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銀座で江戸をしのぶ partⅢ

金春通りの金春湯を少し行き、通りをひとつ越えた右手、
「やす幸」というおでん屋の路地の入口に、
「豊岩稲荷神社」と赤文字で書かれた石柱があります。

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 かつてはたくさんの不思議な
 空間・銀座の路地が
 あったのですが、
 なんだか少なくなってしまった
 ような気します。
 そんな路地の1本がここで、
 どんどん入っていくと、
 お狐さまがちょこんと
 鎮座ましまして、
 ここが豊岩稲荷。


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古地図には見えませんが、
なんでもここは明智光秀の家臣で、安田作兵衛という人が、
主家の再興を願って祀ったといわれる歴史を持つ稲荷らしい。
以前は近所の水商売の方々が、
仕事場に入る前にちょいとお参りしていたのだけれど、
パワースポット・ブームの今は、
お嬢さんたちの参詣者が、びっくりするくらい多くいました。
縁結びと火伏のお稲荷さんだとかで、
お嬢さんたち人気には、そんなわけもあるようです。


さらに金春通りを京橋方面に進むと、
「みゆき通り」に出会います。



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この通りに差し掛かったら、
街灯を見上げてください。
なんかいます。
なにかといえば「鳳凰(鳳凰)」が
止まっているのがわかります。
「ほお~」とか江戸っ子みたいな
地口は言わないように!



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御城に将軍がいた時代には、
将軍たちは数寄屋御門を出、
この通りを通って、
御浜御殿(今の浜離宮庭園)の
狩りに出向かれたし、
天皇家に取って代わられてからは、
明治天皇はこの通りを通って、
海軍の学校に行幸されたので
「みゆき通り」……
(「行幸」は「みゆき」ともいう)
と呼ばれるようになったのだとか。




さて、みゆき通りから、一気に数寄屋橋に向かいます。
有楽町はあっち。
江戸時代には、マリオンが立っている前あたり、
昭和33年に埋め立てられてなくなってしまった外堀に、
「数寄屋橋御門」が架かっていました。

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今は埋め立てた外堀の上に高速道路が通り、
ここにかつて上の浮世絵にあるような
立派な御門があり、
将軍や大名、さらには天皇家の通り道だったなど、
誰が想像できるでしょう。




数寄屋橋の高架の下に立ち、マリオンを眺めながら、
江戸のこの地を想像しようとしましたが、
私には念力が足りなかっみたいです。
浮世絵をかざし見ても、全く想像がつかないのです。


気を取り直して、銀座の方に戻ります。
江戸時代の京橋と新橋を結ぶ通りは、現在の中央通りで、
江戸時代同様にこのエリアのメインストリートでした。

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京橋側は銀座のあった新両替町でしたが、
新橋側は尾張町という大店の並ぶ繁華街でした。
おなじみ『江戸名所図会』には、
尾張町の「布袋屋」、「亀屋」、「恵比須屋」が描かれています。

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「布袋屋」


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     「亀屋」

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    「恵比須屋」


日本橋に次ぐ商人の街尾張町ですが、
明治維新後の2度の大火、特に明治5年の大火で、
新両替町ともども完全に焼失してしまい、
その後この老舗のほとんどは、
モダンな煉瓦街に戻ってくることはなかったそうです。

理由はさまざま言われていますが、
建物の価格があまりにも高価だったためとか、
あるいはまるで工場のような作りで、
店舗としてなじめなかったためとか……。


しかし、これまでに見たことのない新しい未知の街は、
山の手に住む華族や財閥、さらには中産階級の人々に大人気で、
やがて「尾張町」の名を思い出すこともなくなり、
「銀座」という新しい名前が急速に広まっていったのでした。



                               <おしまい>













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by edo-ukiyo-doll | 2016-03-29 22:44 | 江戸の町 | Comments(0)