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「三笠山」はドラ焼き、じゃあ「三笠附」はなに?

ず~っと前から気になってしょうがなかったのが、
「三笠附」。「みかさづけ」と読みます。
どこで見つけたかというと、手製の『江戸幕府覚書』のなかでなんですが、
「三笠附禁止」と何度も出てくる。
最初はなんか「笠」かと思ったが、どうやら博打らしいことに気づきました。

資料もなくて調べようもなかったので、ほっといたのですが、
2、3年前、やっとわかりました。
なんと俳句でやる博打だったのです。
これが幕府から何度も何度も禁止令が出るくらい、
江戸で流行りまくったってことですよね。

俳句でどうやって博打をやるのか?
興味ありますねぇ。
江戸ミーハーの私としては、なんとしても知りたい。
すると、ありました。


事の始まりはちゃんと俳諧だったのです。
点者、つまり応募してきた中から優劣を決める宗匠ですね。
この点者となる宗匠が五、七、五の最初の5文字を出して、
次に残りの七、五を付けさせて、優秀者には賞品を出していたのです。
時代は元禄から宝永年間(1688~1710年)のことでした。
ここあたりまではまだよかったのです。
あの小林一茶も、「三笠附」から名を上げて行ったくらいです。

ところが享保期(1716~35年)までの間に、
ドンドン賭博性が高まっていきました。
宝永の末期ころから、はじめの五文字を3例提示し、
次の七、五の例を21通り出して、
どれを附けたらすぐれた句になるのかを、
当てるゲームとなっていきました。

そしてついには、文字を書かないで、単に数字を封筒に入れ、
21の数字のなかから、3つの数字を当てるという、
サイコロ博打と似たものとなってしまったのです。
1ゲーム10文くらい。3句とも当てれば、
1両(現代の10万円くらい)もらえたそうで、
流行るはずです。


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              当時の最先端ファッション!



あまりの加熱振りに、幕府がついに禁止令を出しました。
これに参加したものは、家財や蔵に相当するだけの罰金の支払いを命じたり、
博奕宿として場所を提供したものには、
身上に応じて過料(罰金)を支払わせた上に、
100日間の手鎖という刑罰を科しています。
これが武家になるともっと厳しくて、
武家屋敷にて召し仕え、博奕した者は、
なんと遠島になっています。

江戸時代には、容疑者だけでなく、
町内名主五人組なども、町方への管理不行き届き
ということからも、お白洲に呼び出されます。
連帯責任で成立していたのが、
江戸の町の治安や行政だったんですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-23 16:45 | 江戸ぐらし | Comments(0)

あゆはお好き? 浜崎じゃなく・・・。

鮎の解禁日は、早いとこなら5月中旬。
生まれ育った村から、5村くらい南下したところに、
追良瀬川という鮎のいい川があって、
子どもの頃、親しくしていた別の一家とよく行った。


広い川原で父たちが川に入って竿を振るのを見ていた。
何をしているのか良くわからなかったが、
しばらくすると魚がかかって、大人たちは忙しくなる。
私はただじっと、川の音を聴いている。

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やがて大人たちは、
拾った木切れで焚付けた火の中に石を入れ、
しばらくすると
火の中から石を取り出し、その上に獲れた鮎を置く。
それから味噌をつけ又少し焼いた。
みその焦げるいい匂いが、川原に漂う。
なんてステキなピクニックだったろう。まだピクニックという言葉は知らなかったが。

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江戸時代、相模川の鮎は幕府への献上品だったので、
明治時代に至るまで、厚木から江戸の青山までの青山街道を、
鮎を担いだ人々が歌を歌いながら走って行った。


多摩川の鮎は平安時代から、歌にも詠まれ、
江戸時代になると、「御春屋(おつきや)」といって、
江戸城内で使われる食材や燃料などを管理する場所に、収められた。
これを「御菜鮎」と特別に呼んだ。
ちなみに「御春屋」があったあたりは、現在の毎日新聞社本社のある場所だそうな。



鮎は初夏か秋の落ち鮎。
海に帰った稚魚は、春に5~6センチになって、
再び遡上し、コケを食べて育つ。
夏に上流にいた鮎は、秋には下流に下り産卵する。
これを落ち鮎という。
鮎の一生は1年。だから「年魚」とかいて「あゆ」と読ませる。

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夏は焼き鮎に、たで酢を添える。
たでの葉をきれいに洗い、当たり鉢で当たったら、
中鉢に移し替えて、そこへ酢を注ぎ別の空の器に又移す。
かき混ぜてはいけない。
これを繰り返すと味良いたで酢ができる。


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右の画は豊国の『東都高名会席盡』より。
コマ絵のなかに鮎があり、「中勝(なかかつ)」と書いてある。
「中勝」は鮎料理で有名な甲州街道の新宿の料亭。


「義経千本桜」の三段目で、鮓屋が登場するが、
ここの鮓は鮎の生馴れ鮨。
塩漬けにした鮎と飯を交互に鮨桶に入れて、
重石をすること1ヶ月。
東北や北海道では、これをホッケや鮭、ハタハタなどで作る。
「飯ずし」と言われるものだ。
発酵食品なので、癖が強い。
だが気に入るとクセになる。
       



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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-16 10:43 | 江戸歳時記 | Comments(0)

