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カステイラはどこからやって来た?

風邪で寝込んでおりましたら、ご近所の遊海ちゃんが、
「カステラ持ってきたぁ」
と、大皿に大きなカステラの切り身(?)を持ってきてくれました。
ついでに紅茶も入れてくれ、一緒にいただきました。

そう、そう、カステラも古いお菓子ですよね。
「カステイラ」と書くほうが、
いかにも南蛮菓子、長崎から伝わってきたという、
異国情緒たっぷり、という気がします。

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ヨーロッパが新航路、
新地発見に血道をあげた「大航海時代」(15~16世紀)に、
ポルトガルの宣教師が、
長崎にもたらした南蛮菓子の中のひとつなんですね。
日本は室町時代の終わり(1570年頃)で、
金平糖や有平糖、ぼうろなんかと一緒に、伝えられたのでした。
そのころから、あんなおいしいお菓子があったの!
などと、早まってはいけません。
一説には、7、80年もかかって、
長崎で、今のカステラに近いお菓子が、やっとできたのだとか。



f0186852_2031183.jpg  「カステイラ」という名前は、
  現在のスペインに当たる
  カスティーリア王国のパンからきたのだとか。
  大航海時代ですから、
  船に積むのに保存のきく食品ということで、
  スペインの「ビスコーチョ」
  というパンがもとになったとも、
  あるいはポルトガルの「パァン・デ・ロー」
  という、スポンジケーキのようなものだったのではないか
  といわれているようです。
  見た目では、「パァン・デ・ロー」の方が、
  現代のカステラに近いようです。


おそらくは宣教師たちが、自分たちが食べるために、
長崎で雇い入れた料理人たちに、それらの製法を伝え、
それが日本人の口に合うように、だんだんと現在のカステラ状のものに、
近づいていったのではないかと思われます。
京では、多くの南蛮菓子の中で、生き残ったというより、
現地のものとは違った、日本独自のお菓子として発達したのには、
粉、卵、砂糖だけで、乳製品を使わなくても作られた
(乳製品は入手困難)からだとか。
京の油小路三条の菓子屋「萬屋五衛門」では、引き札(広告)に、
わさびをつけて食べるもの・・・として宣伝していました。

これを、現代のカステラと同じもの・・・
と思い込んでしまった人も多いのですが、
なんぼなんでも、それはありまへんがな。
それは現代のカステラとはまったく異なったもの。
秋田では今も「豆腐かすてら」という食べ物がありますし、
わが故郷津軽でも、子どものころには「カステラ」と呼ばれはしますが、
むしろ蒲鉾に近い食べ物がありました。
この地方では、小麦粉も手に入りにくかったので、
大豆でできる豆腐で、カステイラに似たものを作ったのではないでしょうか?
それらは今でこそ甘いのですが、
最初は砂糖がつかえたとしても少量・・・。
あの味ならば、たしかに醤油やわさびをつけてもOK。


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京のわさびをつけて食べるカステイラは、おそらくそれのようなものだったと思われます。
秋田・津軽の昔ながらのカステラは、
結婚式のお膳や、祝い事に使われました。
すくなくとも、秋田の豆腐かすてらは、幕末にはあったと言われます。
今ではすごお~~~~く甘いものになっていますが、
「粉」でなく、豆腐で作るほどです。
その頃はまだ甘いものではなかったのでしょう。


・・・・・・ってことは、京のカステラが北前船で、
秋田や津軽にも伝播して行ったということなのですね。
北前船がもたらしたさまざまなものが、
現代でも各地に変化しつつも残っていて、
北前船のパワーを今さらながら感嘆するのです。



ところで、カステラの端っこ・・・・・・あそこが一番おいしいと思いません?


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# by edo-ukiyo-doll | 2012-12-07 20:26 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

7歳までは神のうち「七五三」

11月に入りますと、七五三の子どもたちが、あちらこちらで見られます。
今年は11日の日曜日にお祝いした方が多いようで、
一応、15日とはなっていますが、休日にあわせることが多いようです。

「七五三」という呼び方をするようになったのは、明治期に入ってからですが、
この年頃の子どもの成長を願うこのような儀式は、平安時代、公家の間ではすでにありました。
それが江戸時代も半ば頃には、一般にも浸透していきます。

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そもそも「七つ前は神のうち」ともいって、まだこの世に命が定まっていない、
いつ神に召されても、まだ人ではなかったのだから・・・・
という哀しい諦めも含んでいたのではないでしょうか。

それが3歳では「髪置(かみおき)」といって、男児・女児ともに、
それまではそっていた髪を、伸ばし始めます。
髪を伸ばして、体に魂を入れてもらうのだそうです。
んんん~~~、鉄腕アトムみたいだ。

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左の画の右手前の女が持つのを拡大します。
これが「白髪」という飾り物のようです。


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女児のお祝いでは、「白髪」とか「たすきがけ」といって、
「麻荢真綿に末広、松竹梅のつくり花を、五彩の水引をもって飾り結び、
(女児を)かつがしめて生土神へ詣づる」
と古い本にはありますが、
幕末近くになりますと、見られなくなったようです。


5歳になりますと、
男児は「袴着(はかまぎ)」の儀式をします。
これは元は、親類の中で最も有力な人に、
袴着の親になってもらい、
袴のはき方も、
子どもを吉方に立たせて、左足からはく、
土地によっては碁盤の上に立たせて、
裃を着せるところもあるようです。
「袴着」の儀式は、
古くは男児・女児ともにあったとか。


女児は、7歳になりますと、それまで着物は「紐」で締めていたのを、
「帯」で締めるようになる、「女性」としてはじめて認められるわけです。
初めて裾を引く着物を着るので、父親や鳶の頭に担いで宮参りをする、
という姿は、けっこう画でよく見かけます。



それまではこれらのお祝い、儀式はバラバラに行われていましたが、
江戸時代も終盤近くなって、呉服屋がビジネス戦略として、
ひとまとめにし、一大キャンペーンを張ったというわけです。
それが大当たりして、幕末から明治には七五三ブームとなり、
大正時代に今のような形になっています。

おかっぱアタマに大きなリボン、着物で、うっすらお化粧もして、
やたらお澄まししていた記憶があります。
あれは満6歳だったのね。










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# by edo-ukiyo-doll | 2012-11-15 22:16 | 江戸の子どもたち | Comments(0)

