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走れ、はしれ! 初鰹

まさに、この時期が鰹の旬。
値段も手ごろになってきて、きょうは刺身かたたきで・・・、
カルパッチョもいいなあ、
などおいしいシーンが浮かんでしまいます。

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日本橋を渡る鰹売り



江戸は初物大好き、初物食わずに何のこの世かな、
みたいな風潮でしたので、
とくに鰹は「勝男」にも通じ、武家の都市江戸では大人気です。
また、「初物を食えば,七十五日長生きする」ともいわれますので、
正規に魚河岸に入るより先に、鰹を食すことが見得でもありました。
上方では鰹は人気はなく、この熱狂振りは、江戸独特のものでした。

ちなみに七十五日長生きをするというのは、
ある時、処刑場に向かう男に最後に所望するものを尋ねたところ、
季節ではないものを食べたいと言い、
そのため処刑が七十五日間、延期されたことにあやかっているのだとか。


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北斎の描いた神奈川沖のおしょくり船


さて、神奈川や房総沖で獲れた鰹は、「おしょくり船(押送船)」という、八丁艪(はっちょうろ)の、高速船で日本橋へと運ばれます。
鰹は足が早いので(早く悪くなりやすい。鰹は走りません)、獲ったら市場へ! がキメテ。
なかにはこの船を途中で待ち受け、「買った!」という人もいたとか・・・。
「初がつお むかでのやうな 船に乗り」
とは八丁の艪が百足の足のようで、その船で運ばれてくることをいっています。



将軍家の御膳に上るより先に口に入れる。
これが江戸っ子の心意気ってものだったようです。
もちろん、そのお値段たるや!
文化9年(1812年)の3月25日(新暦なら4月下旬)のこと。
日本橋に17本入荷した初鰹のうち、6本は将軍家に献上され、
残り11本の競で、1本が2両1分(20万円以上)となり、
あの八百善が3本買い、中村歌右衛門も1本買って、
下積みの役者たちにふるまったそうです。

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文政6年(1823年)の初鰹は、
3月15日に河岸に入荷しましたが、
やっぱり八百善が、
1本約30万円で落としたとか。
(正確には4両だったので、40万円くらい?!)
しかも2本も買ったそうです。
これは宣伝の為だったらしいのですが、
そう書いた太田蜀山人は、
自分は某家中の留守居役宅で、
3月10日に鰹をご馳走になったそうで、
いやはや、
世の中には上の上がいるのですねえ。



              こちらも日本橋を渡る鰹売りですが、空の様子でまだ早朝だとわかります。
           



魚屋は朝早くに日本橋で買って、鰹なら朝のうちに市中で売るのが信条です。
「丸の内 まだ薄暗き 初鰹」
丸の内は大名屋敷の立ち並ぶエリアです。
大名屋敷ともなれば、魚屋も決まっていて、
ほとんどは予約で、売り損なうこともないのでしょう。
それでも鮮度を下げまいと、鰹担いだ男は、走ります!


この初鰹ブームは天明・寛政年間(1781~1800)が最盛期で、
およそ40年間続きました。







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# by edo-ukiyo-doll | 2012-05-25 18:43 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

長命寺の桜餅

ゴールデン・ウイークは、東北の桜が満開になるとか。
ソメイヨシノは花の期間が短いので、
桜の時期はあっという間に終わってしまう気がしますが、
関東南部でも、八重桜や大島桜は、まだ咲いていたりします。

さて、春の菓子もいろいろありますが、
代表といいますと「桜餅」でしょうか。
桜餅の桜葉は大島桜の葉が使われます。
大島桜はとても香りがよくて、開花時も一段と高い香りを漂わせています。


享保2年(1717年)・・・
暴れん坊将軍吉宗が将軍になったばかりの頃、
隅田川の川向こう(浅草の対岸)、
向島で桜餅が売り出されました。
前回お話した木母寺から河畔を南下したところに
「長命寺」という古~いお寺があって、
桜の木がたくさんありました。

ここの門番の山本新作という人が、
来る日もくる日も舞散る大量の桜の葉を履き集めながら、
この葉をなにかに使えないだろうかと考えたようです。
思いついたのは、桜の葉を塩漬けにして、
これであんこ餅をくるんでみようということでした。
おそらくは、試行錯誤の連続だったでしょう。
でも努力が実って、長命寺門前で桜餅を売り出すことになりました。

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墨堤の看桜のお帰りには、長命寺の桜餅。



そしてついには、地図に記載されるほどの名物となりました。
文政年間(1818~1830年)には、
1年間に40万個近い長命寺の桜餅が作られ、売れていたとか。
「長命寺の桜餅」として、
「山本や」は向島にあって、
特にこの時期にはまさに江戸の味と風情が楽しめます。

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長命寺の桜餅は、こんな籠に入れておみやげに。
ちなみにこの形の籠を「えぼし籠」といいます。



現代の桜餅は、関東では小麦粉を水で溶いて薄く焼いたもので餡をくるみますが、
関西では「道明寺」といって、
糯米を加工して細かく砕いたもので餅を作って餡をくるんでいます。
どちらかというと、道明寺のほうが好きですが、
長命寺の桜餅は別です。
塩漬けの桜葉3枚でくるまれた白い桜餅は、
それまで食べてきたものとまったく違った桜餅。
餅は白だけで、3枚の桜葉にすっかりくるまれているので、
餅の部分はしっとりと、とても上品です。
桜葉はむいて食べるのがよろしいそうで、
確かに3枚も一緒に食べますと、桜葉を食べるようなものですね。


こんな話はご存知?
ある日長命寺の桜餅を食べに来た二人。
ひとりが教えました。
「桜餅ってえのはなあ、かわをむいて食うんでえ」
すると相棒は、くるりと川のほうに向き、ムシャムシャ食べ始めました。
山本やさんにおいでになりましたら、隅田川を向いて召し上がるのもよろしいのですが、
どうぞ、皮(桜の葉)も剥いて召し上がってくださいましね。

でも、2個目は葉っぱを1枚一緒に食べるのが好きです。



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幕末には桜餅の屋台も出ました









・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-04-27 12:04 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

梅若忌は過ぎたけど。

能などお好きな方は「隅田川」は、とってもポピュラーな演目なので、
お話もすっかりご存知でしょう。
4月15日は「梅若忌」でした。
旧暦の3月15日が本来の「梅若忌」ですが、
新暦で日にちを固定するために、
ひと月おくれの、4月15日と定めたようです。
今も、東京は墨田区の隅田川の近くにある
「木母寺」で、梅若忌がいとなまれていますが、
江戸の頃の木母寺界隈に想いをはせながら、
梅若丸のお話を・・・・。



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「江戸名所図会」に描かれる木母寺界隈



上を拡大しています
木母寺の手前に「梅若塚」






そもそも「梅若」とは何者なのか?

