Edo-CoCo

edococo.exblog.jp
ブログトップ

『忠臣蔵』討ち入りの装束

12月14日が「赤穂浪士の討ち入りの日」ということを知っている人も、

ずいぶん少なくなったかもしれません。

この逸話は英語に翻訳され、“47ronin”という映画が、

アメリカで作られ、現在本邦でも公開中なのだそうで。

ネットで見たら、『忠臣蔵』というよりも、雰囲気は『指輪物語』。

でも赤西クン出てる・・・・・・・グフフフ。

 

それはさておき、今年の『忠臣蔵』のお話は、

討ち入りのときの衣装について。

f0186852_12553546.jpg
 

このギザギザの文様は、『忠臣蔵』の討ち入りのときの装束として、

もはや、芝居の世界ではなく、史実とさえ思われがちです。

この文様は「鋸歯文(きょしもん)」といいます。

これはもちろん歌舞伎の舞台から始まったことで、

これは当時の「定火消し」の装束だったとよくいわれます。

 

深夜に徒党を組み、まして武器など持っていることがわかれば、

当然、止められますから、火消しの装束をまとった、ということにしたようです。

しかし、実際には、黒い小袖(着物)を着用し、

股引に脚絆(膝下に巻く布)、履物はわらじ、

あとは各自思い思いにせよ、というような指示が、

大石内蔵助から出ていたとか。

 

f0186852_13000292.jpg


実際の定火消しの装束には、「鋸歯文様」はあまりみられないのですが、

芝居のなかで派手で目立つため、用いられたのかもしれません。

しかし討ち入り当夜に、
実際に赤穂浪士の討ち入りを目にした人々の証言には、

「火事装束のようなものを着ていた」ということが残っています。

 

この鋸歯文様は世界中で見られ、空間に魔物が住むと考え、

空間を埋めることによって、魔物を寄せ付けない、

そんな発想から文様が生まれたといわれ、

そんな時代に生まれたひとつががこの「鋸歯文」でもあり、

きわめて原初的な文様といえます。

インドネシアでは「トゥンバル」と呼ばれ、
「更紗」にも多く用いられています。

 

日本には弥生時代から古墳時代に多く見られ、

銅鐸や土器、古墳の壁画また鏡など、

信仰的な用途に使われたことがうかがえます。

後に、幕末の新撰組が忠臣蔵に倣ってか、

浅葱色の鋸歯文様の羽織をまとっていたといわれます。

 






[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-12-13 13:03 | 都市伝説 | Comments(0)

組子工芸を見に行く。

f0186852_09061056.jpg
「組子」ってご存知ですか?
和室などの障子や、欄間、床の間の明りとり、
あるいは寺社、伝統的な和建築の宿などで、
いまも立派な組子の建具が見られます。
でも今やこの職人さんたちは数少なく、
知り合いの「織田組子工芸」の織田さんは、まさに達人。

織田組子工芸が出展されると言うので、
さっそくお尋ねしました。
「コラボさいたま」という商工見本市です。

さいたまスーパーアリーナで、
11月8日~10日(日)まで開催しています。
工芸品はもとより、お菓子、車、デジタル製品・・・・・・
あらゆるジャンルが参加しているので、なかなかたのしかったです。

「さいたま新都心」駅の目の前なので、
この週末、お近くにおいでの際は、ちょっと寄ってみてはいかが?



f0186852_09185596.jpg
組子はこんな風に、薄くカットした細い木を組み合わせて、作ります。
また詳しくは後日書きますね!

新しいブログスタイルの書き方がわからない~。
なんども消えてしまったり・・・・。





[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-11-09 09:21 | いろんなお知らせ | Comments(0)

雁の伝説

「雁が渡って行く」
なんとうつくしい言葉だろうかと、いまさらながら思うのだが、
雁が渡っていく空を、久しく見たことがない。
子どものころは故郷の津軽で、
鍵(「く」の字型)になって飛んでいるのを見たのだったが・・・・。


日本に渡ってくる雁はシベリアで繁殖し、
秋になると日本で越冬するために、やってくる。
そして春にはまたシベリアへと帰っていく。
「初雁」は最初に渡ってくる雁で、秋を告げるものとされる。

浮世絵には、雁が描かれたものがたくさんある。


f0186852_1139253.jpg



手元にはないが、本郷の月を背景にして、3美女が並ぶそこに、雁行が描かれている画がある。
たしかに江戸では、フツーに雁が渡ってきていたのだ。
江戸でさえ見られた雁・・・・。
では、いったい、雁たちはどうなってしまったのか?
古来より、雁は鴨などと同様に、狩の対象とされていたが、
1971年には、全国で数千羽まで減少し、狩猟は禁止。
マガンやヒシクイといった雁の類は、準絶滅危惧種となったという。
なるほど、なかなか雁を見ないのも、無理はなかったのね。



f0186852_11395592.jpg



津軽の北のほう、北海道の函館に近い、外ケ浦という海辺には、
「雁風呂」という言い伝えがあるそうだ。

雁たちは北から渡ってくるときに、枝をくわえて持ってくる。
疲れたら、海の上にそれを浮かべて休む。
津軽の浜に到着すると、雁たちは枝を浜辺に置き、
春になってまた北に帰るときに、浜に置いた枝を持って行く。
帰る時期を過ぎても浜に残った枝は、
冬にあえなくこの世を去った雁のもの。

帰れなくなった雁たちの供養のため、
村人たちは残された枝を集め、風呂を焚く。



f0186852_11434558.jpg


江戸の人たちはそんな伝説を知っていただろうか・・・・。
雁を描いた絵師たちの心には、
きっと同じようななにか、
渡るその姿に、哀愁のようななにかを感じていたのかもしれない。





















                                          ・
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-11-07 11:47 | 江戸歳時記 | Comments(0)

秋の江戸茶話会のご案内。


大型台風のため、
「江戸茶話会」は
中止とさせて頂きます。



房総半島を直撃とのことで、外房線も運休の可能性が高いため、
残念ですが、中止いたしますので、ご了承ください。




第11回「江戸茶話会」
「世界が仰天!した 江戸の園芸」
      ~長屋の鉢植えから、狂乱のバブルまで~

幕末の外国人たちが驚いた日本の園芸の様子とは? 
江戸時代はまさに園芸ブームの連続!
秋にまつわる作品、または園芸に関する作品、
そして大作「百菊見物」を展示の予定です。
『江戸浮世人形』の作者・岩下深雪が、
人形制作の過程で得たことを、作品を用いながらお話いたします。


f0186852_1643952.jpg

「百菊見物」は幕末近くに作られた「百種接分菊」を、
粘土細工で再現しています。
「百種接分菊」とは、1本の菊の茎に、100種類の異なった種類の菊を繋いで、
1本の菊に仕立てた、まさに神業的園芸技術と言われます。
それを見に謂集する人々を、国芳の原作からさらに拡大し、
作り上げています。

f0186852_16562756.jpg



f0186852_16564585.jpg













開催/2013年10月26日(土) 

