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江戸めぐり 「銀座で江戸をしのぶ」

「銀座」という地名、GINZAと表記すればさらにオシャレな感じが漂います。
戦後は「銀ブラ」という言葉も生まれ、
銀座をぶらつくことがモダンな「粋」でもありました。
この地名はいったいどこから来たの? と思う方もいるでしょう。
「銀座」があるからには「金座」もあったはず。
その通りです。

簡単にいうと金貨を造るのが「金座」で、銀貨を造るのが「銀座」。
金座は日本橋にあって、現在は日本銀行になっています。
銀座は……といいますと、幕末の古地図には「銀座町トモ云ウ」と記されていますが、
「新両替町」というのが正式な町名で、
現在の中央通り、京橋に近い銀座1~4丁目にあたります。

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でも現在の銀座には江戸の名残はほとんどありません。
というのも、この一帯は、明治維新後に、
2度の大火がありましたが、明治5年の大火で4千戸もが焼失し、
この一帯は壊滅したといわれるほど、
焼き尽くされてしまったからです。
そのあとに作られたのが、西洋文化満載の煉瓦の街・銀座なのです。
江戸そのものは残ってはいませんが、
道路は割とそのままの構図が残り、『江戸名所図会』や浮世絵などから、
江戸時代のこのエリアを想像することができます。


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  これは幕末の地図で、
  左方向が御城になります。
  このエリアは四方を
  掘割に囲まれていたことがわかります。
  そして現在では御城に近い掘割の上に、
  高速道路ができているので、
  高速道路を辿れば、
  かつての掘割の形がわかります。

  現在の銀座は、江戸時代には
  「京橋南」と呼ばれるエリアで、
  「銀座」があったばかりではなく、
  尾張町という大店が並ぶ街や、
  能役者たちの屋敷、
  そして「紺屋町」「弓町」「鍋町」
  といった職人たちが
  入り混じっていたエリアでした。
  そしてさらには三十間堀川の向こう、
  木挽町は芝居の街でもありました。







家康が駿府から移した「銀座役所」があったところには、
「銀座発祥の地」の碑が立っています。

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碑はティファニーの店の前にあります。
その隣には「常是役所(じょうぜやくしょ)」といった、
銀貨に刻印を刻む役所があったそうです。



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中央通りをそのまま北に進むと京橋ですが、
高架の下に銀座のガス灯が再現されています。
明治5年の大火は
このエリアの4千戸を焼き尽くしてしまったので、
当時の東京府知事は、
これからの東京の、
いや日本の新しい文化の中心にしようと考えました。
イギリス人のトーマス・ウォートルスの設計で、
ジョージアン・スタイルの煉瓦のモダンな街を
作り上げたのでした。
煉瓦の街銀座の象徴とされる
ガス灯のレプリカがここに立っています。



f0186852_17311185.jpgさらに高架の下をくぐって進むと、
警察博物館の前に、
「京橋」と彫られた
大きな石の橋の親柱が立っています。
江戸時代には木製の橋でしたが、
明治になって石橋に替りましたが、
その石橋がここに記念として
残されています。







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中央通りを反対側に渡って、警察博物館との対面ほどの位置に、
「江戸歌舞伎発祥の地」の碑があります。
ここは江戸時代には中橋南地となりますが、
猿若勘三郎という役者が、
寛永元年(1624年)にこの地で、
江戸で初めて「猿若座」として歌舞伎の櫓をあげたもので、
これが中村座の始まりです。



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有名な「阿国歌舞伎図」で、阿国の後ろで踊っているのが、
猿若勘三郎(中村勘三郎)といわれているようですが、
阿国が京の四条河原で歌舞伎踊りを舞ったのが慶長8年(1603年)。
その11年後寛永元年(1624年)勘三郎はこの地にやってきて、
まだ町づくりの盛んな江戸の中心地に櫓を上げたのでした。


この記念碑の前に立っていると、
ここにあったのは、どんな小屋で、
そこではどんな演舞がおこなわれ、
観客たちはどんな風に楽しんだのか?
コンクリートに囲まれ、頭の上も車がひっきりなしに走る銀座の端で、
思いは一瞬、始まったばかりの頃の「江戸」に飛んでいるのでした。



さて、今回はここでおしまい。
続きをお楽しみに!