平安の中頃、京都の北白川の吉田少将惟房(これふさ)という人と、
美濃国野上の長者の一人娘の花御前がという夫婦の間に、
やっと授かった男の子が、梅若丸でした。
しかし梅若丸が5歳の時父惟房が他界し、
2年後に梅若丸は比叡山の月林寺へ預けられました。

たいそう賢く、良い子でしたが、
東門院の子の若松と競わされ、優秀さをねたんだ若松側の法師が、
あろうことか梅若丸に襲い掛かろうと狙ってきました。
身を隠して、北白川の実家に帰ろうとしましたが、
山中で道に迷い、大津浜へ出てしまいます。これが2月20日頃だったとか。
そこでであったのが、陸奥国の信夫藤太(しのぶのとうた)という人でした。
親切にしてくれましたが、
実はこの男は恐ろしい人買いでした。
梅若丸を連れ、東国へと向かいます。



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ところがまだ幼い子は、疲れと悲しみのあまり、
途中で病にかかってしまいます。
貞元元年(976年)の3月15日、
隅田川の河畔にて、あえなく12歳で命を落としてしまいます。

「尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」

これは梅若丸が残したといわれる歌です。


そこに通りがかったのは、
出羽国の天羽黒山の忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)という高僧でした。
忠円阿闍梨は梅若の死を知り、
村人と共に梅若丸の亡き骸を塚に埋葬し、
1本の柳を植えて、ねんごろに弔ってやりました。


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木母寺エリアにある
高級料亭「植木屋」

屋根舟で乗りつけ、
雪見の宴をするのでしょう






さてその1年後の命日に、村人たちが法要を行っていると、
そこに差し掛かったのは、
わが子梅若丸を探し、旅に出た母・花御前だったのです。
それがわが子の墓と知り、どれほど嘆き悲しんだことか・・・・・・。

花御前は、尼になり「妙亀尼(みょうきに)」と名前をもらい、
この塚を作ってくれた忠円阿闍梨と出会い、
ここに草堂を建て、梅若を弔うことにしました。
でも、かわいそうにも母はあまりの悲しみに心を病んでしまったらしく、
橋場の鏡ヶ池(なぜか対岸の池)に入水してしまいます。

その亡き骸を亀が背に乗せて浮かび上がり、
その後妙亀大明神と祀られ、
梅若は山王権現として生まれ変わったといわれています。


この梅若伝説は、やがて能や謡曲、歌舞伎や浄瑠璃、
はては絵草紙にまで「隅田川」として、長く語られることになります。


命日にはよく雨が降り、「梅若の涙雨」と言われるそうな。



    「雉子鳴くやかの梅若の涙雨」   小林一茶
















・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-04-19 18:06 | 江戸歳時記 | Comments(0)

夢見る看梅(うめみ)

『東都歳事記』をひもときますと、寺島村の梅屋敷や蒲田村は、立春より30日ころ、
それから少し遅れて 亀戸梅屋舗(やしき)の梅が咲くということが書かれています。
立春は2月4日(旧暦では正月13日)でしたから、今年はかなり遅く、
東京でもまだ見ごろのところもあるようです。
そこに乗じて(?)「桜前線・・・」などいうこの時季に、梅見のお話を。

「看梅」と書いて「うめみ」。
ちょっとチャイナの感じがまたいいですね! 
江戸ではいくつもの梅の名所がありますが、
亀戸の梅屋舗や蒲田(大森)の梅園は、人気の看梅スポット。


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「亀戸梅屋舗」は、亀戸天満宮から3丁(330メートルくらい)ほど東にある
「清香菴(せいきょうあん)喜右衛門」という人の庭で、
ここの「臥龍梅(がりょうばい)」と名づけられた梅の木はとても有名です。

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「枝はたれて地中にいりてまた地をはなれ、
いづれを幹ともさだめがたし」
というのですから、
まさに龍がうねうねと地に
臥している姿のようなのでしょう。
この古木は『眠狂四郎』でも
描かれていた記憶があります。





f0186852_2044249.jpgその香りは
「蘭奢香(らんじゃこう)をあざむき・・・」
ともありますから、
どれほどよい香りなのでしょう。
しかし明治になって、隅田川の大洪水のため、
この梅屋舗の梅の木は全て枯れ果て、
ぽつんと碑だけが置かれています。




下は蒲田の梅園の図。


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上の画を部分的に拡大しました。f0186852_224822100.jpg









この家の人でしょうか。
短冊など手に、何か書いているようです。



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猿回しも来たり・・・・・。



「蒲田の梅」は『江戸名所図会』にも取り上げられ、
「この地の民家は前庭後園ともことごとく梅樹をうえ、
五月の頃、その実をと採りて都下にひさぐ(売る)。
されば二月の花盛りには幽香を探り遊ぶ人少なからず」ともあります。

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広重の描いたこの梅園は、
山本忠左衛門という人が、
旅の常備薬として超有名な大森の「和中散」を、
店を3000坪の庭ごと買い取り、
それを受け継いだ弟の久三郎が、
幕末近くになって、
いよいよ見事な梅園に作り上げたのでした。
品川から1里半といいますから、
1day tripには最適だったのでしょう。

海が近いので、こんな歌を残しています。
「海士の子の袖もや匂ふ浦近き 梅かかまたの里の春風」



そういえば、東京には「青梅」という梅の名産地がありますが、
ここ3年ほどで、梅の木を1万本ほど伐採しなければならなくなったとか。
青梅も江戸時代の蒲田と同様、実を加工販売が目的で栽培しているのですが、
近年PPV(プラム・ポックス・ウィルス)に侵されて、
蔓延を防ぐには伐採しかなかったのだとか・・・。
これにやられると、実は成熟しても変形や不発育だったりで、
梅農家の被害は甚大のようです。
海外から来たウィルスで、アブラムシを媒介とし、
桃、ネクタリン、プルーン、杏、さくらんぼなどサクラ属に感染するので、
アブラムシにはご注意くださいね!