鶏を奉納する元祖「酉の市」

今年の「酉の市」は8日と20日の二の酉まで。
東京なら花園神社や、府中も有名ですが、何といっても浅草です。
江戸時代なら、吉原の西門も、酉の市の日には開けて、誰でも通れるようにしますから、
その賑わいは浮世絵にも多く描かれ、江戸の風物詩のひとつですね。

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浅草の酉の市は明和期に始まったようで、吉原に行く口実も効いて大いににぎわい、
今に至ることはよくご存知でしょう。
浅草は「新酉」といわれ、これに対し「本酉」あるいは「大酉」「元酉」といわれていたのが、
いわゆる「葛西花又村」の鷲(わし)大明神社です。
葛西花又村というのは、現在では足立区花畑の一部となっていますが、
現在の江戸川区葛西より、ずっと北のほうです。
葛西はすご~~~く広いエリアを指していたのですね。


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上は『江戸名所図会』に描かれた「鷲大明神社


さて、鷲大明神社は今では「大鷲(おおとり)神社」とか「花畑大鷲神社」と呼ばれ、
酉の市には大いに賑わっています。
江戸時代には、この大明神の本尊は鷲に乗った釈迦如来像でしたが、
そのいわれは伝説に頼ることになります。
話が長くなるので、それはまた来年に譲ることとして、
酉の市は「酉の祭り」が次第に呼び方が変化したものです。
そして元祖・花又村の鷲大明神社の酉の市は、
近郊の農民の収穫祭とミックスされて行われるようになったようです。

『江戸名所図会』にも、鷲大明神社では11月の酉の日は「酉のまち」が行われ、
近くの農民が鶏を奉納する。
そのあと、奉納した鶏は浅草寺観音の堂前に放つとあります。

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鷲大明神社」に奉納した
鶏のようす



花又村から浅草まで運んだのでしょうか。
浅草寺では「納め鶏」として、ここで放し飼いをし、
境内では楊枝と同様に、鶏の餌を売っています。


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もともと鷲大明神社の氏子は鶏は食べず、
社家(大明神を継ぐ家)では卵すら食べなかったそうで、
鷲(わし)がいつかしら鶏に移行してきたのでしょう。
奉納した鶏が、浅草寺の境内を「コッコッコッココ」と
歩き回ってる・・・なんて光景を想像すると、
ああ、江戸時代っていいなあ! いいなあ! 行きたいなあ!
と思うのであります。
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-11-08 19:42 | 江戸歳時記 | Comments(4)

初めての、ボランティア。

仕事の上で、ボランティアをするのは初めてです。

今年の1月の個展で、
がん研有明病院に、ボランティアで展示をしていただけませんか?
と飛び込んできた方がいらっしやいました。
女性専用の病棟で、クラフトやアートの展示をしているそうで、
その場ですぐにOKしたものの、
夏になるころになってやっと、行動に移せる状態になりました。

うかがっていた電話番号に電話しますと、
いくつかの手違いを経て、
やっと10月と11月に、展示をすることになりました。
はじめは、ショーケースに1作品を展示すればいいと思い込んでいたので、
軽く請合ったのでしたが、
ケース全部に展示するのだそうで、
急いでこの季節のものを集めたしだい。

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「月見だんご」も旧暦の「後の月見」と思えばいいか。


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10月24日に入れ替えを予定していたのに、
ひどい風邪を引き込んで、あえなく延期としていただきました。
いまだに熱が下がらず、喉ははれたまま・・・・。
なまじ入れ替えに行って、病棟に皆さんに移ったらえらいことです。
はよ、治りたい!


一般の方は入れないので、ごらんいただけませんが、
病棟の方々の、お退屈しのぎやわずかなお慰めになれば、うれしいです。


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「福々坊」もがんばって作って、展示しました。





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# by edo-ukiyo-doll | 2012-10-24 21:49 | いろんなお知らせ | Comments(0)

三升、見せます、團十郎

江戸のファッションをリードした歌舞伎とその役者たち。
名のある役者は衣装が自前でしたから、
評判を取るには、当然力を入れます。
そこから生まれた文様は、家紋と大きくかかわりを持っていたりします。


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 さて、市川團十郎の紋といえば「三升」。
 歌舞伎役者の紋には「定紋」と「替紋」とがあります。
 常紋はメインとなる家紋で、市川團十郎家は「三升」。
 一方、替紋はサブ的に使われますので、装飾的であったり、
 役者の好みなどが反映されています。

 團十郎の三升紋は、
 大・中・小の3つの正方形が、入れ子になったデザインです。
 この正方形が「升」または「枡」を表しているのですが、
 團十郎家がこの紋を用いたのには、
 いくつかの説があります。

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ひとつ目は、初代の團十郎が『鞘当』で、
不破伴左衛門という役をやったときに用いた衣装(右)の、
雲と稲妻文様の稲妻をアレンジした、という説。

二つ目は、こんなことです。
初代團十郎の父は武田の浪人で武家でしたが、
江戸は和泉町に住まい、「菰の重蔵」といい、
地元の有力者でもありました。
この父は唐犬十右衛門(有名な侠客です)と親交が深く、
息子が生まれたときには、十右衛門が「海老蔵」と名づけたとか。
その十右衛門が、團十郎の初演を祝って、
3個の枡が贈られたことから、という説。

そして三つ目は、初代團十郎が甲斐国出身で、
その地方では1升枡が大きく、通常の枡の3升分あって
「甲斐の大枡」ということに由来するという説です。

一番考えやすいのは、2番目の唐犬十右衛門の祝いの枡、
という説ですが、真実やいかに?


このシンプルな3つの正方形の定紋は、
時にアレンジされ、多様なデザインを生み出しました。


f0186852_7461546.jpg右は「六弥太格子」。
三升を互い違いに組み合わせたもの。
幕末に活躍した八代目団十郎が、
『一の谷武者絵土産』なかで、
岡部六弥太役で着用した裃に
この文様を遣いました。
現在もよく見かける、
とってもポピュラーな文様ですね
この画では描き方をまちがえていますが、
ご愛嬌。



f0186852_7473021.jpg「みます」はみますでも、
この襟には「三舛」と文字で
書かれています。
歌舞伎の衣装では、
襟にこのように屋号や、
紋の名前を入れているのも、
時折見かけます。



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牡丹の花の入った「蜀江つなぎ」ですが、
つなぎの四角が「三升」という、
一味違う蜀江になっていて、楽しいです。
(楽しいのは、私だけか?)
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-10-14 14:01 | 江戸の文様・江戸の色 | Comments(0)