時間/14:00~15:30 (茶話会後に茶菓タイムです)

会場/九十九里海岸・白子町 AD-FAN内「江戸浮世人形ギャラリー」

交通/外房線「茂原駅」から、小湊鉄道バス白子車庫行き「幸治」下車。徒歩5分。
   東京駅八重洲口から白子町直行バスもあります。
   *参加ご希望の方には、アクセスの詳細(時刻と接続、及び地図)をお送りいたします。

参加費/2,500円(お茶とお菓子が付きます)

定員/10名

申し込み締め切り/10月23日(水)
申し込み方法/ホームページのメールでお申し込みください。

『江戸浮世人形』ホーム・ページ Edo-CoCo
        http://edoukiyoningyo.edo-jidai.com/

●お申し込みいただきますと、受付確認のメールを差し上げます。
 3日以内にメールが届かない場合には、お手数ですが再度お送りください。


主催/お江戸漫遊連&岩下人形工房
後援・協力/AD-FAN  



     
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-10-03 17:12 | いろんなお知らせ | Comments(0)

秋草文様あれこれ

やっと秋らしい空が見られるようになりました。
異常気象は、これからも続くのかもしれませんが、
それでも草花が、野山に季節を彩るのはうれしいことです。

四季のある日本では、古くから四季の花々が文様にも取り入れられてきました。
「春の七草」は食用とされることが主ですが、
「秋の七草」は観賞されることがメインです。

「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花
        女郎花 また藤袴 あさがほの花」
 
    これは『万葉集』に収められた山上憶良の歌ですが、
    「秋の七草」の始まりがここにあるといわれます。
    萩、尾花(ススキ)、葛花(葛)、撫子(なでしこ)、
    女郎花(おみなえし)、藤袴、あさがお、
    この7種が秋の七草といわれています。



f0186852_23195979.jpg













「秋草の七草」を取り入れた振袖。





〈萩〉は梅雨のころに咲く「五月雨萩」もありますが、
猛暑もおさまった今、あちらこちらで赤紫の萩が、優雅な線を描いて花をつけています。
マメ科の多年草で、「鹿鳴草(しかなぐさ)」とか、「つきみぐさ」などとも呼ばれ、
秋の野の代表的な花。


          f0186852_2352115.jpg



「萩」の振袖。


〈尾花〉はススキのことですし、
〈女郎花〉や〈撫子〉は
園芸種もあって、わりと目にできる
秋草ですね。
撫子は夏から開花しているので、
夏の花とされることもあります。



f0186852_033475.jpg


f0186852_23332616.jpg






歌舞伎『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』の
「葛の葉」の衣装に描かれた「尾花」。
「葛の花」ではないところがミソ?
右上は拡大図。





〈葛〉はちょうど今花が満開になっていますが、
根は葛粉や葛根湯として有名なわりには、文様としてはあまり見かけません。
〈藤袴〉は、『源氏物語』や古歌に登場します。
乾燥させると蘭あるいは桜餅のような芳香を放ち、
「蘭草」とか「香草」、あるいは「紫蘭」などとも呼ばれます。
現在は園芸種も多く出ていますが、本来の〈藤袴〉は、
準絶滅危惧種に指定されるほど、少なくなっているそうです。



さて、最後の〈あさがほ〉ですが、
万葉の頃の「あさがほ」は、「桔梗」のことを指すとも言われていますが、
「桔梗」だけではなく、「木槿(むくげ)」や「朝顔」のことを総称しており、
場合に応じて使い分けていたとも言われます。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-09-26 00:47 | 江戸の文様・江戸の色 | Comments(0)

「江戸浮世人形ギャラリー」開設記念特別展のお知らせ

十九里海岸の白子町で、
ギャラリー開設記念の特別展
を開催いたします。


f0186852_19485979.jpg

「夕涼み」


残暑厳しい今年の夏でしたね。
江戸でもやはりこんな異常な夏は・・・・?
まだ地球温暖化なんてなかったのですから、
これほどではなかったでしょう。

そんな今年の夏の開設した「江戸浮世人形ギャラリー」
の開設記念として、江戸の夏と秋の作品を特別展示いたします。

江戸のの町衆の「夕涼み」風景や、
江戸の夏の風物詩でもある「冷水売り」、
十五夜の「月見だんご」作りのシーンなど、
夏から秋への江戸の様子を表した作品8点ほどを展示します。


f0186852_209544.jpg






  江戸の残暑を感じながら、
  ゆく夏をお過ごしください。
  秋めいてきた九十九里海岸も
  お楽しみいただけますよ!



各作品には説明がついていますが、
作者自ら、江戸のことや、制作上のエピソードなどもお話いたしますので、
お気軽にお声をかけてくださいね。


f0186852_2094532.jpg





会期/2013年9月14、15日(土・日)
時間/11:00~16:00
会場/「江戸浮世人形」ギャラリー
     千葉県長生郡白子町
     幸治3992-5 AD-FAN 2階





f0186852_2010671.jpgアクセス/
電車&バス・・・・・・JR外房線「茂原駅」下車。
茂原駅東口から小港鉄道バス「白子車庫」行きで
「幸治」下車。徒歩5分。
車・・・・・・・・・・九十九里有料道路「白子IC」
おりて、二本目の「旧道(バス通り)」を左折。
ファミーかたおか屋内テニスコートのT字路を右折。
アポロコースト屋内テニス場前。


 ★ご不明の点などは、HPのメールでお問い合わせください。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-09-09 20:17 | いろんなお知らせ | Comments(0)

「まわり灯籠」

江戸はそろそろお盆(盂蘭盆会)の頃になります。
今年は8月19日が、旧暦の7月13日ですから、
七夕はその前、新暦では8月13日になります。
その昔は、七夕はお盆の一環行事だったので、
秋の夜空で、牽牛と織女の星たちも、
しっかり見ることができたのですね。


さて、お盆の頃になりますと、
さまざまな「灯籠」が飾られるのが、
江戸の晩夏、初秋の風景でもあります。



「まわり灯籠」



鳥居清長の浮世絵をもとにしましたが、画には「七月」とあります。


f0186852_11272294.jpg



子どもたちがまわり灯籠を囲んでいます。
まわり灯籠は、内部の中心にろうそくを立ててその熱で上の羽根をまわし、
その力で内部の絵を回して周囲に映し出される絵を見ます。


でもこの灯籠には軒付きの窓があるので、
ちょっと変わったまわり灯籠ということで、
窓から中を覗くと絵がまわって見える・・・そんな設定にしています。
覗きからくりのようなまわり灯籠というところでしょうか。
ヒミツめいていて興味津々な子どもたち。