・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-03-22 23:20 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸名物の白魚

「白魚のような指」と言いますが、私自身は程遠く(笑)、
そんなたとえに用いられる「白魚」は今では遠い存在になりました。
それでも先日、神田の「藪蕎麦」で白魚蕎麦とあったので
注文したら、まだ少し先とのこと。

「白魚」は「しらうお」と読み、よく「しろうお」と混同されがちですが、
「白魚」はサケ目シラウオ科、「しろうお」は「素魚」と表記し、スズキ目ハゼ科です。
踊り食いで有名なのは「しろうお」のほうです!
水の中にあるときは透明で、あげると白くなり、成魚で10センチほど。


さて、江戸の名物のひとつがこの白魚で、
「月も朧に白魚のぉ 篝(かがり)もかすむ春の空・・・」
と歌舞伎『三人吉三』で、100両奪ったお嬢吉三がニンマリします。


白魚は汽水域にいる魚ですから、隅田川の河口や江戸湾の浅いところでとれます。
立春から始まる白魚漁ですが、弥生の頃には卵を持つので、味は落ちるようです。

家康とともに江戸にやってきた佃の漁師たちは、
白魚漁の特権をもらい、将軍家への白魚を献上します。
家康は白魚が大好きだったようで、桑名あたりから持ってきた白魚を
隅田川に放流したという説もあります。
家康の時代には白魚は「御止魚」で、庶民の口には入りませんでした。


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               佃の風景


時代が下がりますとその禁も解かれ、佃の漁師のほかにも特権をもらった漁師たちが
白魚漁をしますが、暗いうちに舟に篝火(かがりび)をたいて、魚をおびき寄せます。
そこを四手網(よつであみ)というもので、すくいとるのです。

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右手に四手網が見える。


「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」
芭蕉の桑名での句ですが、
「明ぼの」は「年の明け」と「朝の明け」に掛けていて、
早朝の漁の景色が目の前に広がるようです。
芭蕉は漁であがったばかりの白魚を、見ているのかもしれません。







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# by edo-ukiyo-doll | 2012-03-14 09:23 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

おひな祭りの白酒

西洋のカレンダーにムリに合わせてしまった桃の節句。
今年はことさら寒いおひな祭りになってしまいましたね。
おひな祭り「桃の節句」は、弥生の3日、
現代ならば、3月下旬から4月の初旬に、行われるものですが、
七夕と同じように、ちょっと無理がありますね。

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          さて、桃の花の節句に
         欠かせないのが白酒です。
          昔々にはこの日は、
           桃の花を浸した酒
          「桃花酒(とうかしゅ)」を
          飲んでいたのですが、
            江戸時代にはもっぱら
        白酒が主流となりました。

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   左の画は歌舞伎の白酒売りで、
   手に持ったうちわに「山川白酒」とあります。




桃の節句の「白酒」と言えば、
関が原の戦いのころの創業と言われ、今も続く豊島屋が有名ですね。
江戸では、このころになると、豊島屋では白酒だけを量り売りするのですが、
未明から客が集まり、あまりの混雑振りに卒倒する者まで出るため、
薬や医者を用意していたほどだったそうです。

白酒は甘酒とは異なるもので、
甘酒が余り醗酵させず、ほとんどアルコールがないのに対し、
白酒は甘くてもアルコール度は高いそうですよ。



この頃になりますと、町にはカッコいい白酒売りがやってきました。

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この作品は「白酒売り仁太」
同時期に制作した「こはだ鮨売り・亀吉」が亀〇クンなら、
こっちは赤〇クンにしようと・・・・、それで仁太(熱烈ファンの方、ゴメンナサイネ!)。
ははは、ミーハーの権化です。

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広重の画と、別の絵師の画をミックスして作っています。
この作品の桶には「山川の白酒」と書いてあります。
白酒を「山川酒」とか「山川白酒」とも呼びます。
もとは京には白酒屋が多く、なかでもある店の「山川酒」と銘打った白酒が評判を取り、
江戸でも「山川酒」というのが定着したようです。
それが歌舞伎「助六」にも、白酒売りが登場したりで、
ますますカッコよさがうけたのでしょうね。

作品では、背にお七かけ(黒い大きな衿当てのようなもの)の女の子が、
酒器を手に、白酒売りを呼び止めますと、
ひょいと、笑顔で振り向く白酒売り仁太。
きゃ~、独立してもやっぱりカッコいいわ~(って、誰のこと言ってるの!?)








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# by edo-ukiyo-doll | 2012-03-03 21:21 | 江戸歳時記 | Comments(0)

忙しい初午の日

初午といっても、現代ではあまり行事としても行わなくなってしまいました。
2月の最初の午の日で、今年の初午は2月27日(旧暦)でした。
虫が這い出してくる「啓蟄」のころなので、もうかなり暖かくなっています。
お稲荷さんのお祭りで、江戸ではそれはそれはにぎやかなお祭りです。
江戸には稲荷の数がおびただしいほどあって、
「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるほどですから、横丁曲がればお稲荷さん・・・
という感じですね。
武家の家の敷地にもお稲荷さんがあり、
この日は門が開放されています。

お稲荷さんは痘瘡(ほうそう、天然痘のこと)を治すとも言われ、
当時は特に子どもには恐ろしい疫病でしたから、お稲荷さんに子どもが詣るのですね。

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正月(1月)の末頃から、市中には太鼓を叩いて、
子ども相手の太鼓売りがやってきます。
子どもたちは太鼓を買ってもらって、叩いて遊び、
数人で狐を描いた絵馬を持って、
各家々の戸口に立ち、
「稲荷さんの御権化(おかんげ)、御十二銅おあげ・・・・」
とうたいますと、
ほんとうは12銭与えるのでしょうけれど、
実際は1銭あげたそうです。
子どもたちが勧進して歩く
・・・というところでしょう。



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王子稲荷の初午の賑わい



江戸の初午の日は、地口行灯の一大イベントの日でもあります。
「地口」とは今でいう「ダジャレ」に通じるものですが、れっきとした言葉遊びで、
江戸っ子の教養の表れでもありました。
「絵地口」といって、地口を絵にも描く、判じ物でもあります。
これに長屋の男どもも、名誉を掛けて競い合います。


