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「雪あそび」

今回の江戸浮世人形展「輝く江戸のちるど連」のために制作した作品を、
随時、ご紹介していきます。


これは「雪あそび」と題した、今回の大作です。

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子どもたちの大きさは、8センチくらい。
総勢17名と、犬2匹。


「江戸浮世人形」の展示会では、作品を展示するだけでなく、必ず、作品の説明を付けています。
ただ人形としてご覧いただくのではなく、江戸の人々の暮らしや様子を、よりわかっていただくためです。


「雪あそび」

江戸の町でも雪はよく降り、子どもたちはいっせいに雪あそびとなります。
左のほうには【雪だるま】を作る子たち。筆を持って墨で目を入れるのでしょう。
この作品では子供が作っている姿が描かれていますが、
江戸のころには、雪だるまはまさに雪で作る【達磨(だるま)】で、
雪かきなどの道具を使い、大人が作ったもののようです。
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一方、子供たちは【雪まろげ】とか【雪ころがし】と言って、
右のほうの子供たちのように、雪玉を転がして楽しんでいます。
『源氏物語』の「朝顔」に、
月明かりの中で、光源氏と紫の上が、女童らに「雪まろばし」を作らせ見ている・・・・
というシーンがあります。
「まろばし」は「転がし」の古語。
いつの時代も、子供は雪を見ると転がしたくなる・・・・・・
いえいえ、大人だって。
その極致が大人の遊び、雪だるまなのかもしれません。


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たらいに張った氷なのか二人で氷を担いで運んでいます。


















高い竹馬に乗った子や、
紐のさきに雪をからめる「雪つり」をしている二人。






雪の塊を投げ合っている子たちもいます。

雪の冷たさも忘れて大勢の裸足の子が、元気いっぱい雪を楽しんでいます。











・・
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by edo-ukiyo-doll | 2012-02-15 22:20 | 「江戸浮世人形」 | Comments(0)

江戸も師走は大忙し

まるで何かに追いたてられるかのように、
12月の声を聞くと、気もあせりだし、
もはや、師走も半分になっちゃいました。
年の瀬を前にバタバタするのは、時間と追っかけゴッコの現代人の特徴、
と思いきや、江戸人もそうでした。

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師走、8日の「事始め」。
なんと、この日から正月の準備が始まるのです。

13日には「煤払い」といって、大掃除をします。
これは江戸城も武家屋敷でも、商家でも、勢ぞろいで煤払いをしました。
日本の神さま・・・歳神さまは清められた場所にしか下りてこないそうで、
お正月の準備も、清められた場所で行う、ということなんですね。
煤払いの後は、だれかれかまわず胴上げをし、
お酒が出て、商家ではご祝儀まで出るのだそうで、これはすごい。


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これは商家の煤掃(大掃除)の様子。



大掃除もこの頃から、「きょうは照明」「明日は硝子」
なんて、ちょっとずつやっておけば、大騒ぎすることもないのですけれどね。
あんたはやらはる? と聞かれれば「NO」。 えへへ。


江戸では14日の深川八幡を皮切りに、
「歳の市」が次々と開かれます。
中でも浅草浅草寺の歳の市は、14~24日「ガサ市」と呼んで、
お正月用品から生活用品、何でもあります。
17~19日は同じ浅草寺で、「羽子板市」が開かれます。

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浅草寺の年の市の風景。



22日には冬至となって、柚子湯にカボチャ。
そして大晦日へと突入する江戸なのでした。
この大晦日がまた、た~いへん。
ツケで買い物でしたから、この日は掛取りがきます。
「大晦日よく回るのは口ばかり」
ない袖は振れないもの、言い訳しまくりです。


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こうやって江戸の師走はやっぱり忙しかった。
師走が忙しいのは、日本の特徴のようですね。
おまけにクリスマスだってあるし。
その前に年賀状作って、書かなくっちゃ!
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by edo-ukiyo-doll | 2011-12-15 17:34 | 江戸歳時記 | Comments(0)

冬の楽しみ「酉の市」

 「酉の市(とりのいち)」は、「酉の町」とも呼ばれ、
11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼です。
江戸っ子には「お酉さま」と親しまれている、とてもにぎやかな行事。
一の酉、二の酉、年によっては三の酉までありますが、
三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられています。