まわり灯籠の灯籠自体は回せませんが、
中に小さなLEDを灯すと、描いた画が浮き上がって見えるように作りました。
なかなか楽しい灯籠です。

f0186852_11274861.jpg











腹掛け(金太郎さん)の幼児は、こんな風貌です



子どもは夏には腹掛けで、その上に浴衣なども着ます。
女の子の袖は下まで開いている広口なので、
腕の下を「ささげ」という紐飾りで止めています。
ささげは、「ササゲマメ」のことで、
インゲンマメに似ていますが、
もっと細長くたくさん下がっています。
この形に似ているのでそういう名前が付いたのですね。
この時代の女の子は髪形もずいぶん凝っています。









070.gif
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-08-09 11:48 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

ささやかにギャラリー開設です。

ささやかですが
『江戸浮世人形』のギャラリーを開設しました

f0186852_15272099.jpg


房総半島の九十九里海岸・白子町は、
テニスと温泉、そして玉ねぎの町です。
海岸から歩いて5分ほどの民家の2階に、
小さなギャラリーを開きました。
潮風やその他で、粘土人形の管理は難しい環境ですが、
温泉に入りがてら、砂浜の散歩を楽しみながら、
足を延ばしてくだされば幸いです。






f0186852_15252049.jpg

常時、6~10点ほどの作品を展示しています。
AD-FANというサンダル工房が1階にあり、
ふだんはそこの人にお声をかけてお入りください。
土曜日は作者自身も居ることもあります。

入場は、もちろん無料です。
作品のほとんどは、販売しております。

f0186852_15254946.jpg





作者の岩下深雪が、作品を用いながら様々な江戸のお話をする
「江戸茶話会」を、年に3~4回開催します。
お茶と和菓子付きですから、
江戸三昧の楽しいひと時をお過ごしください。



土曜日にはこの小さなギャラリーで、
「季節の小物を作る」ワークショップをします。

見ただけで難しい・・・・・・と思われるのかもしれませんが、
最初は、超簡単なものから始めますので、すぐに作れます。
作る楽しみ、工夫していく楽しみを、わかちあいましょう!

「はまぐり雛」、「アイスバーフレーム」、
「お酉さまの熊手」、「クリスマス・オーナメント」
など、できるだけ身近にあるものを使って、作っていきます。








f0186852_15261370.jpg















『江戸浮世人形』ギャラリー in SHIRAKO

場所/千葉県長生郡白子町幸治
休み/火曜日(不定期)
開館/11:00~15:00(早仕舞いもあります)


f0186852_15421715.jpg








f0186852_15262837.jpg

[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-08-04 15:42 | ごあいさつ申し上げます | Comments(0)

藤の思い遥か


しばらく江戸のブログをサボっておりましたが、季節は移りすっかり入梅。

この時期の植物の成長は早く、10日ばかりロンドンに行ってる間に、
楽しみにしていた「グミ」の実が、もう熟してなくなってた(食べられちゃった!)。
それはそうと、おくればせながら、「藤」のお話しを少し。

ずいぶん昔、レンガ造りの家のファサードに、
藤の花が咲き誇っている写真に魅せられたことがあって、
それはロンドンのチェルシーというところで撮影したと書かれていた。
以来、チェルシーの藤が見てみたいと思っていたのだが、
先日、長年の思いがかなった。


f0186852_1529915.jpg


f0186852_15293054.jpg





























ロンドンの中でもチェルシーは高級住宅街といわれ、まさになるほど。
この時期は、チェルシー・フラワー・ショウという
世界的にも有名な花の祭典が行われるのだが
(今年は100周年記念でチケットはすでに完売だった)、
今年は異常気象で寒くて、未だ薔薇も咲いておらず、
代わりに藤がまっさかりで、あっちにもこっちにも藤の絡まる家々。



藤は日本や中国、それに北アメリカも原産地。
英語でwisteriaまたはwistaria(ウィスタリア)というが、
この名前はイギリス人の動物学者にして植物学者のThomas Nuttallトマス・ナトールが、
尊敬する医師Casper Wistarキャスパー・ウイスターに因んでつけたといわれている。
イギリスではWisteria Floribunnda、
俗にJapanese Wisteriaという藤が一般的なようで、
日本のように、棚仕立てにはしないが、
いわれてみればなにやら、日本的な雰囲気をも感じられる。


f0186852_1534019.jpg
 f0186852_15372571.jpg                     













万葉の時代に、こんな歌がある。

      須磨の海人の塩焼衣の藤衣
            間遠にしあればいまだ着慣れず

この「藤衣」というのが気になった。
藤衣は藤色の衣ではなく、藤の蔓で織った粗末な衣服だという。
藤の蔓の皮をむいて灰汁で煮て柔らかくしたのを、
さらに叩いて繊維にしたものを、糸として用いた織物でとても目が粗い。
だが、とても丈夫で茨の中に入っても、棘から身を守れるほどだそうな。
なので、江戸時代まで野良着などとして用いられたようだ。


上の歌は、海人が塩焼きのときに着る「藤衣」は、
目の粗い織物なのでいまだに肌になじまないものだ、
というほどの意味になるだろうか。

f0186852_15321990.jpg








さらに進んで、平安期に夭逝した歌人藤原道信に、
   
     限りあれば今日ぬぎ捨てつ藤衣
            はてなきものは涙なりけり


というのがあって、
ここでは藤衣は「喪服」ということをはっきりと指している。

粗末な衣類である藤衣は、
平安の頃から身分の高い人々は、これを喪服として用いたという。
後年、喪服は麻布も用いるようになったけれども、
親族や葬儀を執り行う人たちは、必ず生成りのこの藤衣をまとった。

道信の歌は、喪に服しているのにも期限があるので、
今日で喪服は脱ぎ捨てるけれど、
涙だけはいつまでも果てなくこぼれるのさ・・・・・・そんな意味だ。


藤の花と藤衣。
華やかな花の一方では、死者を弔う衣でもあったことが、
藤への思いをいっそう深めさせる。

f0186852_15295913.jpg







055.gif



[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-06-10 15:39 | my favorite | Comments(0)

目黒の筍

今年は桜の開花が早かったけれど、何だかその後が肌寒い。
桜が終われば、待ってました! 筍(たけのこ)の到来。
毎年、紀州から早々と送っていただくのだが、筍好きなのでたまりまへん!