萩揺れて。

10月なのにまだ暑い今年は、まだ萩が咲いているのを多く見かけます。
どうやら花のつくのが遅かったようです。

秋の七草の萩ですが、ずいぶん古くから日本にあったらしく、
草冠に秋・・・・・・「萩」という文字も日本で作られたようです。
万葉集に登場する植物では、「萩」が第1位だってご存知でした?
それほどに、暮らしに身近な植物だったということなのでしょう。

生薬として使われたり(根はめまいやのぼせ、またイボの薬としても使われた)、お茶にもなるし、種は粉にして飯に混ぜたり。
家畜のエサにもなれば、はいだ皮で縄もなえ、屋根を葺いたり垣根にしたり、染料にもなりました。


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西行に
「乱れ咲く野辺の萩原分け暮れて
       露にも袖を染めてけるかな」
という歌があって、萩原というほど、
そこらへんに群生していたのだなあと、思わせます。




萩はまた、秋の七草として江戸期にも人気があり、
寺島村百花園(現在の向島百花園)では、秋の七草を愛でる遊人が訪れます。

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  寺島村百花園の萩


さらに萩だけを楽しむなら、亀戸の「慈雲山竜眼寺(龍眼寺)」が随一。
推古天皇が殖髪(うえかみ)聖徳太子像をこの寺に収めたといわれています。
それから時がたち、明和3年(1766年)には、
太子堂を建立するために境内に萩を植え始め、
それが次第に増え、文政ころには「数千叢(すせんそう)」にもなったとありますから、
まさに「萩寺」と呼ばれる風格となったようです。
今は境内からスカイツリーも見え、規模は縮小されましたが、
江戸を偲ぶにはよいかもしれません。

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亀戸の龍眼寺の萩の庭


萩を用いた工芸品も多く残っていますが、
浮世絵などにもよく萩が見られ、江戸時代の古典への懐古をうかがわせます。
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-10-06 15:53 | 江戸の園芸 | Comments(0)

「安宅の鮨」

文化年間(1804~17年)の初め頃、
深川の安宅(あたけ )というところに「松が鮨」という、
日本最初の握りすし屋が店を構えました。
かつてすしは魚を発酵させた“なれずし”だけでしたが、
後年、飯に酢を入れることによってすぐに食べられる“はやずし”が考案されました。
これによって、天明年間(1781~89年)には、
すしの屋台が出現したといわれています。
それからまた時がたち、それまで鮨は屋台売りが一般的でしたが、
これを素材、器、店の場所やつくりなど、さまざまな吟味をし、
高級化を極めた「松が鮨」が誕生します。

「松が鮨」は高級握りずし店の元祖で、
二重になった5寸(約15センチ)の器に入ったすしは、3両(約25万円)もします。
いったいどんな人がそんなばかげた値段の鮨を・・・? と思いますよね。
上級武士や豪商などが、権力を持つ人物に進物用にと、
競って「松が鮨の折」を求めるのです。
こうやって、「松が鮨」は、
ますますその名は江戸中に知れわたることとなりました。
一説には「華屋与兵衛」の方が早かったとも言われますが、
いまのところは松が鮨が主説となっています。



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さて、作品についてです。
娘が手にしているのは、松が鮨の折と取り分けた皿。
皿にはこはだや玉子まき、海老の鮨、はじかみの酢漬けが載っています。
ちなみに皿の大きさは10ミリ。
見えていませんが、折の箱の中にも、ちゃんと鮨をいれてあります。
浮世絵の原画は、能や歌舞伎の題材にもなっている「安宅関」と
「安宅の松が鮨」の地名をかけています。
「安宅関」は、義経と弁慶の一行が、奥州に逃れる姿を描いたもので、
画の中には安宅関を通るときのエピソードが、ちりばめられていますので、
そこを忠実に制作しました。
娘は「弁慶格子」の着物に、「扇文様」の帯を締めていますし、
幼な子の着物には、「籠目文様」が描かれています。
これは、義経一行が奥州・藤原秀衡のもとに逃れようとした際、
武蔵坊弁慶が、籠を背負った子どもに、安宅の関への道をたずね、
教えてくれたお礼に扇を与えたというエピソードに由来しています。
弁慶の弁慶格子、子どもに授けた扇の文様、
子どもが背負っていた籠から、籠目文様といった具合です。

人形の娘の高さは8センチなので、あとはご想像ください。
この作品をイギリスまで持って行ったことがありますが、
ご覧になった老婦人が、この赤ちゃんを放さなくなってしまったので、
よほどお気に召したのでしょう。
翌年、この方のために別に、幼子の作品を作って、
ロンドンから2時間のご自宅までお届けしたら、
今も大切にしてくださっているとか。
子どもの作品は、世界共通で、女性にとても人気があります。
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-09-21 11:34 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

夏が終わると井戸そうじ

旧暦7月7日は七夕ですが、この日はまた江戸では「井戸替え」といって、
井戸を清掃する日です。
今年でしたら、8月24日、
ちょうど明日が七夕で、かつ井戸替えの日です。


f0186852_14374290.jpg 江戸の井戸の大方は、
上水道を使って給水される末端の水汲み場ですから、
いっせいに掃除しないと、
汚れた水が次の樋を伝わって給水されてしまいます。
長屋などでは、大家の指揮のもと住人総出で、
井戸の水をすっかりくみ出し、
一年間にたまったゴミや落し物を拾いあげます。
それが終わると、水神さま、井戸の神さまに、
お神酒とお清めの塩をお供えします。
また、地域によっては、七夕に素麺を食べますから、
「井戸替えの素麺」といって、
素麺をお供えするところもあるようです。



f0186852_15532377.jpg川柳にこんなのがあります。
「ありがたさ たまさか井戸で 鮎を汲み」
井戸で鮎が泳いでる?
玉川とつながってはいるでしょうけれど、
ほんとに鮎が井戸に?? 
「井戸替えに 大家とみへて 高足下駄」
井戸を浚う住人はみな裸足でしょうけれど、
大家さんは口は出すけど手も脚も出さない
・・・・なるほど。
足がぬれるのさえ、イヤってことですね。
でも、大家さん(大家は家主ではなく、長屋の管理人的存在)は、
みなの衆、よくやりましたなと、酒など振舞います。

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この井戸替えは、井戸浚い(いどさらい)は、江戸だけでなく、
上方でもやはりこの日にやるらしく、商家などでは大賑わいの一日だったと聞きます。


こんなに暑くても、きょうは処暑。
立秋もだいぶ前に過ぎ、もう暑さも収まる・・・・・・という意味です。
お住まいのところでは、暑さは収まりつつありますでしょうか?
明日が本来の七夕。
晴れていれば、街の明かりがジャマをしなければ、
牽牛と織女の天の川での逢瀬が見られます。
無事に夏も越せたと、夏越の祓いも済み、
後の半分も息災でありますよう、
長屋の住民も、力を合わせて井戸浚いをするのでしょうね。

みなさまもどうか、ご息災で、とにもかくにもこのクソ暑さ、
乗り切ってくださいましね!