この日はまた、手習いの師匠に入門する日でもあり、おとっつぁんが机を担いで、
子を連れておっしょさん(お師匠さん)のところへ行く姿も見かけます。


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京坂も江戸も、初午の日には小豆飯(赤飯)と、
からし菜の味噌和えを食べるのが慣わしだったとか・・・。
もちろん京は稲荷のご本家ですから、その賑わいはひとしおですが、
江戸のこの日の忙しさは格別です。










・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-02-29 14:39 | 江戸歳時記 | Comments(0)

浅草海苔のお話

知多半島の先にある篠島というところが好きで、何度も行きました。
夏もよし、冬もまたよし。
夏は釣りも海水浴もできますが、冬がいいというのは、ここでは海苔がすばらしくうまい。
生海苔は、この時季でなければ味わえない逸品です。
ところが最近、千葉産の生海苔が手に入るようになり、
篠島まで行かずとも、冬の生海苔が味わえるようになりました。

よく海苔の缶に「浅草海苔」と書かれていますね。
「浅草海苔」は紙状の乾燥海苔の代名詞ともいえるでしょうか。
「アサクサノリ」という種類の海苔もありますが、
総称して「アマノリ」というようです。
そして冬場が海苔の季節でもあります。

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海苔屋の店さき風景



もともと浅草には「浅草紙」といって、早くから紙漉きの技術がありましたので、
隅田川の河口で採れていた海苔を、その技術を応用して紙状に乾燥させ、
保存と運搬の効果を大いに発展させたようです。
ところが江戸の町が拡大するにつれ、
元禄の頃からは大森や品川あたり、河口ではなく、江戸湾の汽水域に海苔の養殖場を作ったのだとか。



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品川や大森あたりの海では、こうして「ヒビ」を立てて、手摘みでした。
今はロープの網に養殖し、巻き上げ機で採取しますが。
「ヒビ」というのは、海苔の養殖用の細い枝の付いた木や笹竹のことで、
これを海の中に立てて、海苔が付き、成長したところで採取します。


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海苔は長いので、これを細かく裁断し、紙を漉くようにすだれに漉いて、天日で乾燥させます。
その様子が、上の画に描かれています。

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千葉のディズニーランドに近い浦安というところの川っぺりで、
ざるそばのざるがたくさん干してある! と思ってよく見たら、
それはまさしく、海苔を干すためのすだれと、その枠だったと気づきました。
山本周五郎に「青べか物語」というのがありますが、
浦安の海苔採集の小舟を「べか舟」のお話ですね。
ここもまた海苔の養殖地だったのです。
浦安はもともとは漁師町でしたが、今も少し歩くとその面影が偲ばれます。



ちなみに2月6日は「海苔の日」だそうですよ。
それから、冬の波に身をさらしながら
漁師のオカミさんたちが採る「岩海苔」は、格別です!



















・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-02-26 16:22 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

「雪あそび」

今回の江戸浮世人形展「輝く江戸のちるど連」のために制作した作品を、
随時、ご紹介していきます。


これは「雪あそび」と題した、今回の大作です。

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子どもたちの大きさは、8センチくらい。
総勢17名と、犬2匹。


「江戸浮世人形」の展示会では、作品を展示するだけでなく、必ず、作品の説明を付けています。
ただ人形としてご覧いただくのではなく、江戸の人々の暮らしや様子を、よりわかっていただくためです。


「雪あそび」

江戸の町でも雪はよく降り、子どもたちはいっせいに雪あそびとなります。
左のほうには【雪だるま】を作る子たち。筆を持って墨で目を入れるのでしょう。
この作品では子供が作っている姿が描かれていますが、
江戸のころには、雪だるまはまさに雪で作る【達磨(だるま)】で、
雪かきなどの道具を使い、大人が作ったもののようです。
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一方、子供たちは【雪まろげ】とか【雪ころがし】と言って、
右のほうの子供たちのように、雪玉を転がして楽しんでいます。
『源氏物語』の「朝顔」に、
月明かりの中で、光源氏と紫の上が、女童らに「雪まろばし」を作らせ見ている・・・・
というシーンがあります。
「まろばし」は「転がし」の古語。
いつの時代も、子供は雪を見ると転がしたくなる・・・・・・
いえいえ、大人だって。
その極致が大人の遊び、雪だるまなのかもしれません。


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たらいに張った氷なのか二人で氷を担いで運んでいます。


















高い竹馬に乗った子や、
紐のさきに雪をからめる「雪つり」をしている二人。






雪の塊を投げ合っている子たちもいます。

雪の冷たさも忘れて大勢の裸足の子が、元気いっぱい雪を楽しんでいます。











・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-02-15 22:20 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

「輝く江戸のちるど連」終了いたしました。

「輝く江戸のちるど連」展の中間報告を・・・・・
と思っておりましたが、
連日の疲労困憊で、連日、バタンキューで無理でした。
ホームページやブログをご訪問くださった皆さま、
申し訳ございませんでした。

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会場のうおがし銘茶5Fspace「会」。
ここでの開催は3回目。
モダン和風の雰囲気が、『江戸浮世人形』にピッタリです。




24日オープニングは、雪のためのトラブルもありましたが、
会場のある「うおがし銘茶」のスタッフの方々、
またいつも助けてくれる友人たちに救われ、
何とかオープンできました。


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「雪あそび」


今回は、朝日新聞、読売新聞に告知を掲載していただいたので、
(毎日新聞もかも・・・)
新聞の切抜きを持った方が大勢ご来場くださいました。
なかには、道に迷いながらも、2日がかりでご来場くださった方も。
1日目はついにたどり着けず、再度挑戦。
2日目にご来場くださったときには、私の手を握り、
「新聞見て、どうしても来たかったんです~!!」と。
その方たちは、3時間くらいいたご様子です。


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一番人気だった「まくわうり」




そんな具合にたいそうご熱心な方々や、著作権がからむお話もいくつか持ち込まれ、
新たな展開ができました。
これまでぼ~っとしてきましたが、著作権という厄介なことも、
しっかり対策立てておかねばならぬ時期に来たようです。



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「あかんべェ」




落語の桂米福師匠や、イギリスのご本をたくさんお書きの三谷先生など、
著名な方々までご来駕くださり、
ご来場者数は少なかったのですが、中身の濃い開催でした。



『江戸浮世人形』はお手軽な値段とはいえませんので、
もっとお気軽にお買い求めいただけるように、
今回はこんなものをご用意しました。
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「福々坊」と名づけた小さなざるや箕(み)に入った人形です。
かわいいでしょ?