さて、目黒といえば「さんま」ですが、
江戸時代ならもう一つ、筍。
『鬼平犯科帳』にも、桐屋の黒飴同様、
しきりと目黒の筍が出てきます。



                      下は目黒の飴の代表格の見世「桐屋」
f0186852_1104546.jpg

筍の原産地は中国の江南省で、
そこから琉球を経て、
島津藩に伝わったらしい。
寛政元年(1789年)に、
山路次兵衛なる人物が薩摩から持ち帰り、
戸越の自邸に植えたところよく育ったとか。
そこで彼は目黒不動尊門前の茶飯屋と共同で、
筍飯を考案して提供したところ、
一躍目黒の名物となったといいます。
     


   
江戸の人々は「初物を食うと75日、長生きする」
とか言っちゃって、
とにかく初物に熱狂しました。
かつおだけではありませんで、
茄子も豆も筍も、もうあらゆる季節物は、
初物だったらバカみたいな高値で売れていっちゃいます。
キャビアが高いとかマグロが高いのと、ワケが違う。
だって、初物は1ヶ月もすれば、
ごくフツーの値段になっちゃうのだから。


あまり初物にとち狂って値段が高騰するものだから、
幕府は初物などの売り出し期間を制限するなど、
あの手この手で、市場価格を安定させようと、
一応努力はしていました。
でも効き目は、ない。
いっとき、止んでも、またぞろ初物ブレイクです。
だって、江戸っ子ですもの。
お上なんざあ、こわかねいやい!
ってなもんでしょうなあ。


f0186852_10481050.jpg

豊広・豊国画


「筍羹」しゅんかん、と読みます。
江戸時代1674年に出版された『江戸料理集』の中の筍料理。
ゆでた筍をタテ半分に切り、軸部分をくりぬく。
くりぬいて取れた部分は乱切りにして、
きくらげ、しいたけなどをかつおだし、しょうゆ、みりんで濃い目に煮る。
汁気を切って冷ましたら、魚か海老のすり身と合わせ、
筍に詰めて蒸す。これを切って、木の芽を添えて出す。
どなたか作って、ぜひご感想を!
なんなら、クール便で送ってくださっても・・・・・にゃは!



そうそう、それで今、目黒の筍林、
じゃなかった竹林はどうなっているかと言うと、
昭和になってすっかり廃れたそうです。
噂によると目黒区に2箇所だけ竹林が残っている
と言うのですが、目撃情報をお寄せください
堂泥山他力本願寺派の私でございます(^^;)へへへ。






060.gif
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-04-19 11:08 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

「水辺の花菖蒲」


春先に、初夏のような暑い日があったのに、ここしばらくは冬のような寒さでした。
それでも、こちらではさまざまな種類の桜も終わりを見せ、
藤が美しい色に開き始めました。
杜若(かきつばた)も見ましたよ。
あっという間に、初夏の花が咲き出すのかもしれない、
異常な気候のこのごろです。
 

さて、端午の節句(本来は現代のカレンダーでいえば6月13日が端午の節句)もちかいので、
少し早めに菖蒲のお話です。

端午の節句に、菖蒲湯に入りますか?
菖蒲湯で使う「菖蒲と」、花のみごとな「花菖蒲」は別物です。
菖蒲湯に入れる葉の方は、サトイモ科で、
香りは強いのですが花は地味です。
一方、花を愛でる花菖蒲はアヤメ科で、
園芸的に改良によって作り出されたものなのです。

江戸時代末期、「菖翁」と称した松平定朝左金吾というお旗本が、
彼の父が収集した花菖蒲をもとに、長年にわたって自ら改良を重ね、
約200種までも増やしました。
 
f0186852_11255224.jpg
  東京の葛飾区に「堀切菖蒲園」という、
  花菖蒲専門の庭があります。
  ここは堀切の農家の伊左衛門という人が、
  相模の国から持ち帰ったものや、
  前述の菖翁から譲り受けたものを、
  これも長い間、研究と栽培を重ね、
  やがて一般に公開した場所が、
  この「堀切菖蒲園」です。
  敷地面積は当時より、
  だいぶ小さくなったようですが、
  以前行ったことがあって、
  花の頃には丹精された花菖蒲が、
  それはそれはみごとでしたよ。
  まあ、人が多いのは仕方ないとしても、
  花の美しさは格別。

  左は英山画

「堀切菖蒲園」は江戸時代最後に誕生した花の名所だそうで、
広大な花菖蒲園には、八ツ橋のように板で橋が架けられ、
趣のある風景は広重や豊国も描いていますね。




f0186852_11223195.jpg

そんな浮世絵の1枚をもとに作ったのが、この作品です。
初夏の水辺に咲く花菖蒲を眺める女二人。
日除けのために菅笠をかぶった女は、
曙色の井桁絣の単衣に前帯姿で、いかにも既婚者の装い。

しゃがんで手を伸ばしている若い女は、
黒地に白い霞文様の薄物の振り袖
なので、二人は母娘といったところでしょうか。

花菖蒲の向こうには、
五月雨萩(さみだれはぎ)が初夏の風に揺れています。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-04-13 11:31 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

お江戸花見ツアー 「小金井桜」


f0186852_22444660.jpg


さても、お江戸も桜(はな)の頃となりました。
桜の名所は数々あれど、まず第一は東叡山、
上野のお山でございましょう。
それから品川御殿山に、王子の飛鳥山はいうまでもなく、
墨堤の賑わいもいかばかりかと・・・。
でも、ちと見飽きた聞き飽きたとおっしゃる方へ、
小金井の桜堤などいかがでしょう。
東都からは7里半(30kmほど)もありますから、
ワンデイ・トリップはムリです。
1泊覚悟で、ではゆるりと出かけましょうか。


今でしたら電車ですぐですけれど、
お江戸では、まずは四谷から内藤新宿へ出ます。
(私だってこの程度なら歩けます。この道はよく歩きましたモン)。
そしたら淀橋(ヨドバシカメラ発祥の地。西新宿)をぬけ、
中野へ向かいます。
左に鍋屋横丁があり(よく飲みに行った)、
堀の内を過ぎます(だんだん私にはわからなくなってきた)。
それからとにかく光円寺むら(お、高円寺のことですな)をめざし、
右には阿佐ヶ谷神明の道があるそうな(ご存知の方、そう?)。
このむら(村)をず~~~っと過ぎていくと左へ別れ、
この道が小金井へ行くらしい。


さて、日も暮れるといけませんので、
早足になり(というより、一気にワープしま~す)、
はい、ここが小金井の桜並木です。

f0186852_22302635.jpg












f0186852_22321021.jpg

この川は「玉川上水」。
そうです、お江戸の町に水を運ぶ玉川上水です。

この橋は小金井橋といいますが、
「この橋上より眺望すれば、雪と雲とまがひて、一目千里前後 尽くるを知らず」
だそうで、なんたって、
かつては一面のススキの原だったところが、
見事なまでの桜の名所に大変身を遂げたのですから。
ま、それまでには、何十年もかかってはいますが。

ご存知、玉川兄弟の飽くなき挑戦によって、
ついにこの地に上水が完成しますと、
今度は幕府の命を受け、川崎平右衛門定孝という人が、
武蔵野新田世話役となって、
新田開発の責をにないました。
すると平右衛門さんは、
新田の開発もさることながら、元文2年(1737)には、
小金井橋を中心に玉川上水の両岸6キロの間に、
2000本もの山桜を植えたのでした。


f0186852_22325586.jpg


単に美しい風景にしようというのではありません。
堤に桜が根を張り、頑強な堤防を作ってくれますし、
夏は木陰で人々が暑さをしのぐことができます。
また、この頃は桜に解毒作用があると思われていて、
花びらが上水に落ちて水を浄化すると考えたとか。
  (そういえば、かつおにあたって頭痛がひどくなったら、
    桜の木の皮をしゃぶる・・・・というのがありましたね)
そして、これほどの桜ですから近隣のみならず、
江戸からも花見客の足を向けさせる
・・・・その経済効果をも狙ったようです。


f0186852_22332664.jpg












やがて50年ほどたちますと、
小金井桜は多くの絵師によって描かれ、喧伝され、
文化文政の頃(1804~1830年)には、
関東随一の桜の名所として、名をはせてゆくのです。