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# by edo-ukiyo-doll | 2012-08-23 16:01 | 江戸ぐらし | Comments(0)

涼を運ぶ江戸のアイテム

江戸のころの涼を呼ぶ工夫のひとつに、
こんなものがあります。
画の左下に描かれた緑の置物。

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水盤部分を拡大しています。
稗のなかに笠と蓑をつけ、弓矢を構えた狩人。
向こうに鶴がいます。金魚もいますね!


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現代ではこのようなものは、「水盤」と呼ぶようですが、
江戸のころには「稗蒔(ひえまき)」と呼んでいます。
平たい陶磁器の器に、みどりの苗のようなものを植えてありますね。


この草が稗で、夏になりますと
「ひえまァき~、ひえまァき~」という呼び声で売りにきます。
稗蒔売りは、天秤棒に四つ手にした台を提げ、
4,5センチに育った稗を入れた水盤を載せて、町中を流します。
この水盤は、小さいのなら5寸(約15センチ)から、
大きいのでは1尺(約30センチ)のもので、
これは田んぼや水辺の葦などに見立てたものですから、
ここに小さな橋や、笠に蓑をまとった小さな人形、
鶴と狩人などの今で言えばフィギュアを置いたりしています。


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上の画に見えるのは、上から水を入れると
噴水のように水が吹き上がるもので、
「水からくり」といいます。

「稗蒔のわづか四文の青あらし」
売りに来る稗蒔は小さいのだと四文(80~120円ほど)で、
青々と草をゆすり吹き渡る初夏の風を思わせるのでしょう。


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水からくりには、こんな大がかりなものもあります。
上の瓶に水を注ぐと、水圧でしたまで勢いよくきて、
円錐形の部分から引きあがる簡単な仕組み。
大人の「夏の自由研究」に、身の回りにあるものを利用して、
「水からくり」作ってみませんか?
江戸の涼を呼ぶ水盤や水からくり、
涼しげでしかもたのしい! 家族で楽しめますね。




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一番上の画を参考に制作した「カニさん」。
水盤も狩人と鶴を作って入れました







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# by edo-ukiyo-doll | 2012-08-19 08:54 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸の盆


江戸のお盆は、なかなかに忙しいのですが、文月12日には、盆市が立ちます。
盆市はお盆の行事に必要なもの一切を商う市で、「草市」とも言われます。
東京ならば、もんじゃ焼きで有名になった月島で、
新暦のお盆になりますが、現在も続いていて大いににぎわっています。
      

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お盆は盂蘭盆会のことですが、
文月の13日~16日は「魂祭(たままつり)」といって、
ご先祖さまの霊を迎える習慣は、現代もおなじですね。
現代よりはもっとしっかりしてまして、
家の中には竹で精霊棚を作り、ここにお供えをします。
そういえば子どものころ、田舎の祖父の家で精霊棚を見た記憶があります。
その土地ではお墓の前にも小さな精霊棚をつくって、お供えをしていましたっけ。



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さて、江戸です。
7月12日の昼から、
市中の各所で開かれますが、
12日は吉原仲ノ町、深川櫓下、
本所四ツ目などで。
13日には日本橋や両国、
人形町などで、さまざまなものが売られます。

竹、菰のむしろ、間瀬垣(ませがき)、苧殻(おがら)、ほおずき、
白や黄の茄子、紅花、榧(かや)の実、青柿、青栗、秋の花々、
蓮の葉、蓮花、瓢箪、瓜などで作った牛馬、盆燈籠、盆提灯、
線香、焙烙(ほうろく)、
そのほかに、さまざまな菓子や食べ物も売っています。
盆市でなくても、荷担い売りが町にやってきますので、
それでもお盆のしたくはできますが、やっぱり市は楽しみです。



12日の夜には、迎え火をたきますが、
いまでも土地によっては、迎え火、送り火をたかれるところもありますね。
場所によっては13日の朝にたくところもあります。
これは十億万土の彼方から、
精霊が迷わないでたどり着けるようにとか、
たいた煙に乗ってやってくるから、などと言われています。



盂蘭盆会の期間を「盆中」と呼んで、
墓参りをしたり、僧侶を家に呼んでお経をあげてもらうのは、
これも現代でも同じですね。


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現代で見られない盆の様子があります。
江戸の街中では、女の子たちが手をつなぎ連なって、
歌を歌い歩くのですが、これが「かまびすしい」とまであります。
これは、延宝5年(1677年)には禁令が出るほどで、
文月に入るなり、女の子たちはいたるところで踊りまくり、
衣装も華美になって、エスカレートしていったためのようです。



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文月の13日には、
王子稲荷の大祭もありますし、
吉原の灯籠も
見に行かなくっちゃならないし、
盆踊りも参加したいし、
江戸のお盆は大忙しで、
16日の朝に送り火をたいて、
ご先祖さまをお送りして、
やっと一息つける、
といったところでしょうか。


盆灯篭もとってもきれいで、心惹かれます。
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-08-13 20:08 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏の物売り。「夏を乗り切る」薬売り。

枇杷の葉のお茶を飲んでる方もいらっしゃるのではと思いますが、
江戸の頃には、「枇杷葉湯」といって、枇杷の葉に、
肉桂(にっけい)や甘草(かんぞう)など、数種の薬草を混ぜて煮出した、
いわばハーブティーは、夏の定番の手軽な煎じ薬でした。
暑気当たりやかくらん、くだり腹に効くそうで、
甘草が入っているので、ほのかに甘いのでしょう。
無料で飲ませて宣伝し、良ければ買ってもらうという販売です。

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上の図の右にいるのが
枇杷葉湯売り。
拡大してみます。














  「枇杷と桃 葉ばかりながら 暑気払い」
桃の葉も、あせもや湿疹など皮膚の炎症などを抑えるので、
お風呂にいれたり、特に夏には欠かせないものです。
枇杷も桃も実を食べるのに、「葉っぱばかり」使うのと、「憚りながら」をかけた川柳。