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by edo-ukiyo-doll | 2016-01-26 17:35 | 江戸の町 | Comments(0)

飛びます、飛びます、飛梅です。

3月半ばというのに、何という寒さでしょう。
我が家の遅咲きの梅もやっと、咲きそろいました。

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奈良時代に、中国から日本に薬として入ってきた梅ですが、
平安時代には貴族を中心に、たいそう愛でられたものでした。
平安期と梅といえば、連想するのは「飛梅(とびうめ)」のことです。
「菅公の飛梅」の話の背景には、当時の政治の場、朝廷の騒動があります。


ご存知、菅原道真は宇多天皇の御世から、若くして才気煥発なことからも、
たいそう重用され、右大臣にまでなりました。
しかし、当時朝廷を牛耳っていた藤原氏の左大臣・時平らのねたみも買い、
諫言によって、九州の大宰府へと左遷の憂き目に遭います。


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右は広重の描いた「鞠子」の宿の
とろろ飯の茶店。
梅が盛りと咲いています。




当時17歳だった醍醐天皇の妃が時平の妹であることも加勢して、
時平は道真失脚を画策します。
道真が娘の婿である斎世(いえよ)親王(醍醐天皇の弟)を、
帝にしようと謀反をたくらんでいるということになってしまいました。
昌泰4年(901年)1月25日、道真は都を追われてしまうのです。


道真は紅梅殿の梅をこよなく愛でておりましたので、別れの際に

        「東風吹かば思い起こせよ梅の花
                  主なしとて春な忘れそ」

と残しました。
そしてこの梅が主を慕って、はるか太宰府まで、飛んでいったというのです。
これが「飛梅」伝説ですが、ほんとうは道真の友人が、
藤原氏に知られないように、ひそかに梅の苗木を運んでいったらしいです。

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道真はその2年後、59歳でこの世を去りました。
でも、それから京の都では、次々と怪奇なことが起こります。
藤原氏の官職の人々が不審死を遂げたり、大怪我をしたり、
また当の時平は早死にし、東宮である保明親王も他界してしまいます。
これは道真のたたりかも知れないと、醍醐天皇は道真を右大臣になおらせ、
さらに上位を授けたのでした。



その後道真は学問の神様とあがめられ、「天満大自在天神」、
すなわち「天神さま」として、いまも多くの受験生、
またはおばちゃん(私)に、大いに頼られ、愛され続けているわけです。
そのエピソードは江戸時代に、人形浄瑠璃に歌舞伎に脚色され、
「菅原伝授手習鑑」として今も人気の演目となっています。

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「菅原伝授手習鑑」のシーン。
梅王丸、松王丸、桜丸の三つ子の兄弟に、
藤原時平が凄まじい形相で・・・。









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by edo-ukiyo-doll | 2014-03-15 09:12 | 都市伝説 | Comments(0)

『仮名手本忠臣蔵』の世界

この時期になりますと、デジタル社会の今でさえ、
「赤穂浪士の討入り」の話を必ずどこかで目に耳にします。
私たちがその顛末を知っているのは、
真山青果が書いた『元禄忠臣蔵』が基盤となっているのでしょう。
これは史実に近いもので、2世市川左團次のために書かれ、
昭和9年に歌舞伎座で初上演されました。

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一方、ご存知歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は、
史実からフィクションの世界へと、大きく跳んでいます。
江戸時代は「歌舞伎」とは言わず、一般的には「芝居」と呼んでいましたが、
常に新しいもの、人々の興味を引くものを上演しようという姿勢でしたので、
元禄15年師走の14日に起きた赤穂の浪士たちの吉良邸への討ち入りは、
当然のごとく芝居のモデルになりました。
しかしこの事件は反体制的とされ、
これももちろん幕府から禁止されてしまいます。


実際の事件から46年たって、
『仮名手本忠臣蔵』が大坂の竹本座、
これは人形浄瑠璃の小屋(劇場)ですが、
ここで初めて人形で上演され、
3ヵ月後には歌舞伎として公演されたのでした。
やっと浅野家の再興が認められてから、
堂々と舞台にも乗せられたというわけです。