もうその頃になりますと、
近隣の農家の人々は、花見時には自宅で貸し座敷や、
茶店の経営に乗り出して、
貴重な現金収入となったようです。
小金井橋のたもとにある「粕屋」は、江戸にまできこえた酒楼らしく、
この一帯は、料理茶屋や茶店がおびただしいほど並んでいます。


や~、いいだろうなあ。
文政の頃の小金井桜ツアーに行きたいですね。


f0186852_22453534.jpg




*注 「小金井桜ツアー」は、参加人員を募集しておりません。
このブログのコメント欄や、HPのメールからお申し込みになりませぬよう、
お願い申し上げます。
あくまで江戸の道ですし、
そもそも添乗員が方向音痴のため、はなから無理です。
あしからず
003.gif

[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-03-23 23:01 | 江戸歳時記 | Comments(0)

「かよひ小町」

啓蟄も過ぎますと、
やっと春めいて、もうしばらくすると、
江戸っ子が待ちわびる「初午」がやってきます。
如月の初めての午の日ですが、
この日は大人も子供も楽しみな日です。

この日はまた、子どもたちが手習いに入門する日でもあります。
父親は文机を担いで、手習いのおっしょさん(お師匠さん)のとこへ、
子どもともども挨拶に行きます。
そんな具合に、子どもの手習い生活は始まります。


f0186852_22274553.jpg


さて、この作品は、手習いにかよう女の子2人。
タイトルは、「かよいこまち」と読みます。
小野小町のエピソードのひとつで、
美貌の小町に恋をした深草少将が、
百夜通い詰めたらあなたの心に応えましょう・・・と言われ、
九十九夜まで通いましたが、
百夜目に雪であえなくこの世を去ります。
謡曲にも『七小町』のなかで
「百夜通(ももよがよい)」というお話になっています。

この作品のもとになった浮世絵には、
手習いに通うことをしゃれて、
こんなタイトルが付いています。
年かさの子もまだ幼い子も、
手習いの草紙などが入った風呂敷包みや、
手習い帳を持っています。

「寺子屋」というのは京阪の言い方。
江戸では「手習い所」などと言い、手習いに行くといいます。
当時、江戸の識字率は世界一高かったのは、
手習いや寺子屋のおかげなのでしょうね。








060.gif
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-03-07 22:37 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

牡丹に紅葉の薬喰い

江戸の町では今頃年末を迎え、あちらこちらで歳の市が開かれています。
そして寒いこの季節に密かに人気だったのがジビエ。
ジビエは野生なら鳥も含めたものですが、
もちろん、江戸時代にも、牛や豚も含め獣肉は「薬喰い」と称して食べられます。


f0186852_6274271.jpg広重の『名所江戸百景』のこの画「びくにばし雪中」。
左に「山くじら」という看板が見えますが、
ここが獣肉を食べさせる店です。
くじらは魚という認識なので、獣肉はさすれば「山」の「くじら」
ということにしておくかあ、そんな発想でしょう。
さて、びくにばし(比丘尼橋)は、
現在の銀座1丁目あたりになりますが、
画の右手に描かれるのは外堀の石垣で、
「山くじら」の看板の右手に見えるのは、
数寄屋橋御門(現在の数寄屋橋)の火の見やぐらです。


幕末にはこのような、獣肉を食べさせる店が、
江戸に10余軒ほどもあったとか。
麹町の平河町三丁目の「ももんじ屋」も有名ですが、
ここもまた御城(江戸城)に近い場所です。

江戸時代に獣肉を食べることは、
法的に禁止されていたわけではないので、
このように将軍のお膝元で、店を構えていられます。
彦根藩では毎年、将軍家と御三家に、
赤斑牛の味噌漬けを献上していたほどです。
ただし彦根の家中では、牛の中で赤斑牛だけは食べても穢れないという、
ステキな主張をしています。


しかし仏教では獣肉は穢れたものとされますから、
獣肉を食べると数十日は寺の門をくぐってはならない、という禁忌は強くあります。
たとえば牛肉を食べると150日は、お寺には行けません。
現代と違って、江戸時代の人々にとって寺社参りは、
私たちがカラオケや映画に行くような、
日常に欠かせないエンターテイメントですから、
これに行けないのはキツイです。

それと近所や、まして女房にバレたら、こりゃあまずい。
四足を食べるなんて、罰当たりだし、気色が悪いことなのです。
でもね、一度食べたら病みつき・・・・・・なんてこともありますよね。


f0186852_633811.jpg
これは『仮名手本忠臣蔵』五段目の猪と間違えて・・・の場面

鹿、猪、兎、牛、狸が人気の順番。
大抵は葱を入れた鍋にします。
おおっぴらにはできないので、「薬喰い」と称し、
滋養があるから「薬」なのだと言い訳します。


蕪村の句に
  「薬喰い 人に語るな 鹿ケ谷」
というのがあります。
やはりおおっぴらに食べるのは気がひけるのでしょう。
そこで獣肉を大和言葉に置き換えて・・・・・・なんて、
苦肉の策が現代にまで引き継がれていますね。

猪を「牡丹」というのは、獅子には牡丹がおきまりですから。
鹿は「紅葉」。これもまた花札でもおなじみの、決まりごと。
牛は「ワカ」。もちろん「牛若丸」ですよね。
牛はまた「冬牡丹」とか、「黒牡丹」などとも呼ばれたとか。

忌み嫌われ、おおっぴらに食べられませんが、
抜け道はどこにでもあるもので、
蕪村には
   「薬喰い 隣の亭主 箸持参」
というのもあります。

この「箸」がクセモノなのです。
なぜ箸なのか? 