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これも枇杷葉湯売り





本店は京の烏丸にあり、江戸には天明(1781~88年)の頃に、
薬炉を取り付けた箱を担いで、通りを行く人々に飲ませる・・・・
ってなことを、太田南畝が書いているそうで、
これが「京の烏丸枇杷葉湯」という薬売りです。
箱には烏がトレードマークになっていて、夏の江戸の風景にはよく見かけます。
   「京の烏を江戸で売る熱い事」
   「真黒になって売るのは烏丸」



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一方の定斎屋。
「是斎屋(ぜさいや)」ともありますが、
「じょさいや」というのが江戸風のようです。
町を売り歩く薬屋ですが、
夏の諸病に効果があるという薬を売っているので、
江戸の夏の風物詩ともなっているほどです。
濃紺の印半てんに股引(夏は脚絆のことも)、
炎天下でもけっして笠や手ぬぐいはかむらず、
「これを飲んでいれば、ほれこの通り暑気もなんのその」
という宣伝でもあるわけです。

   「定斎屋は色が黒いが自慢なり」
天秤棒で箱を担いでいますが、
この箱には朱や青貝の螺鈿で、
「定斎」あるいは屋号などが入っています。
屋手長の箱には、小さな引き出しがたくさんあり、
ここに付いている取っ手が「鐶(かん・金属のCの字型)」になっていますから、
歩くたびに、カタカタとリズミカルな音がします。
売り声を上げずとも定斎屋が来ているのは、この鐶の音でわかります。


「鬼のかくらん」といいますが、
日本では暑気あたりや日射病などのこともさしたようで、
江戸の頃には経験的にこのような薬で、対処していたんですね。









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# by edo-ukiyo-doll | 2012-08-09 12:29 | 江戸歳時記 | Comments(1)

蓮池や買わず飛び込む・・・・・・・・

ロンドン・オリンピックでは、
やや中心にあるハイド・パークのサーペンタインの池で
トライアスロンの水泳をやるそうで。
あそこでほんとに泳げるのだろうか・・・
と???の人も多いようですが、
一方、東京の中心から少しハズレの、かつては忍ヶ岡と呼ばれたそばの不忍池。
ここではまず水泳は無理でしょうが、
江戸のころには、東都第一の蓮池といわれています。


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蓮の花見頃は、小暑のあと20日頃と言われますので、
先週末に行ってみました~。
が、まだ3分咲き。

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それでもやっぱり美しかったですよ。
8月にはいって少したってからは、もっときれいですね。



不忍池の広さは見わたし3,4丁(300~400メートル強)、長さ5,7丁というのですが、
今は、かつては島として築かれた弁才天のある島も、
すっかり陸地になっているので、池がどれほど小さくなったかを感じます。

江戸の頃は隣接する動物園もなかったですし、
周囲のビルヂング群もなかったので、それはそれはみどりの只中。
黎明(未明~曙の頃)には、蓮の花が開くのをみようと、
大いににぎわいました。
この時間にはことさら匂い芳しく、
紅白の蓮の花が朝日に映える光景は、「たとへんにもの無し」だそうです。



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かつて、この界隈には料理屋が多く、広重なども描いています。
このような料理屋では、蓮飯が名物で、
蓮の若い葉を刻んで混ぜた飯を、ちょっと塩を入れて炊き、
大きな蓮の葉で、炊きあがった飯をくるんで少し置いてからだすと、
さぞや香りも良かったのでしょう。


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上の画は蓮の葉を採取している風景

蓮の花の香りの高さは、「蓮茗(はすちゃ)」としても、
のまれているようです。
作り方はちょっと大変。
蓮の花の中に質の良い、濃く入れたお茶を注ぎ、花びらを寄せて、
コヨリで花の先を結びます。
何枚も重なり合っているので、お茶はこぼれなくなります。(と書いてある)
それを、エイヤー! とばかりに逆さにしたら、
しばらくおきます。
今度は薄く入れたお茶を茶碗についで、そこに蓮の花のお茶を少しずついれて飲むと、
匂い高く、心すがすがしくなり、精神を養うそうです。
どなたかやってみたら、ご一報ください!

暑くてたまらないこんな日に、
蓮茗なんぞ飲んでみたいものですなあ。




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# by edo-ukiyo-doll | 2012-07-31 16:19 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸にいながら登る富士。

最近、富士登山者の2人に1人は女性だそうで、
「山女(やまおんな)」とは昔の言い方、いまは「山ガール」と言うそうな。

さて、富士山といえば、江戸時代の富士登山の賑わいは、
凄まじいとさえ言えるもので、
信仰心がありますから、誰しも一生に一度は登っておきたいわけです。
でも大変にお金がかかりますから、大勢で「講」という団体を作って、
ちょっとずつお金を積み立て、毎年、順繰りに富士山へ登拝できるという仕組みです。


ですが、登れない人のほうが多いので、
なんとかして富士のご利益を得られないものか・・・、
と考え出されたのが、見立ての富士。
江戸人は、実にこの「見立て」がうまい!
富士山から溶岩を持ち帰ってもらい、それで江戸市中に富士山をつくっちゃいました~。


f0186852_2255472.jpgこれが、あちらこちらにできて、
これを「新富士」とか
後には「富士塚」などと呼んで、
旧暦5月28日の夜から、
6月朔日にかけて参詣に行きます。
今年なら、新暦7月19日、昨日になります。

人工の小さな富士であっても、
お参りの前に家で線香を立てて捧げてから、
新富士へと出かけます。
        
        右の画は広重の描く「目黒元不二」。
         桜のころ、花を眺める人々。向こうには本物の富士。




駒込、深川八幡、鉄砲洲稲荷、浅草埋堀の砂利場、高田戸塚村、
茅場町天満宮、目黒行人坂などにあります。
現在でも、残っているところがあるので、実際に行ってみるのも江戸気分。


なかでも、駒込の冨士は、「一冨士 二鷹 三茄子」というのは駒込のことだとも言われ、
ここが新富士の元祖とも言われています。
駒込の「お富士さん」は、六義園の近く、富士神社の境内に現在しています。
下の図が、駒込のお富士さん。
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江戸の人々は、朝早くに富士に詣でますと、縁起物の麦藁細工の蛇を買います。
これは火除けのお守りですから、少しずつ形は変わりましたが、今も売っています。

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上の駒込のお富士さんの図にも、3人、麦わらの蛇を持っています










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  右の美人画は、英泉画描く美人画。
   この美人の左上のコマ絵には高田の富士。
   (コマ絵を拡大したのが左)
   ちょっと誇張していますが、
   実際にはもっと低いようです