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さてこの『仮名手本忠臣蔵』は、全部で11段からなりますが、
解禁されたとはいえまだ、
史実を描ける世の中ではありませんから、
『太平記』の世界を借りてきました。
『太平記』とは南北朝の混乱期を描いた、
長いなが~~~~い軍記物ですが、
江戸時代にはとってもポピュラーなお話なので、
すかさずその世界を借りて、わかりやすくエキサイティングにして、
これでもか~~~~! 
みたいに、見どころてんこもりにしたのです。


その内容とは・・・・・・・
独立を目指す足利尊氏を討つ新田義貞軍ですが、
足利軍の勝利で室町幕府が作られましたね?
元禄のお話が、室町時代までスリップします。
足利幕府のお話なのに、
なにもかもが、上演されている当時(寛延元年・1748年)の文化であり服装であり、
現代の私たちの観点からしたら、
「いくらなんでもヘンでしょ、それ!」と思いますが、
いいんです。
江戸の芝居、時代物はたんにお話や人物を「借りてきた」だけなのです。



話はこうです。
室町幕府の将軍・足利尊氏の弟君のまえで、
この兜が、新田義貞の兜か否かを確認するところから始まります。
その場に現れた顔世御前は、
塩治判官(赤穂は塩、それを統治する「判官」という役職らしい)の妻ですが、
彼女に横恋慕したのが高ノ師直。
史実で言えば、吉良上野介です。
当然、師直の恋は受け容れられず、
その腹いせに、饗応役の桃井若狭守と塩治判官をいびり出し、
桃井さんも判官さんも師直を斬ってやる! と激怒しますが、
実際に斬ってしまったのは、塩治判官でした。

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                                   高ノ師直⇒ 


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桃井若狭守







「仮名手本」で有名な「おかると勘平」は、
塩治家に使える身ですが、家中の恋はご法度ですから駆け落ちし、
やがて勘平は狩人になります(あずさ2号は忘れてね)。

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ある夜、勘平がイノシシと間違えて撃ってしまったのは一人の男。
そして、男の懐には50両。
勘平はこれをちょうだいして、
これで自分もあだ討ちに参加できると
家へ帰りますが・・・・。




勘平に撃たれてしまった男。
実はさっきおかるの父を殺して、
盗んだ50両を持っていた。
斧定九郎、実は塩治家の重臣・斧九太夫の息子



主君のために50両を調達したつもりが、
おかるの父を殺してしまったと思い込み、
勘平は切腹してしまいます。


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おかるは夫のために祇園に身売りし、これはその別れのシーン。


一方、塩治家では城も明け渡し、他の家臣たちからは、
あだ討ちを迫られる家老の大星由良之助。
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  これは有名な7段目、祇園一力の茶屋。
  由良之助は、敵討ちの心を隠し、
  祇園で放蕩三昧を続けます。
  妻からの密書を読む由良之助ですが、
  床下には敵方に寝返った九太夫、
  上の間にはおかる。
  ふたりに密書を読まれてしまいます。

  ここも話は複雑なので、えへへ・・・割愛。




f0186852_6511556.jpgまあ、話はこうして進んでいき、
10段目はこれも男の中の男、
討ち入りのための武器調達をした「天川屋義平」が、
捕り手に向かって「天川屋義平は男でござる」と名言を朗じます。


                            天川屋義平


そうやってラストの11段目はいよいよ討ち入りから、
引き上げの花水橋(両国橋のつもり)のシーンへとかわります。


『仮名手本忠臣蔵』は、「芝居の独参湯(どくじんとう)」ともいわれます。
独参湯とは、朝鮮人参を使った万病に効能ある特効薬のことで、
上演すれば必ず大当たりをとるので、こう言われています。
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by edo-ukiyo-doll | 2012-12-14 15:35 | 都市伝説 | Comments(0)

三升、見せます、團十郎

江戸のファッションをリードした歌舞伎とその役者たち。
名のある役者は衣装が自前でしたから、
評判を取るには、当然力を入れます。
そこから生まれた文様は、家紋と大きくかかわりを持っていたりします。


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 さて、市川團十郎の紋といえば「三升」。
 歌舞伎役者の紋には「定紋」と「替紋」とがあります。
 常紋はメインとなる家紋で、市川團十郎家は「三升」。
 一方、替紋はサブ的に使われますので、装飾的であったり、
 役者の好みなどが反映されています。