わざわざ「持参する箸」のナゾはまたいずれ。









068.gif
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-02-01 21:17 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

浮世絵で巡る日本橋~part1~


人数は少ないのですが(時にひとり)、「江戸研」なるものを開催? しておりまして、
先日は野外研修としゃれこんで、
お天気悪そうだし、
ならば逃げ場の豊富な「日本橋」を極めてみようと、
準備万端、参りましたところ、なんとあの大雪! 
幸いにも参加者2名だったので、元気よく雪の中に繰り出しました。

f0186852_1815610.jpgf0186852_1841156.jpg
f0186852_1811872.jpg


まさに広重の描いた「雪の日本橋」がここにあります。
写真は日本橋南詰めから撮影しています。
高島屋はこの手前で、日本橋三越本店は橋を渡った左側になります。
慶長8年(1603)に、家康によって架橋され、
五街道の1里塚の出発点と定められました。

橋は「南詰め」とか「東詰め」といいますが、
南側、東側と、方角を表しています。
横長の画では、手前の橋が日本橋で、
橋の右側が「北詰め」、左側が「南詰め」になります。
有名な日本橋の魚河岸は、
北詰めの下流側(縦長の画では画面の下側に見えている屋根々々が魚河岸)にあります。


f0186852_18435100.jpg

幕末の日本橋の地図です。上のほうに横に流れているのが、日本橋川。



f0186852_185144.jpg



  これは広重の『名所江戸百景』の
  「日本橋江戸ばし」。
  この画はどこを視点に
  描かれているのでしょう?

  当時は町方の橋に
  擬宝珠が付けられていたのは、
  日本橋と京橋だけなので、
  この橋は日本橋、
  とすると向こうに見えているのは、
  江戸ばしということになります。
  したがって上流から
  下流を見ていることになります。


向こうに見える白壁の蔵の並びが小網町だとご存じなくても、
橋上の魚の天秤桶で、
北詰めから南詰めに向かっていることがわかります。
天秤桶の後ろの桶だし、鰹が入ってるので、
魚市で仕入れ町なかに向かっていますよね。
おまけに、江戸橋の向こうに朝日が昇っています。

広重が『名所江戸百景』を出したのは、
安政の大地震で江戸の大半が破壊され、
江戸に住まう人々が災厄と困難に立ち向かっているときです。
初夏の曙の中を、勢いよく走り出す鰹売り。
たんに季節や名所を描いたのではなく、
江戸っ子広重が江戸っ子に送る、
復興のエールなのだと感じられます。



f0186852_18192516.jpg


さてこちらは、やはり広重の『東海道五拾三次』の「日本橋」。
この画は日本橋南詰めを描いています。
北詰には魚河岸がありますが、南詰めにあるのは高札場。
画の左側にある高札部分拡大します。

f0186852_1855977.jpg




   橋の向こうの魚河岸から
   魚を仕入れてきた男たちが、
   立ち話をしています。
   その左手に
   文字が書かれた板が
   たくさん下がっています。
   幕府からのお触書や、
   WANTEDの似顔絵なんかが
   貼られています。

高札場は全6箇所あって、ここには晒し場の併設されています。
法を犯した罪人が晒されているわけですが、
広重は画の中では巧みに見えないようにしている・・・・・・ということを、
以前うかがったことがあります。



f0186852_1864191.jpg






「日本橋」だけでも、
まだまだたくさんのお話があるのですが、
長くなりますので、続きはまた!


それにしても、この季節、
ちょうど赤穂浪士が討ち入りしたのが、
今年なら1月25日にあたるので、
ああ、浪士たちはこんな雪の中を、
吉良邸に向かっていったのかと、
ぼた雪で重くなった傘を振るいつつ、
「江戸の雪」を楽しんだ一日でした。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-01-24 18:21 | 江戸の町 | Comments(0)

めでたやな~。江戸の正月「三河万歳」

新春のお慶びを申し上げます。
(もう七草になってしまいますが)


江戸の元日は、今年は2月10日にあたります。
立春も過ぎ、江戸の頃には正月はまさに「初春」「新春」というにふさわしい新年でした。
江戸では大晦日が終わるギリギリまで、
商家は掛取り(つけで買ってる客の支払い請求)に駆けずり回るので、
元日は大戸を開けず遅くまで休んでいます。
それでも元日は武家たちが身分別に、御城へ新年のご挨拶に行きますので、
大賑わいとなりますし、子どもたちも凧だ羽根つきだと、町中は賑やかです。
2日は商家の初荷ですから、さらに大賑わいとなります。

f0186852_6591280.jpg

これは霞ヶ関の正月風景。坂の上から江戸湾が見え、たくさんの凧が揚がっています。
武家地ですから立派な門松が立ち、通りを行くのは、
漫才師の太夫と才蔵、その脇を太神楽の一行が歩いています。

f0186852_702023.jpg


    こちらは日本橋三井越後屋
    (現代の三越百貨店)の前を、
    左から鳥追い、漫才師、
    太神楽の人々がそろい組みで、
    歩を進めています。
    正月にはこの画のように、
    太神楽、万歳、鳥追いなどの季節的な芸人が、
    おおぜいやってきて、
    江戸の正月をさらに賑わしいものにします。




f0186852_71140.jpg

上も霞が関ですが、右に鳥追い、左に太神楽、真ん中に風呂敷を担いでいるのが万歳師です。
万歳は主に三河万歳で、これは現代でも継承されていますが、
江戸の正月には欠かせません。
太夫と才蔵の2人一組で(流派によって異なることも)、
彼らは年の初めに、祝いの言葉を面白おかしく歌い舞って、
その年の福を願って寿ぎの芸を披露してまわります。



f0186852_72158.jpg
画を見ますと、
太夫は風折烏帽子(かざおりえぼし)に、
大紋という格式のある装束で刀を差し、
手には扇子を持っていますし、
才蔵は侍烏帽子か大黒頭巾にたっつけ袴。
太夫は特に立派な身なりをしています。
これには訳があります。


徳川家が三河出身なので、三河の万歳師たちは優遇され、
御城や大名屋敷の座敷にあがって、万歳をします。
そのために太夫は武士のように帯刀、大紋の着用を許され、
頭には風折烏帽子、手には位の高い人が持つ「中啓(ちゅうけい)」という扇。
この姿は普通の大名と同程度の位に匹敵する服装ですし、
才蔵も武家の服装をします。

三河万歳師は、元旦には江戸城の「御門開き」を担当します。
「鍵いらずとざさる御代の明けの春~」と漫才師が門外から叫びますと、
城内からは「思わず腰ものばす海老の錠~」とあって、門が開けられます。
その後から登城の武家たちが、入っていくこととなるわけです。




f0186852_1552490.jpg
上は「才蔵市」の風景

f0186852_75589.jpg

f0186852_744463.jpg


年末になると太夫が江戸に出てきますが、
そのときに才蔵を調達し、
何日かで教え込んで使ったものです。
日本橋南詰めの四日市という所に
「才蔵市」というのが立って、
下総(千葉県)の農家の男が
才蔵志願で集まるので、
太夫はそこから相性がよさそうなのを選ぶのでしょう。
ですが、次第に太夫と才蔵のコンビは、
又次の年も・・・・ということが多くなり、
幕末には才蔵市は無くなります。


太夫も才蔵も国は違えど農民なので、気もあって義理にも篤く、
太夫が江戸に着くとすぐに定宿に挨拶に行って再会を喜び、
都合で才蔵ができなかったりすると、代わりの者を送ったといいます。


太夫の歌に才蔵の鼓が入り、歌も舞いもおもしろく滑稽で、
正月の江戸のエンターテーナー、ここにあり!



