0)