牛込の高田富士は、朱楽菅江の
安永8年刊の『大抵御覧』では、
今戸の料亭や三叉中州と並んで、
江戸の新三景のひとつになっています。

安永年間に、
馬場下町の長四郎という人が、
高田水稲荷の境内に作ったもので、
これがきっかけで、
江戸市中のあちこちに、
新富士を築くのが流行ったと言われます。

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江戸の夏は、今でいう「エンターテイメント」が、
たくさんあって、
多くは信仰に関連するものですが、
自分の足で歩いて(船もあるけど)行って見た
「それ」らは、どんなにか感激だったでしょうね。





                  右は鉄砲洲稲荷の富士塚







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# by edo-ukiyo-doll | 2012-07-20 16:43 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏の物売り。「のどをうるおす」水菓子売り

「水菓子」といっても、スイーツのことではなく、フルーツのことです。
いまでも、茶の湯では水菓子といっていますし、料亭などでもそういっていますね。

さて、江戸では夏になりますと、道端でこの「水菓子売り」が、店を広げます。

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盤台桶や籠などに、西瓜、真桑瓜、桃などを積み並べ、
西瓜は切って赤い色と、
甘みがあるところを見せますし、
真桑は皮を剥いて四ツ割りにし、
桃には水を打って夏桃のうつくしさを演出して売ります。
てなことを、明治時代に江戸の風俗として書かれています



冷たいわけではないし、現代の果物のように、
とっても甘いわけでもないのですが、
水分が多くほのかな甘さでも、江戸の人々には、
どんなにかおいしく感じられたことでしょう。
現代人は、冷たいもの、甘みの強いものに慣れ過ぎてますね。

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     この西瓜は暗緑色に筋が入っています。
     割り方も、横割り!
     真桑瓜や桃も並んでいますね









ろうそくを立てて、
西瓜を切り売りしているおいちゃん。
一服つけるとこです。
盤台桶を逆さにして、上に西瓜並べてます





なかでも西瓜は一番人気。
原産地は南アフリカのカラハリ砂漠あたりらしいです。
砂漠で西瓜? 西瓜も生き延びるために、水分蓄えたのね。
もちろんその原種からどんどん変化し、私たちの知っている西瓜になったのでしょうけど。


エジプトでは紀元前何千年も前にすでに、西瓜があったらしいですし、
11世紀ころには中国に伝わっています。
中国では西から来た瓜というので、西瓜(シイグワ)と呼んだのだとか。
日本には天正7年(1579年)に、長崎に持ち込まれたのが最初とか、
17世紀半ばに隠元禅師が中国から持ってきたなどいわれますが、
平安時代にはすでに伝わっていたらしいです。

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それはさておき、江戸時代の西瓜は、現代のようにシマシマでなく、
全体が黒っぽい緑色のまん丸なものが多いようです。

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元禄のころ(1700年前後)には、日本各地でそれぞれに改良がなされ、
さまざまな種類が作られていたようですが、
江戸近郊の大森羽田、北沢、世田谷、八王子、亀戸などで栽培され、
水路などで江戸市中に運ばれ、市場へ届きます。


それほど甘みはなく、出回った初めのころは、
下世話な食べ物とされていましたが、
果実をすくい取って、砂糖をかけ、しばらくおいてから食べるなど、
高級な食べ方もされるようになりました。

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  でも、働くおいちゃんたちは、
    こんなところでムシャムシャ、
   ガブガブ食べてたのね!
   証拠の皮が残ってますよ。
   西瓜が江戸では、気軽に買える
    人気の食べ物だってわかりますね




ちなみに西瓜は漢方では種も皮もよく使われ、
皮はコレステロールの減少、血管拡張の働きがあるとされます。
また、果汁は利尿効果が高いので、「スイカ糖」は腎臓の薬として用いられるとか。
夏のむくみでお医者さんに行ったら、
スイカはカリウムが多いので、むくみをとる効果がありますよ、
と勧められ、以降、夏の朝には一切れいただきます。






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# by edo-ukiyo-doll | 2012-07-12 18:20 | 江戸歳時記 | Comments(0)

七夕の食べ物

七夕は今年も雨のようですね。
といっても、梅雨のシーズンに七夕を、というのですから、
仕方ありませんね。
ほんとうの七夕は秋の行事で、今年は8月24日ですから、
織姫と彦星のデートをごらんになりたい方は、
ぜひ、この日に夜空に目を凝らしてくださいね。

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さて、江戸時代の七夕は、京の貴族の行事を踏襲したものなので、
七夕の日には、将軍の江戸城はもとより、
諸藩でも家臣は礼服をまとい、ご祝儀の挨拶に行きます。

七夕には、何か特別なものを召し上がりますか?
江戸時代には、素麺(そうめん)をいただきます。
夏の終わりに素麺・・・健康のためではなく、
中国の故事に由来しているようです。

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奈良時代に、中国から日本に、
「索餅(さくべえ)」というお菓子が渡来しました。
別名、「むぎなわ」ともいわれていますが、
小麦粉と米粉をミックスしたのに塩を入れ、
縄のようにねじって作ったものらしいです。
それが時代が進むと、柔らかいうちに伸ばして、
包丁で細く切ったものに変化したらしいのです。

これがなんで七夕に?
中国の伝説に、
王の子が7月7日になくなったのですが、
成仏できなかったのか、
この子の霊が人々に「おこり」
という病気をもたらしました。
そこで、この子が好きだった索餅を作ってお供えし、
霊は去っていったといわれます。


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 笹竹に短冊などを飾るのは、
        江戸時代になってからの風習。
        7月6日にこの画のように、
        物干し台の手すりなどに
        くくりつけて飾ります。
        それで、江戸の七夕は、
        笹竹で空が覆われるようだ
        と言われます。





この索餅というお菓子が、素麺の元になったとも言われ、
お公家さんはもとより、江戸時代には将軍から庶民まで、
七夕には素麺を食べることになったのです。
食べるだけでなく、七夕はお祝いの日ですから、
上司や親戚咽にもご挨拶に行きますが、
たいてい素麺や水菓子(果物)を持っていきます。


明日は、素麺食べようっかな~003.gif









・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-07-06 18:18 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夏の物売り。「声に惚れる」蚊帳売り

湿度が高く高温の日本の暮らしは、
さまざまに夏への配慮がされています。
江戸は卯月(4月)から夏なので、
4月になりますと、夏向けの物を携えて、
さまざまな物売りがやってきます。

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蚊帳(かや)ってご存知ですか?
この画のグリーンのネットのようなものが「蚊帳」で、
この中にいれば蚊から身を防げます。