本年も、ゆるゆるちょびっとがんばりますので、
よろしゅう、おたのみ申しまする~。

[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2013-01-06 15:35 | ごあいさつ申し上げます | Comments(0)

江戸の町に響く餅つきの音

年の瀬も迫ってきましたが、
大掃除の13日頃から、江戸では餅つきが始まります。
ずいぶん早いと思われるかもしれませんけれど、
この頃から大晦日の夜があける頃まで、
江戸中で餅つきが行われます。


f0186852_17331589.jpg

武家や大店では、自分の家で餅をつきますが、
「引きずり餅」といって、町内の鳶や人足たちが5人くらいで1組になり、
注文のあった家の前で、餅をつきます。
杵の音高らかにもちをつかせるのは、ちょっとした自慢だったようです。
この人たちは餅つきに必要な道具、
かまど、せいろ、うすに杵、薪も持参して一式を用意し、
景気よくつくのを信条としました。
「千本杵」といって、数人の男が歌に合わせて、一気につき上げる
などというパフォーマンスもあったほど、派手だったようです。
これも江戸っ子の見栄でしょうね。
菓子屋に注文する「賃餅」は、格が低い家と思われて、
「引きずり餅」を頼む家が多かったそうですよ。
まあ、長屋はみんながまとめて頼んだり、賃餅だったでしょうね。

f0186852_18104090.jpg

つきあがった餅は、大根おろしのからみ餅にして、
まずみんなでいただきます!
それから、「配り餅」といって、
塩魚や干魚などとともに、知人や親戚に配ったりもします。

上の浮世絵は豊国が描いた
『甲子春黄金の若餅(きのえねはるこがねのわかもち)』。
この画の左手、ゴザの上に大量のもちが並んでいますが、
たくさん作るのは配るためでもあるのです。

f0186852_1811033.jpg












この画を基に作ったのが、この作品「もちつき」です。
(立っている人形の大きさは、13センチくらいです)

こうして、年神さまを迎える準備が着々と進んでいきます。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2012-12-27 18:14 | 江戸歳時記 | Comments(0)

『仮名手本忠臣蔵』の世界

この時期になりますと、デジタル社会の今でさえ、
「赤穂浪士の討入り」の話を必ずどこかで目に耳にします。
私たちがその顛末を知っているのは、
真山青果が書いた『元禄忠臣蔵』が基盤となっているのでしょう。
これは史実に近いもので、2世市川左團次のために書かれ、
昭和9年に歌舞伎座で初上演されました。

f0186852_638027.jpg

一方、ご存知歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は、
史実からフィクションの世界へと、大きく跳んでいます。
江戸時代は「歌舞伎」とは言わず、一般的には「芝居」と呼んでいましたが、
常に新しいもの、人々の興味を引くものを上演しようという姿勢でしたので、
元禄15年師走の14日に起きた赤穂の浪士たちの吉良邸への討ち入りは、
当然のごとく芝居のモデルになりました。
しかしこの事件は反体制的とされ、
これももちろん幕府から禁止されてしまいます。


実際の事件から46年たって、
『仮名手本忠臣蔵』が大坂の竹本座、
これは人形浄瑠璃の小屋(劇場)ですが、
ここで初めて人形で上演され、
3ヵ月後には歌舞伎として公演されたのでした。
やっと浅野家の再興が認められてから、
堂々と舞台にも乗せられたというわけです。

f0186852_6385268.jpg

さてこの『仮名手本忠臣蔵』は、全部で11段からなりますが、
解禁されたとはいえまだ、
史実を描ける世の中ではありませんから、
『太平記』の世界を借りてきました。
『太平記』とは南北朝の混乱期を描いた、
長いなが~~~~い軍記物ですが、
江戸時代にはとってもポピュラーなお話なので、
すかさずその世界を借りて、わかりやすくエキサイティングにして、
これでもか~~~~! 
みたいに、見どころてんこもりにしたのです。


その内容とは・・・・・・・
独立を目指す足利尊氏を討つ新田義貞軍ですが、
足利軍の勝利で室町幕府が作られましたね?
元禄のお話が、室町時代までスリップします。
足利幕府のお話なのに、
なにもかもが、上演されている当時(寛延元年・1748年)の文化であり服装であり、
現代の私たちの観点からしたら、
「いくらなんでもヘンでしょ、それ!」と思いますが、
いいんです。
江戸の芝居、時代物はたんにお話や人物を「借りてきた」だけなのです。



話はこうです。
室町幕府の将軍・足利尊氏の弟君のまえで、
この兜が、新田義貞の兜か否かを確認するところから始まります。
その場に現れた顔世御前は、
塩治判官(赤穂は塩、それを統治する「判官」という役職らしい)の妻ですが、
彼女に横恋慕したのが高ノ師直。
史実で言えば、吉良上野介です。
当然、師直の恋は受け容れられず、
その腹いせに、饗応役の桃井若狭守と塩治判官をいびり出し、
桃井さんも判官さんも師直を斬ってやる! と激怒しますが、
実際に斬ってしまったのは、塩治判官でした。

f0186852_6425068.jpg


                                   高ノ師直⇒ 


f0186852_6421180.jpg


桃井若狭守







「仮名手本」で有名な「おかると勘平」は、
塩治家に使える身ですが、家中の恋はご法度ですから駆け落ちし、
やがて勘平は狩人になります(あずさ2号は忘れてね)。

f0186852_649192.jpg


ある夜、勘平がイノシシと間違えて撃ってしまったのは一人の男。
そして、男の懐には50両。
勘平はこれをちょうだいして、
これで自分もあだ討ちに参加できると
家へ帰りますが・・・・。




勘平に撃たれてしまった男。
実はさっきおかるの父を殺して、
盗んだ50両を持っていた。
斧定九郎、実は塩治家の重臣・斧九太夫の息子



主君のために50両を調達したつもりが、
おかるの父を殺してしまったと思い込み、
勘平は切腹してしまいます。


f0186852_6495083.jpg
おかるは夫のために祇園に身売りし、これはその別れのシーン。


一方、塩治家では城も明け渡し、他の家臣たちからは、
あだ討ちを迫られる家老の大星由良之助。
f0186852_6503349.jpg

  これは有名な7段目、祇園一力の茶屋。
  由良之助は、敵討ちの心を隠し、
  祇園で放蕩三昧を続けます。
  妻からの密書を読む由良之助ですが、
  床下には敵方に寝返った九太夫、
  上の間にはおかる。
  ふたりに密書を読まれてしまいます。

  ここも話は複雑なので、えへへ・・・割愛。




f0186852_6511556.jpgまあ、話はこうして進んでいき、
10段目はこれも男の中の男、
討ち入りのための武器調達をした「天川屋義平」が、
捕り手に向かって「天川屋義平は男でござる」と名言を朗じます。


                            天川屋義平


そうやってラストの11段目はいよいよ討ち入りから、
引き上げの花水橋(両国橋のつもり)のシーンへとかわります。


『仮名手本忠臣蔵』は、「芝居の独参湯(どくじんとう)」ともいわれます。
独参湯とは、朝鮮人参を使った万病に効能ある特効薬のことで、
上演すれば必ず大当たりをとるので、こう言われています。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2012-12-14 15:35 | 都市伝説 | Comments(0)

カステイラはどこからやって来た?