 團十郎の三升紋は、
 大・中・小の3つの正方形が、入れ子になったデザインです。
 この正方形が「升」または「枡」を表しているのですが、
 團十郎家がこの紋を用いたのには、
 いくつかの説があります。

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ひとつ目は、初代の團十郎が『鞘当』で、
不破伴左衛門という役をやったときに用いた衣装(右)の、
雲と稲妻文様の稲妻をアレンジした、という説。

二つ目は、こんなことです。
初代團十郎の父は武田の浪人で武家でしたが、
江戸は和泉町に住まい、「菰の重蔵」といい、
地元の有力者でもありました。
この父は唐犬十右衛門(有名な侠客です)と親交が深く、
息子が生まれたときには、十右衛門が「海老蔵」と名づけたとか。
その十右衛門が、團十郎の初演を祝って、
3個の枡が贈られたことから、という説。

そして三つ目は、初代團十郎が甲斐国出身で、
その地方では1升枡が大きく、通常の枡の3升分あって
「甲斐の大枡」ということに由来するという説です。

一番考えやすいのは、2番目の唐犬十右衛門の祝いの枡、
という説ですが、真実やいかに?


このシンプルな3つの正方形の定紋は、
時にアレンジされ、多様なデザインを生み出しました。


f0186852_7461546.jpg右は「六弥太格子」。
三升を互い違いに組み合わせたもの。
幕末に活躍した八代目団十郎が、
『一の谷武者絵土産』なかで、
岡部六弥太役で着用した裃に
この文様を遣いました。
現在もよく見かける、
とってもポピュラーな文様ですね
この画では描き方をまちがえていますが、
ご愛嬌。



f0186852_7473021.jpg「みます」はみますでも、
この襟には「三舛」と文字で
書かれています。
歌舞伎の衣装では、
襟にこのように屋号や、
紋の名前を入れているのも、
時折見かけます。



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牡丹の花の入った「蜀江つなぎ」ですが、
つなぎの四角が「三升」という、
一味違う蜀江になっていて、楽しいです。
(楽しいのは、私だけか?)
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by edo-ukiyo-doll | 2012-10-14 14:01 | 江戸の文様・江戸の色 | Comments(0)

「義経千本桜」と狐 

桜のこのころになると思い出すのが、これ。
いいですねー、なんたってタイトルがいい。
「義経千本桜」!
で、話はやっぱり、狐忠信になっちゃうんですが、
スイマセン、狐ずきなもんでして・・・。
狐つき・・・ではありません。

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  「義経千本桜」は壮大なドラマなのですが、
   狐忠信のお話はその一部分です。
   義経は院から賜った初音(はつね)の鼓を、
   形見として静(しずか)に与えます。



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そして家臣の佐藤忠信を
静の供につけてやるのですが、
このときの忠信は実は狐。
忠信の手がときどき、狐になるのね。
両方の手を軽く握って、
手首をチョイと曲げる。
これでもう狐。

この鼓こそ、
忠信狐の両親の皮から作られたものだったのです。
ですから、鼓恋しさに、
忠信は静にどこまでも付いて行きます。




f0186852_2027053.jpg  吉野山は満開の桜。
  時々ふっと消えてしまう忠信ですが、
  静が鼓を打つと、どこからともなくヒョッコリと現れる。
  これがまたすばらしく美しい舞台背景です。
  この季節にこの演目を観ると、やはり心は浮き立ちます。
  山また山は、桜のあでやかさ。
  それとも吉野山の山の精霊に魂を奪われるのか?

  追っ手を「エイ、ヤーッ!」とやっつけてしまい、
  (狐の神通力でか?)、
  静と忠信は義経が逃れているという、
  吉野のさらに山奥へと分け入っていくことになります。

f0186852_20325934.jpg                                                 
 

一番のお楽しみの、
 忠信が狐に変身して、静に初音の鼓をもらうのは「川連法眼館」の場面。
欄干の伝い走りやら宙吊りやら、
忠信を演ずる役者さんは、動きが激しくて本当に大変です。
でも、熱演に比例して観客は夢中です。

狐ながらも、子が親を慕う切ない気持ちを、
わずかな動きの中に描く人、
大きなアクションで惹き付ける人、
役者さんによって、演じ方が大きく違ってくるのも見ごたえのあるお芝居です。










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by edo-ukiyo-doll | 2011-04-17 16:44 | my favorite | Comments(0)