江戸は水の都ですし、本所深川方面など湿地帯も多く、
夏にはなにはなくとも、まず蚊帳!
というわけで、4月(現代の5~6月ころ)に入ると、
蚊帳売りがやってきます。

蚊帳売りが来るとすぐにわかります。
「かや~、もえぎのか~や~~~~~」
と、なんとも美しい声で、なが~~~~~く音を引いて呼びかけるのです。
柳は青く風に揺れ、
初夏の空にす~っと上っていくような、すがすがしい声です。



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江戸の町の初夏の風景。
皐月(5月)なので、端午の節句の菖蒲や、
節句の飾り物を担いだ人がいますね。
魚屋が担いでいるのは、鰹です



蚊帳は古く中国から伝わってきましたが、
江戸時代には多く近江で生産されるようになり、
日本橋通町一丁目の大きな問屋ができます。
ちょっとセレブには白麻のぼかし染めで、見た目も涼しげな蚊帳。
裏長屋でも中古でツギが当たっていても、蚊帳は持っています。

さて、売り歩くのは、蚊帳屋の手代と、アルバイトの担ぎ手の二人一組。
二人とも菅笠をかぶり、手代は扇子など手に、
荷はもっぱら雇われた男がかつぎます。
ですが、このアルバイトの男、只者ではない。
まず、美声でなければならず、採用決定の後は、
新人なら、呼び声の大特訓が始まります。
だいたいは、荷を担ぐアルバイトは例年決まっているようです。
一声で、半町(50メートルくらい)歩くそうですよ。
やってみます?

手前が手代さんで、夏羽織を着ています。
天秤を担ぐ男は、腹掛けに半てん
(この人はゆかたに見えるけど、やっぱり半てん)、
手甲に脚絆、わらじ履きです。
塗りの箱には店のロゴ。
箱の上には、包装した蚊帳を載せています。



この特殊な呼び声の始まりは、ある男の喧嘩がきっかけでした。
大坂の茶店で友達と喧嘩し、傷を負わせてしまい、その場を逃走して、
江戸まで逃げ延びた天満喜美太夫(てんま・きみだゆう)。
彼は説教節の上手でしたので、
江戸は駿河町に住み着き、蚊帳担ぎに雇われたとき、
生来の美声で「もえぎのかや~~~~~」と、
呼び声に節を付け売り歩きます。
すると、どうでしょう!
人々はこの声に「うかれ」、この年の売り上げは、驚くほどよかったそうです。
以来、蚊帳売りの担ぎ手は、呼び声で江戸人に夏を告げるようになりましたとさ。



節電時代に入って2年。
蚊帳がまた売れ始めているそうです。
家族みんなでひとつ蚊帳で、虫籠などつるして・・・・・・、
なんてね! きっといい夏になりますね。









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# by edo-ukiyo-doll | 2012-06-22 10:50 | 江戸歳時記 | Comments(0)

そうだ、江戸へ行こう! 蛍狩りに。

先日、房総にお住まいの知り合いが、
お近くで蛍をごらんになったそうで。
自然の状況下で、蛍を見かけなくなって、はや数十年!

江戸では立夏の後、40日たった頃から蛍・・・・
といいますから、いまごろは蛍狩りにでかけているのだろうなあと、
あこがれてしまうわけです。

江戸ならば、ちょっと郊外に足を運べば、
蛍の名所はあちらこちらにあります。
以前ご紹介した「ほ、ほ、蛍」の項では、
御茶ノ水を取り上げましたが、
谷中の蛍沢(現・台東区谷中)は特に有名です。


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現在も谷中に健在の宗林寺は、
家康が入府の折、駿河から連れてきたという古刹。
この本堂のそばに幅9尺(3メートル弱)、
長さが10間(20メートル弱)ほどの池があって、
ここが蛍沢と呼ばれていたと古い記録にはあるようです。
後年はこの一帯を蛍沢と呼ぶようになったらしく、
現在でも「蛍坂」という細い坂があります。




ではしばし、江戸の人々と一緒に、蛍狩りをお楽しみください。

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左の、春信の描く蛍狩りは、
ロマンチック。
小川には水車が回っています。




右の、英泉のは娘と
おっかさんかも。
蛍狩りで、
こんな人たちと出会えたら、
うれしいでしょうね




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ここも蛍狩りの名所、高田の落合。


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蛍をとるには、先の葉だけを残した笹竹を使うのね












ほら、こんなにとれたゼイ!」f0186852_1141332.jpg










おや、あちらが賑わしいですなあ










こうやってとった蛍は
「籠中にいれて家裹(いえづと・おみやげのこと)とす」ることが多いようです。


郊外までなかなか行けない人も多いですから、
町には虫売りがやってきます。
もちろん蛍もあります。
蛍は、こんな籠に入れて売られるんですね。

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丸いのや四角いの。
黒の紗を張って、蛍の光を生かすように、
工夫されているのでしょうね。
どうやって作られているのか、
不思議なほど繊細なものもあります。






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「源氏絵」でももちろん、蛍狩り。
なんと賑やかな御殿のお庭でしょう。
お女中たちのはじけるような笑い声、
聞こえてきそうです。

そういえば、「源氏絵」って、とっても不思議な空間です。
 いつかご紹介しますね。







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# by edo-ukiyo-doll | 2012-06-19 13:21 | 江戸歳時記 | Comments(0)

まくわうり


今年1月に開催された個展「江戸のちるど連」に出展した作品を、
ときどき、ご紹介していきますね。


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「まくわうり」


徳川家康も「暑邪を除くべき良薬」と推奨した「まくわうり」は、
夏の定番の水菓子(果物のこと)。
「真桑瓜」と書きます。
真桑村(美濃国。現・岐阜県本巣市)に産出し、
朝廷に献上したところ大そう喜ばれ、
時が下って織田信長がこれを大いに保護し、広めたのだとか。

縄文時代の遺跡からも、種が出土しているという昔からの食べ物です。
原産地はアフリカや中東で、
中国・朝鮮半島を経て、日本に入ったようです。

浮世絵などで夏の景には、
西瓜とともに描かれる、水菓子の代表的存在です。

もとにした浮世絵は歌麿の画。
時代的に母は凝った結い方に灯籠びんという大きな髪形で、
薄物の単衣を着ています。
子どものほうも周囲は剃り上げているのに、
頭頂は両輪にした毛先をさらにその上に載せて、ずいぶんおしゃれです。