風邪で寝込んでおりましたら、ご近所の遊海ちゃんが、
「カステラ持ってきたぁ」
と、大皿に大きなカステラの切り身(?)を持ってきてくれました。
ついでに紅茶も入れてくれ、一緒にいただきました。

そう、そう、カステラも古いお菓子ですよね。
「カステイラ」と書くほうが、
いかにも南蛮菓子、長崎から伝わってきたという、
異国情緒たっぷり、という気がします。

f0186852_2025149.jpg
ヨーロッパが新航路、
新地発見に血道をあげた「大航海時代」(15~16世紀)に、
ポルトガルの宣教師が、
長崎にもたらした南蛮菓子の中のひとつなんですね。
日本は室町時代の終わり(1570年頃)で、
金平糖や有平糖、ぼうろなんかと一緒に、伝えられたのでした。
そのころから、あんなおいしいお菓子があったの!
などと、早まってはいけません。
一説には、7、80年もかかって、
長崎で、今のカステラに近いお菓子が、やっとできたのだとか。



f0186852_2031183.jpg  「カステイラ」という名前は、
  現在のスペインに当たる
  カスティーリア王国のパンからきたのだとか。
  大航海時代ですから、
  船に積むのに保存のきく食品ということで、
  スペインの「ビスコーチョ」
  というパンがもとになったとも、
  あるいはポルトガルの「パァン・デ・ロー」
  という、スポンジケーキのようなものだったのではないか
  といわれているようです。
  見た目では、「パァン・デ・ロー」の方が、
  現代のカステラに近いようです。


おそらくは宣教師たちが、自分たちが食べるために、
長崎で雇い入れた料理人たちに、それらの製法を伝え、
それが日本人の口に合うように、だんだんと現在のカステラ状のものに、
近づいていったのではないかと思われます。
京では、多くの南蛮菓子の中で、生き残ったというより、
現地のものとは違った、日本独自のお菓子として発達したのには、
粉、卵、砂糖だけで、乳製品を使わなくても作られた
(乳製品は入手困難)からだとか。
京の油小路三条の菓子屋「萬屋五衛門」では、引き札(広告)に、
わさびをつけて食べるもの・・・として宣伝していました。

これを、現代のカステラと同じもの・・・
と思い込んでしまった人も多いのですが、
なんぼなんでも、それはありまへんがな。
それは現代のカステラとはまったく異なったもの。
秋田では今も「豆腐かすてら」という食べ物がありますし、
わが故郷津軽でも、子どものころには「カステラ」と呼ばれはしますが、
むしろ蒲鉾に近い食べ物がありました。
この地方では、小麦粉も手に入りにくかったので、
大豆でできる豆腐で、カステイラに似たものを作ったのではないでしょうか?
それらは今でこそ甘いのですが、
最初は砂糖がつかえたとしても少量・・・。
あの味ならば、たしかに醤油やわさびをつけてもOK。


f0186852_2072071.jpg
京のわさびをつけて食べるカステイラは、おそらくそれのようなものだったと思われます。
秋田・津軽の昔ながらのカステラは、
結婚式のお膳や、祝い事に使われました。
すくなくとも、秋田の豆腐かすてらは、幕末にはあったと言われます。
今ではすごお~~~~く甘いものになっていますが、
「粉」でなく、豆腐で作るほどです。
その頃はまだ甘いものではなかったのでしょう。


・・・・・・ってことは、京のカステラが北前船で、
秋田や津軽にも伝播して行ったということなのですね。
北前船がもたらしたさまざまなものが、
現代でも各地に変化しつつも残っていて、
北前船のパワーを今さらながら感嘆するのです。



ところで、カステラの端っこ・・・・・・あそこが一番おいしいと思いません?


f0186852_20105974.jpg

[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2012-12-07 20:26 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

7歳までは神のうち「七五三」

11月に入りますと、七五三の子どもたちが、あちらこちらで見られます。
今年は11日の日曜日にお祝いした方が多いようで、
一応、15日とはなっていますが、休日にあわせることが多いようです。

「七五三」という呼び方をするようになったのは、明治期に入ってからですが、
この年頃の子どもの成長を願うこのような儀式は、平安時代、公家の間ではすでにありました。
それが江戸時代も半ば頃には、一般にも浸透していきます。

f0186852_228930.jpg








そもそも「七つ前は神のうち」ともいって、まだこの世に命が定まっていない、
いつ神に召されても、まだ人ではなかったのだから・・・・
という哀しい諦めも含んでいたのではないでしょうか。

それが3歳では「髪置(かみおき)」といって、男児・女児ともに、
それまではそっていた髪を、伸ばし始めます。
髪を伸ばして、体に魂を入れてもらうのだそうです。
んんん~~~、鉄腕アトムみたいだ。

f0186852_2202322.jpg

左の画の右手前の女が持つのを拡大します。
これが「白髪」という飾り物のようです。


f0186852_2263410.jpg












女児のお祝いでは、「白髪」とか「たすきがけ」といって、
「麻荢真綿に末広、松竹梅のつくり花を、五彩の水引をもって飾り結び、(女児を)かつがしめて生土神へ詣づる」
と古い本にはありますが、
幕末近くになりますと、見られなくなったようです。


5歳になりますと、
男児は「袴着(はかまぎ)」の儀式をします。
これは元は、親類の中で最も有力な人に、
袴着の親になってもらい、
袴のはき方も、
子どもを吉方に立たせて、左足からはく、
土地によっては碁盤の上に立たせて、
裃を着せるところもあるようです。
「袴着」の儀式は、
古くは男児・女児ともにあったとか。


女児は、7歳になりますと、それまで着物は「紐」で締めていたのを、
「帯」で締めるようになる、「女性」としてはじめて認められるわけです。
初めて裾を引く着物を着るので、父親や鳶の頭に担いで宮参りをする、
という姿は、けっこう画でよく見かけます。



それまではこれらのお祝い、儀式はバラバラに行われていましたが、
江戸時代も終盤近くなって、呉服屋がビジネス戦略として、
ひとまとめにし、一大キャンペーンを張ったというわけです。
それが大当たりして、幕末から明治には七五三ブームとなり、
大正時代に今のような形になっています。

おかっぱアタマに大きなリボン、着物で、うっすらお化粧もして、
やたらお澄まししていた記憶があります。
あれは満6歳だったのね。
[PR]
# by edo-ukiyo-doll | 2012-11-15 22:16 | 江戸の子どもたち | Comments(0)