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「行水」たらいの手前に、
小さな「亀」の玩具。



とてもきつい条件下での2年間の「ちるど連」制作も、
楽しげにごらん下さる方々のお姿で、報われました。
撤収中においでになったお客様は、
大病院の癌病棟に展示をしていただけませんか・・・・ボランティアで・・・・
とお願いにいらしたのでした。
病と闘っている方々のお慰めになれば、うれしいです。
これからは、そんな活動もしてまいります。


また、売上げの一部は、
東北大震災の応援に充てさせていただきます。



みなさま、ほんとうにありがとうございました。




●今回の新作は『江戸浮世人形』の項目で、解説とともにゆっくりと掲載いたします。



















・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-01-30 10:49 | ご報告など | Comments(2)

個展のお知らせです。


まずは、
新年のご挨拶を申し上げます。
本年も、よろしくお願い致します。
くわえて、寒中お見舞いも申し上げます。
お風邪、召しませんようにね。


さて、
「江戸浮世人形」をこよなく楽しんでくださる方々に
謹んでお知らせ申し上げます。


第4回「江戸浮世人形」展
『輝く江戸のちるど連』
――――江戸の子供たちがい~っぱい――――


多くの方のリクエストにお応えし、江戸の子供たちのオンパレードです。
四季折々に、日々の暮らしに、子供たちの姿を描きました。

●会期/2012年1月24日(火)~1月28日(土)午前10時~午後5時
(最終日入場は午後2時40分まで。午後3時に終了します)


●会場/東京都中央区築地2-11-12
うおがし銘茶 築地新店
5階 space 「会」
℡03-3542-2336





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      「お正月」
       12センチくらいの大きさ・・・かな?



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「かよひ小町」





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「唐人あめ売り」



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         「いい子ね」
     人形の高さは8センチ。





苦節2年(半分は遊んでたかも?)、3大悲劇をものともせず、
がんばりました。
がんばっては参りましたけれど、まだ完成しておりませんで、
まだまだ制作中でございます。
とほほ・・・・。

こうやって今年は進んでゆきまする。
ああ、情けなや。



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「雪あそび」
子どもの大きさは8センチほど。






では、おご来駕をお待ちいたしておりまする~。・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2012-01-14 21:10 | いろんなお知らせ | Comments(0)

江戸も師走は大忙し

まるで何かに追いたてられるかのように、
12月の声を聞くと、気もあせりだし、
もはや、師走も半分になっちゃいました。
年の瀬を前にバタバタするのは、時間と追っかけゴッコの現代人の特徴、
と思いきや、江戸人もそうでした。

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師走、8日の「事始め」。
なんと、この日から正月の準備が始まるのです。

13日には「煤払い」といって、大掃除をします。
これは江戸城も武家屋敷でも、商家でも、勢ぞろいで煤払いをしました。
日本の神さま・・・歳神さまは清められた場所にしか下りてこないそうで、
お正月の準備も、清められた場所で行う、ということなんですね。
煤払いの後は、だれかれかまわず胴上げをし、
お酒が出て、商家ではご祝儀まで出るのだそうで、これはすごい。


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これは商家の煤掃(大掃除)の様子。



大掃除もこの頃から、「きょうは照明」「明日は硝子」
なんて、ちょっとずつやっておけば、大騒ぎすることもないのですけれどね。
あんたはやらはる? と聞かれれば「NO」。 えへへ。


江戸では14日の深川八幡を皮切りに、
「歳の市」が次々と開かれます。
中でも浅草浅草寺の歳の市は、14~24日「ガサ市」と呼んで、
お正月用品から生活用品、何でもあります。
17~19日は同じ浅草寺で、「羽子板市」が開かれます。

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浅草寺の年の市の風景。



22日には冬至となって、柚子湯にカボチャ。
そして大晦日へと突入する江戸なのでした。
この大晦日がまた、た~いへん。
ツケで買い物でしたから、この日は掛取りがきます。
「大晦日よく回るのは口ばかり」
ない袖は振れないもの、言い訳しまくりです。


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こうやって江戸の師走はやっぱり忙しかった。
師走が忙しいのは、日本の特徴のようですね。
おまけにクリスマスだってあるし。
その前に年賀状作って、書かなくっちゃ!
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# by edo-ukiyo-doll | 2011-12-15 17:34 | 江戸歳時記 | Comments(0)

越後屋の手代は京の言葉なり

「おこしやす。これはこれは、丸藤屋はんのごりょんはん、
いとはん、ようおいでくださいました」
ってな風に、客を迎えただろうと推測されるのは、
日本橋・越後屋呉服店の手代・清之助。
担当は京友禅で、小僧に言いつけてさっそくあでやかな反物を広げて見せる。
越後屋では、呉服(絹織物)の高級感を出すために、
京男を雇い入れ、江戸店に置くというもっぱらの噂だ。


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上と左の画は、越後屋の内部。
天井から下がっているのは、
手代や番頭の名前で、
各人がひとつの商品を担当し、
その商品のスペシャリストとなって、
客に対応するシステムをとったのである。
これも評判をとった




越後屋呉服店は、延宝元年(1673年)日本で初めて大々的に、
「現金掛け値なし」で商売をした大店である。
現在の三越の前身であることは、誰もが知っている通りである。
「現金掛け値なし」がなぜそんなに重要なことだったのだろう。


それまでは呉服業に限らず、大店というものは、
武家や大名相手がほとんどで、屋敷に商品を持って行き買ってもらう。
支払いは、盆と暮れの年2回。つまり「付け」である。
ってことは支払ってもらえないこともある。
「現金」とは「付け」はいっさいやりません。
全て現金で、その場でお支払いください、ということ。
現代はそれがゴク当たり前になっているが、当時は画期的なことだった。


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       上下の画はどちらも、広重によるもので、
       越後屋の広告のために作ったものだろう