  *緑色部分の文章は、展示用の解説文です。


この作品は、小物作りが大変でしたが、楽しかったです。
母の手のまくわうりは、皮が剥けている部分が難しいと思ったのですが、
案外うまくできたので、そんなときは鼻歌も出ます060.gif

髪形も、文化文政期以前なのに、歌麿の描く頭は凝っていて、
いったいどうやって結っているのだろう?
という結髪の分析から始めますが、苦労が多い分、
なるほど、こうなってるのか!
と解明できたときには、ニンマリします026.gif


以前、まくわうりのお話を書いたのですが、
それをごらんになった府中の昔のまくわうりを再興されている方から、
お問い合わせがあったり、
江戸時代に栽培されていた野菜・水菓子の復元?は、
ますます活発になってきたようで、うれしいですね!
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-06-08 09:32 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

ほととぎす聴く

江戸では、桜が終わると藤が咲き、
鰹とほととぎすを心待ちにします。
立夏を過ぎるあたりからほととぎすが鳴き始めると、
物の本にもあり、浮世絵にもたくさん描かれています。


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「ホ・ジュン」という韓国時代ドラマをご存知の方もおいででしょうけれど、
それにはイェジンという、品のよいうつくしいお嬢さん(実は女医)が登場します。
故あって、彼女が宮廷を去ろうと決めた夜、池のほとりに座り、
「ああ、ホトトギスの啼き声が、心にしみるわ・・・」
と空を見上げるのです。
そのシーンがあまりに美しく印象的で、ほととぎすの声を聴いてみたくなりました。

すると先日少し郊外で、暮れ方の空を甲高い声がし、
それがほととぎすと知りました。
浮世絵ではたくさん知っていますのに、初めて声を聴いたので感激でした。
朝鮮半島の古の都でも、江戸でも、ほととぎすの鳴き声が聴こえていたのですね。
また一歩、江戸に近づいた気がしました。



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ほととぎすは初夏を告げる鳥で、
南アジアから渡ってきます。
鳩より少し小さいかもしれません。
かつて東北では
「ほととぎすが鳴いたら、
田植えをせよ」と言われたとか。



「杜鵑」「時鳥」「不如帰」「子規」など、たくさんの表記がありますが、
江戸では「郭公」をほととぎすとも読みました。
確かにほととぎすはカッコウ目カッコウ科の鳥ですが、
啼き声はぜんぜん違います。

小石川白山はことわざに、
「この国でほととぎすはこの地から啼き始める」といわれることから、
ここを「初音の里」とも言われます。
また高田、雑司ヶ谷、御茶ノ水、神田社、谷中などなど、
江戸中で見かけますが、とりわけ木々のゆたかな西の方に多くいたようです。


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「聞いたかと問へば食ふたかと答へ」
とは、ほととぎすの声はもう聴いたかい? ときけば、
鰹はもう食ったのかよお、と答えが返ってくる。
初鰹に狂乱の態の江戸っ子ですが、
ほととぎすにもずいぶんな思い入れがあるのですね。


でも鰹もほととぎすも時がたち、
珍しくもなくなってくると、
ほととぎすは、
「江戸の山の手にはほととぎすが多くて、
朝からやまずなき暮らして、大変にうるさい。
なかない日もあればいいのに!」
など言われます。

「五月雨と一緒に飽きる時鳥(ほととぎす)」

なるほどね。










^.^
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-06-03 13:31 | 江戸歳時記 | Comments(0)

走れ、はしれ! 初鰹

まさに、この時期が鰹の旬。
値段も手ごろになってきて、きょうは刺身かたたきで・・・、
カルパッチョもいいなあ、
などおいしいシーンが浮かんでしまいます。

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日本橋を渡る鰹売り



江戸は初物大好き、初物食わずに何のこの世かな、
みたいな風潮でしたので、
とくに鰹は「勝男」にも通じ、武家の都市江戸では大人気です。
また、「初物を食えば,七十五日長生きする」ともいわれますので、
正規に魚河岸に入るより先に、鰹を食すことが見得でもありました。
上方では鰹は人気はなく、この熱狂振りは、江戸独特のものでした。

ちなみに七十五日長生きをするというのは、
ある時、処刑場に向かう男に最後に所望するものを尋ねたところ、
季節ではないものを食べたいと言い、
そのため処刑が七十五日間、延期されたことにあやかっているのだとか。


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北斎の描いた神奈川沖のおしょくり船


さて、神奈川や房総沖で獲れた鰹は、「おしょくり船(押送船)」という、八丁艪(はっちょうろ)の、高速船で日本橋へと運ばれます。
鰹は足が早いので(早く悪くなりやすい。鰹は走りません)、獲ったら市場へ! がキメテ。
なかにはこの船を途中で待ち受け、「買った!」という人もいたとか・・・。
「初がつお むかでのやうな 船に乗り」
とは八丁の艪が百足の足のようで、その船で運ばれてくることをいっています。



将軍家の御膳に上るより先に口に入れる。
これが江戸っ子の心意気ってものだったようです。
もちろん、そのお値段たるや!
文化9年(1812年)の3月25日(新暦なら4月下旬)のこと。
日本橋に17本入荷した初鰹のうち、6本は将軍家に献上され、
残り11本の競で、1本が2両1分(20万円以上)となり、
あの八百善が3本買い、中村歌右衛門も1本買って、
下積みの役者たちにふるまったそうです。

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文政6年(1823年)の初鰹は、
3月15日に河岸に入荷しましたが、
やっぱり八百善が、
1本約30万円で落としたとか。
(正確には4両だったので、40万円くらい?!)
しかも2本も買ったそうです。
これは宣伝の為だったらしいのですが、
そう書いた太田蜀山人は、
自分は某家中の留守居役宅で、
3月10日に鰹をご馳走になったそうで、
いやはや、
世の中には上の上がいるのですねえ。



              こちらも日本橋を渡る鰹売りですが、空の様子でまだ早朝だとわかります。
           



魚屋は朝早くに日本橋で買って、鰹なら朝のうちに市中で売るのが信条です。
「丸の内 まだ薄暗き 初鰹」
丸の内は大名屋敷の立ち並ぶエリアです。
大名屋敷ともなれば、魚屋も決まっていて、
ほとんどは予約で、売り損なうこともないのでしょう。
それでも鮮度を下げまいと、鰹担いだ男は、走ります!


この初鰹ブームは天明・寛政年間(1781~1800)が最盛期で、
およそ40年間続きました。







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# by edo-ukiyo-doll | 2012-05-25 18:43 | 江戸の食べ物 | Comments(0)