お江戸最初のレストラン

明暦3年、1657年、江戸で明暦の大火事があった直後に、
浅草・金竜山の待乳山の門前に、「奈良茶飯」の店がオープンしました。

この火事は「振袖火事」とも呼ばれ、不審火の噂もあり、
3日間燃え続けて江戸の町の大半を焼き尽くしました。
江戸城の天守閣も焼け落ち、以来、江戸城に天守閣は再建されませんでした。
それほどの大火事でしたから、町を再建のために大工さんはじめ多くの職人たちが、
江戸の町に集まってきました。
いきおい、食事の場が必要になります。
「奈良茶飯」のこの店では、
お茶で炊いた飯と、豆腐汁に煮豆、これに煮しめを添えた簡単な定食でしたが、
何しろそれまで担い売りはあったものの、
ちゃんとした店で食事を提供するのは初めてでしたので、大評判となりました。

奈良茶飯のはじまりは、奈良の興福寺や東大寺などで、
そのころはとても貴重だったお茶の葉を、
1度目は煎じて服用したのでしょう。
2度目に煎じたものを使って、炊き上げたのが,
やがて「奈良茶飯」になったようです。

そして、この待乳山の店が,
どうやら世界で最初の外食の店であったと通説になっていますが、
オーストリアのウィーンの
レストラン「グリーヒェンバイスル」は創業1447年だそうで、
奈良茶飯屋より100年以上前の創業で、しかも現在も営業しているようです。
ちなみに、外食の店ができたのは、
フランスでは1765年、イギリスでは1827年。

そしてこの店が大当たりを取ったために、
その後、この店を倣った店が各地に広まっていきました。
そのひとつが、東海道・川崎宿の「万年屋」でした,
ここの奈良茶飯は、大豆や小豆、栗が入っていたようです。




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川崎万年屋の様子。



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六郷川の蜆汁も有名な「万年屋」。他にも大鉢や大皿に料理が盛られ、酒も出されています。


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大きな水がめの脇では、たくさんの平目や鯔が仕入れられています。



明和(1764~72年)の頃には13文ほどの一膳飯屋だったのが、
奈良茶飯を出したのが受けたのか、
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に登場したために有名になり、
大名までもが立ち寄るようになったとか。
川崎の宿は東海道を上るときには昼飯時などに都合よく、
またお大師さまへの参詣の分岐点でもあったので、大いににぎわっていました。



そしてこのような店が、やがて、料理屋へと発展していくこととなりますが、
「江戸の高級料理茶屋」のタイトルですでに書いておりますので、ご参照くだされば幸いです。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-09 22:05 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

江戸っ子は歯が命。

いまちょうど、歯を大切にしましょう週間だとか。
6月4日は「虫歯」の日だったのが、今は11月8日「いい歯」の日に変えたのだとか。

「タレントは歯が命」って、かつてコマーシャルがありましたが、
「江戸っ子も歯が命」。

歯磨きの習慣はとても古く、起源はエジプトまで遡ります。
それが中国に渡り、そして朝鮮半島へ。
仏教の伝来とともに日本に入ってきた歯磨きの習慣は、僧侶から貴族へ、
安土桃山時代には庶民の間にも普及します。



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『江戸浮世人形』より「歯みがき」。
左手に持っているのが房楊枝。




江戸時代になって、いまの歯ブラシの役割を果たす「房楊枝」が定着します。
もともと僧侶が仏前に祈りをささげる前に、菩提樹の木の枝の先端を感で房状にして、口中を清めるという習慣がありました。

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房楊枝はこれを踏襲したもので、柳やクロモジなどの木を細くさいて、これを煮て柔らかくした後に、木槌で叩いてブラシ状にしたものです。




さらに歯磨き用品が、初めて商品化されました。
寛永2年(1625年)、江戸の丁子屋喜左衛門が、朝鮮半島から渡来した人に教わって、
作って売り出したのが、「丁子屋歯磨き・大明香薬砂」という歯磨き粉が、本邦初の商品としての歯磨き粉となりました。
以来江戸っ子は、せっせとは磨き粉を使って、白い歯を保ち、それがいなせな江戸っ子気質にもつながっていたのです。


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歯磨き粉は房州砂というものに、丁子やビャクダンなどいろいろな香料を混ぜたものや、
塩を特殊な焼き方をした「焼き塩」などが売られていました。
当時の塩の産地は赤穂、そして三河の吉良。
赤穂の塩と吉良の塩は、歯磨き粉で商売敵となっている、とまでいわれました。
「忠臣蔵」の一因が、歯磨き粉の塩戦争にあったのですね。


ちなみに文化・文政期には式亭三馬が「紅梅散」という歯磨き粉を、
尾上菊五郎や為永春水なども、歯磨き粉を商品化しています。

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そして歯磨き粉は小間物屋で買えましたが、
大道では、種々の曲芸で集客したり(団扇絵の下のモノクロの画では、ハツカネズミの曲芸で呼び込んでいるのが見えます)、
「百眼(ひゃくまなこ)の米吉」などの人目を引くいでたちで、
物売りも売りに来たものです。

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これはお芝居の「百眼の米吉」




歯、磨いておやすみくださいね!
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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-05 17:00 | 江戸ぐらし | Comments(0)