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「掛け値なし」というのは、商品には全て正札がついているので、
その料金で支払ってくださいということだ。
というのも、当時はついている値段から、
交渉によって支払い価格を決めていた。
越後屋はこれをやめたのである。
開店当初は店の前にずらりと商品を並べ、
バーゲンセールのようにやったらこれが大当たりをとったという。


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初代三井高利は伊勢・松坂の出身で、14歳で兄の店で修業を始めた。
その後独立して、京で呉服屋の卸業を開始。
そしてさらに、京・大坂に呉服店を出した。
50歳のころに、息子たちと共に、江戸に進出。
これが「現金掛け値なし」の店で、もう大名相手はやめ、
町方をターゲットにした。
逆転の発想である。



地方の商人に越後屋の商品をおろし、行商をさせて全国に
「越後屋」の名を浸透させた。
突然の雨には、顧客に傘を提供した。
傘には「越後屋」のロゴが大きくはいっている。
     夕立に 振る舞い傘を 三井出し
江戸中が「越後屋」でいっぱいになったことだ。
抜け目のない商売には、いつの世も同じ発想の転換が必要。








・・・・・
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# by edo-ukiyo-doll | 2011-12-05 15:45 | 江戸ぐらし | Comments(0)

風流ですなあ、紅葉狩り。

週の後半、あいにくの雨ですが、皇居の回りも紅葉となりました。

江戸の紅葉の見頃は立冬(2011年は11月8日)より7、8日頃と、
『東都歳時記』にあります。
ですが地球温暖化のせいもありましょうか、年々時期は遅くなり、
今年は、1~2週間、あるいはそれ以上遅くなっているところもあるようです。

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現代では紅葉は眺めるだけになりましたが、
平安時代には宮中やの貴族たちが、
紅葉のもとで宴を開き、
和歌を詠み「紅葉合(もみじあわせ)」
といって、これを競う遊びが流行りました。
それが江戸時代には、
庶民にまで広がっていきます。



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江戸時代の紅葉狩りは、
桜のお花見のように大勢で繰り出すのではなく、
小人数でその下で宴を催したり、
句をひねったり、紅葉を満喫します。
紅葉狩りをするのは隠人、
医者、僧侶などで、婦女子はしない
・・・・ともいわれていますが、
浮世絵や草紙の挿絵などには、
女性や子供も多く見られます。
宴や句会などを催したのが、
医者、 隠人、僧侶など
・・・ということかもしれません。


江戸時代には、園芸の熱狂的大ブームの中、
紅葉や楓も園芸の的となりました。
8代暴れん坊将軍・吉宗の時代、
唐から献上された「トウカエデ」というのを、
伊藤何某という人物に託され、
伊藤氏は接木でみごとにふやすことができました。
吉宗将軍はいたく感心し、伊藤氏にこれを下げ渡したところ、
楓のとりこになってしまっていた彼は、
たくさんの楓の種を開発したそうです。
そんなこともあって、江戸時代には100種を超える楓があります。

でも・・・・・カエデとモミジの区別がわからないので、きかないでね~037.gif



さてさて、そりゃあ紅葉は京の都はさもありなんですが、
品川鮫洲の海晏寺(かいあんじ)や、
向嶋の秋葉大権現、下谷の正燈寺、滝の川などなど、
お江戸にもたくさんの名所があります。


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ことのほか海晏寺(上の画)は紅葉の名所として名高く
ここは曹洞宗補陀落山海晏寺というのが正式名称。 
現在は第一京浜が横を通り、かつての紅葉を愛でた面影はなくなってしまいましたが、
当時の様子はたくさんの画に残されています。



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こちらは「真間の紅葉手古那の社継はし」とタイトルの付いた
広重の「江戸百景」の画。
真間は現在の千葉県市川市のあたり。
7世紀の半ばころのお話です。
手古那という美しい乙女がおりました。
あまりの美しさに大勢の男たちが、言い寄ってきました。
そのことに思い余った手古那は、
当時海だったこの地に身を投じた・・・・・
という伝説の土地です。
江戸からかなり離れていますが、紅葉の名所として、
物悲しい伝説に心はせながら、
江戸の人々は訪れるのでしょう。


我が家の近くの銀杏並木も、「金色のちひさき鳥のかたちして」
はらはらと舞い散り始めています。
「ポプラ並木、まっ黄色だね!」
というけど、あれはポプラじゃなくて、銀杏ですからね!

雨が上がったら、紅葉を見に行きませう。





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# by edo-ukiyo-doll | 2011-12-01 10:30 | 江戸歳時記 | Comments(0)

冬の楽しみ「酉の市」

 「酉の市(とりのいち)」は、「酉の町」とも呼ばれ、
11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼です。
江戸っ子には「お酉さま」と親しまれている、とてもにぎやかな行事。
一の酉、二の酉、年によっては三の酉までありますが、
三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられています。

今年は一の酉が2日(水)、二の酉が14日(月)、三の酉が26日(土)。
江戸時代には鷲大明神といわれ、日本武尊を祀っていて開運の神さまとされています。
江戸では葛西花又村(現在の東京都足立区花畑)にある鷲大明神の氏子たちの収穫祭が、
酉の市の起源ですが、御府内(江戸市中)からは遠かったので、
次第に浅草田んぼ・吉原裏手の、新鳥越鷲神社への参詣が増えていきました。

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なので、上の広重の画のように、遊女の部屋からも、
酉の市への参詣人の往行がよく見えます。
この画の左下にはなじみの客が買ってきてくれたのか、
熊手のかんざしが数本置かれています。
中の1本におかめさんと松茸が飾りにあるのは、
吉原だというご愛嬌。

そのためこの日だけは吉原の裏門も開放され、一般の通行が許されるようになりましたので、
日ごろはめったに入れない人々も、遊女見たさに行きますし、
遊女の家族たちも、そっと会いに行くことができました。


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さて右の画では、男は熊手と八つ頭(芋の一種)を持ち、
左の女は粟餅(粟で作った餅)を下げています。

「熊手」は福や金をかき集めるために、
「八つ頭」は子だくさんとか、人の頭となるように、
「粟餅」は黄色いことからそれが黄金に通じるとされ、それぞれに縁起物のおみやげになります。
江戸では、酉の市の熊手は、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居などにかかわる業種の人々が多く買い求めます。


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『江戸浮世人形』にも、「酉の市」があります。
熊手をかつぐのは商家の小僧さん。
お仕着せの縞の着物に紺の股引き、
背中には縁起物のお土産の入った風呂敷を背負っています。
お内儀はお召納戸色の地に、菊花紋散らしの表着。
外出のため着物を帯の下にたくしこみ、帯締めで押さえています。
手に持っているのは防寒用の頭巾ですが、
人手の多さに暑くなったのか脱いでしまったのですね。


ところで、三の酉まであるときは火事が多いといわれますが、
その理由ははっきりしていません。
亭主が酉の市にかこつけて吉原に行くのを、女房が阻むために、
火事が多いから家にいなよ・・・ということが広まっていったと言う説もあります。
さもありなん。
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# by edo-ukiyo-doll | 2011-11-19 20:31 | 江戸歳時記 | Comments(0)

今夜はこたつで・・・

いつまで続くのかと思っていた暑さも、立冬となったら一気に肌寒さに変わってしまいました。
あまりにも気温の変化が激しかったり、いつまでも暑かったりで、
体調くずされていませんか?

節電もしつつ、少し冷えるこんな夜は、やっぱりこたつで丸く・・・は猫か。
こたつで、テレビ見て、みかん食べて・・・ですよね。
日本の冬、こたつの冬!


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  ところでこのこたつ、
  いつごろからあったのかと申しますと、
  室町時代には原型のようなものが登場しています。
  この時代、囲炉裏にやぐらを置き、
  布団をかぶせたのが始まりなのだとか。

さらにその以前には、囲炉裏の火が「おき」になってから、
その上に紙子(和紙でできた着物)
を敷いて、足をのせてたらしいです。
江戸時代に入って、
囲炉裏にやぐらをかけるこたつが「掘りごたつ」
または「切りごたつ」として定着しました。


一方、昔々、中国から禅宗のお坊さんが、日本に行火(あんか)をもたらしました。
それにこたつのやぐらをかけたのを、「置きごたつ」または「岡ごたつ」といいます。
これがまた変形していき、土火鉢というかわら製の火鉢を木箱に入れたものも登場します。

江戸時代にこたつが急速に発達していった陰には、木綿の普及と、
木炭や、たどんなど燃料の増産が行われたことがあります。
それまでは庶民の普段の衣類などは麻でしたが、木綿の生産が発達したので、
木綿の布団が普及し、綿の入った布団を、こたつにかけられるようになったこともあります。


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ちなみに木炭、練炭、たどんのこたつで一酸化中毒が多く、
電気こたつは画期的な発明でした。
1955年(昭和30年)頃から普及した電気ごたつですが、
最初はまるで売れませんでしたが、
あることに変えたら、爆発的に売れました。
なにをしたのでしょう? というクイズを前にテレビで見ました。


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答えはね、白かった熱源の色を、
赤に変えたからでした。
赤はあったかく感じさせるんですね。
さて、こたつにでもはいろうかな・・・?
あ、いけない、私、こたつ、持ってないのでした。
今こたつを買うと、
ご希望の方にはもれなく猫が付いてきます。
(うそです!)
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# by edo-ukiyo-doll | 2011-11-09 17:19 | 江戸ぐらし | Comments(0)

百菊見物 (百種接分菊)

先日、「トラッド・ジャパン」という日本文化を英語で説明する番組で、
「菊」をやってました。
chrysanthemum・・・・これが英語で菊。
クリサンテマム・・・・て読むのでしょうか?
番組の中で、国芳の「百種接分菊」の画も紹介されていました。


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上は、国芳の「百種接分菊」の画を基に、以前の個展『華のお江戸は花ざかり』のために作った作品です。




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実際の展示では、百菊はこのように、小屋掛けされますが、
写真では菊がよく見えるように、小屋をはずしています。




以下は、作品につけた解説文です。

江戸時代には、菊作りが盛んに行われ、
巣鴨、染井辺りの植木屋の菊園、寺島の百花園などが菊の名所でした。
文化(1804~18年)末期には、
人物(菊人形)や帆掛け舟や灯籠などの「形造り」が流行ります。
巣鴨・染井では庭に縁台までだして見物させる植木屋が、50軒以上もあり、
ここに蝟集する人々目当てに、通りには酒や料理の店、茶店が軒を連ねたといいます。

形造りとはべつに、一本の台となる菊の茎に、
他の種類の茎を接いでいく「一本造り」という手法を高めた植木屋もいます。
それまでに20~30種類の菊を接いだものはありましたが、
駒込染井の植木屋・今右衛門は、
太さ 3寸(約 9cm)の茎に、100 種類もの中輪の菊を接いで
「百種接分菊」を造り上げました。
その「百種接分菊」に集まる人びとを描いた一勇斎国芳の浮世絵をもとに、
さらに私のオリジナルを多数加えて制作したのがこの「百菊見物」というわけです。




すごい情熱ですね!
現代ではこのような菊作りは無理、と思われていましたが、
「百種接分菊」に成功した方がいるとか・・・。
現代にもすごい人がいるのですね。


私の作った百菊は、すべて異なるように一本ずつ作り、
画と同じようにそれぞれに名前をつけ、名札を下げています。
画で見えない背後の菊は、自分で推理と想像力を働かせ、
それらしい菊と名前を付けました

また「百菊見物」の人形には、
すべて名前があり、職業やどこに住んでいるかも設定しています。

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右の人は繁蔵さん。
神田相生町「平右衛門店(通称かかし長屋)」の青物売りで、だいの菊好き。
ふけて見えますが38才のひとり者。
とっても律儀でいいヤツなので、いい女性がいたら紹介してください!(笑)


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ぼけた写真でごめんなさい。
人形の大きさは手と比較してね。
この人は、船宿「川茂」の女将・お与野。深川にある客筋のいい船宿で、
きょうは染井の世話になっているお武家の屋敷に挨拶に来た途路なので、
高級な外出着を着ています。





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   このお武家は相生金吾衛門。
   御家人のご隠居ですが、
   囲碁仲間の友人が風邪で
   こられなくなって、
   一人できたから、少し寂しいのね。
   帰りに風邪っぴきの友に、
   饅頭でも買って行ってやろうかと・・・・・。




こうやってドラマが作られていくように思いませんか?

現代では菊観は廃れてしまいましたが、
小さな江戸ワールドで、江戸の人々に混じって、菊観ができますよ。












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# by edo-ukiyo-doll | 2011-10-25 10:53 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

今夜は十三夜

きょう10月9日(2011年)は、旧暦の9月13日で「十三夜」です。
毎月十三夜はありますが、旧暦では9月はもう秋の終わり。
いにしえより、ゆく秋の月を惜しむかのように十三夜を愛でていたようです。


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江戸時代後期になりますと、
十三夜を「後の月見」とか
「二夜月(ふたよづき)」などと言って、
きぬかつぎ(小さめの里芋の皮をむかないもの)、
栗などお供え物をします。

仲秋の名月を見たら、十三夜の月見もしないと
「片見月(かたみづき)」といって、
忌み嫌うようになりましたが、
この風習は吉原からはじまったとも言われています。
仲秋の名月見に来た客は、
後の月見も必ず登楼する約束をさせられるのです。
吉原の集客キャンペーンが、
庶民にも広まっていったのですね。



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とはいえ、晩秋の月を愛でる人は多く、
仲秋の名月の華やかな月見に対し、
静かにいつくしむような観月の風情があります。







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上の画は、舟で月見の一行が小名木川の「五本松」に差し掛かったところ。
川面まで松の枝がのび、ここから見る月はどんなにかうつくしいことでしょう。
丹波国の大名九鬼家の下屋敷から伸びている松ですが、
もとは5本あったそうです。



江戸の月の名所は数多く、
湯島、愛宕山、真乳山などの高いところ、
高輪、品川などの海浜、
隅田川、隅田川、不忍池といった水辺。
また玉川や武蔵野あたりへと、遠出する人もいます。


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# by edo-ukiyo-doll | 2011-10-09 06:57 | 江戸歳時記 | Comments(0)

ご長寿を願って「重陽」の節句

今年10月5日は、旧暦の9月9日にあたり、「重陽の節句」です。
残念ながら他の節句のように、現代にはあまり残っていませんが、
江戸時代、この日は千代田のお城に登城した大名諸侯は、
邪気をはらい、長寿を願って「菊酒」を賜ったそうです。
古くは中国から伝わった行事で、宮中で催されていたのが、
やがて武家にも広まったものです。

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これは、春信描く見立て菊慈童(きくじどう)。
「菊酒」の由来はこの「菊慈童」にあるようです。
菊は中国から伝来したものですが、もとは鑑賞物ではなく、
上等な薬として、邪気をはらい、血気を養い、不老長寿の効能があるとされました。

昔々、中国に魏という国のあったころ、王命により不老長寿の霊水の源を探すようにと、
探検隊が各地を経巡った。
あるとき、レッケンという山の奥に菊の咲き乱れる地があり、そこに少年がたたずんでいた。
聞けば少年は700歳になるという。
少年が言うには、周という、さらに昔々のもっと昔、
周の帝からいただいたありがたい仏の言葉を書いた菊の葉から、
滴ったしずくこそが霊水であり、それを魏の王様に差し上げる、と。
それこそが「菊水」すなわち「霊水」だと言われています。
「菊水」・・・・あの、日本酒。不老長寿のありがたい水だったのね~。
そこで、菊の花びらを酒に浸して飲む、
という風習が広まっていきました。

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なぜ、9月9日が「重陽」と言われるのでしょう?
陰陽では奇数は「陽」です。
奇数の中でも9は最高に「陽」ですね。
9月9日は、最高の「陽」が二つ重なるので「重陽」。
「重九」ともいい「長久」につながり、ことさら長寿の念が増したのでしょう。
本来はこの日、丘に上って菊酒を飲み、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)の薬玉(くすだま)を身に付けて、
邪気をはらい悪鬼を寄せ付けないようにしたのだとか。

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  広重描く、
  染井の植木屋の
  菊園風景。


江戸時代には、武家はもとより町方でも、赤飯をたき、刺身や焼き魚のご馳走をいただきます。
この日は、栗もつきもので、招かれれば栗を贈り物に持っていくことも多いようです。








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# by edo-ukiyo-doll | 2011-10-05 12:51 | 江戸歳時記 | Comments(0)

「おけさ」と「はいや」

「江戸学」の第一人者・田中優子さんはおっしゃった。
「江戸を知るためには、いったん、江戸を離れよ」
この言葉を聞いて以来、「北前船」に心とらわれている。

寛文12年〈1672年〉、幕府の命により、
河村瑞賢が航路を開拓した「北前船」は、
さまざまな物資を、北へ西へと運んだが、
物資以外の無形のものも運んで行った。
そのひとつに船乗りたちの間で歌われた「はいや」がある。

皆さん、よくご存知の「佐渡おけさ」。
   ♪佐渡へ佐渡へと草木もなびくよ~♪
というあれは大正時代の、
新民謡ブームの波に乗って作られた新しいものだ。

以前から「おけさ」が「はいや」の流れを汲むものであることは、
民謡学の第一人者であり、守門者といわれる竹内勉さんの
ラジオ番組で知っていた。
竹内さんは、わたしの尊敬して止まない方の一人だが、
彼ほどの情熱を持って探求を続行する人を知らない。
『はいや・おけさと千石船』の著書も出している。

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それはさておき、北前船の船乗りたちが、
九州の「はいや節」または「はんや節」と呼ばれる里謡を、
日本海経由で、港々に伝えていった。
それが佐渡に伝わって「おけさ」と名を変えたのは、
掛け声からの変化によるという説もある。

ではこの北前船で伝えられていった「はいや」は、
どこから来たものなのか?
九州は肥後の「牛深ハイヤ節」がそれといわれる。
この歌はもともと祝い歌だったのだが、
潮待ちや風待ち、あるいはシケ待ちの船乗りたちから、
次の港へと伝播していった。

「はいや」は7・7・7・5調の26音が中心となって、
♪ハイヤー♪または♪アイヤー♪あるいは♪ハンヤー♪
と歌いだすのが特徴だ。
「はいや」は、「越中おはら節」に、「加賀ハイヤ節」に、
そして津軽に渡って「津軽あいや節」となり、
今に伝わることとなった。


北前船の運んできたものを、
わたしたちは連綿と
後世にも伝えようとしている。









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# by edo-ukiyo-doll | 2011-09-25 19:01 | ああでもねえこうでもねえ | Comments(0)