今年は一の酉が2日(水)、二の酉が14日(月)、三の酉が26日(土)。
江戸時代には鷲大明神といわれ、日本武尊を祀っていて開運の神さまとされています。
江戸では葛西花又村(現在の東京都足立区花畑)にある鷲大明神の氏子たちの収穫祭が、
酉の市の起源ですが、御府内(江戸市中)からは遠かったので、
次第に浅草田んぼ・吉原裏手の、新鳥越鷲神社への参詣が増えていきました。

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なので、上の広重の画のように、遊女の部屋からも、
酉の市への参詣人の往行がよく見えます。
この画の左下にはなじみの客が買ってきてくれたのか、
熊手のかんざしが数本置かれています。
中の1本におかめさんと松茸が飾りにあるのは、
吉原だというご愛嬌。

そのためこの日だけは吉原の裏門も開放され、一般の通行が許されるようになりましたので、
日ごろはめったに入れない人々も、遊女見たさに行きますし、
遊女の家族たちも、そっと会いに行くことができました。


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さて右の画では、男は熊手と八つ頭(芋の一種)を持ち、
左の女は粟餅(粟で作った餅)を下げています。

「熊手」は福や金をかき集めるために、
「八つ頭」は子だくさんとか、人の頭となるように、
「粟餅」は黄色いことからそれが黄金に通じるとされ、それぞれに縁起物のおみやげになります。
江戸では、酉の市の熊手は、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居などにかかわる業種の人々が多く買い求めます。


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『江戸浮世人形』にも、「酉の市」があります。
熊手をかつぐのは商家の小僧さん。
お仕着せの縞の着物に紺の股引き、
背中には縁起物のお土産の入った風呂敷を背負っています。
お内儀はお召納戸色の地に、菊花紋散らしの表着。
外出のため着物を帯の下にたくしこみ、帯締めで押さえています。
手に持っているのは防寒用の頭巾ですが、
人手の多さに暑くなったのか脱いでしまったのですね。


ところで、三の酉まであるときは火事が多いといわれますが、
その理由ははっきりしていません。
亭主が酉の市にかこつけて吉原に行くのを、女房が阻むために、
火事が多いから家にいなよ・・・ということが広まっていったと言う説もあります。
さもありなん。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-11-19 20:31 | 江戸歳時記 | Comments(0)

音のある風景「虫聴き」

台風の被害はございませんでしたでしょうか?
想像を絶するほどの被害状況に、心が痛みます。
心よりお見舞い申し上げます。


大型で長引いた台風もようやく去り、
日が傾くころから虫の音が聴こえてきます。

江戸時代には、「虫聴き」と称して、
わざわざ郊外まで出かけることがありました。
お花見と同じような感覚だったのでしょう。
今はお花見は残っていますが、虫聴きはすっかり廃れてしまいました。


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江戸時代の虫聴きの人気スポットは、第一に「道灌山」です。
『江戸名所図会』にも取り上げられています。
道灌山は現代では西日暮里駅の、
すぐ上にある西日暮里公園がそこにあたり、
確かその表示が出ています。
広重の絵でも、虫の音を聴きながら一献傾け、
月も愛でる趣向のようです。


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      左の図は「広尾の原」。
      当時はまったくの郊外で、
      古川(渋谷川)が流れる湿潤な土地でした。
      ここは蛍狩りの名所でもあったところで、
      当時はどんなにか水の音も、耳に心地よかったことでしょう。
      渋谷川は今は、渋谷駅から上流は暗渠となっています。

 

江戸時代、風景は単に見るだけでなく、
聴くものでもあったのではないかと思います。
「音」を聴く風景です。
虫の音、川や堰、滝などの水音、風が吹き草むらの揺れる音・・・、
自然の風景にも、さまざまな音を聴いて、
風景を感じていたような気がするのです。
それが日本の風景の捉え方かもしれません。

ではどうして風景を愛でることから、
その「音」の部分が欠落してしまったのか?
鳥越けい子さんとおっしゃる大学教授の方がこうおっしゃっています。
「明治以降受け入れた西洋近代の美意識が、
ビジュアル中心の世界で、音風景は弱体化していった」
残念なことです。



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一番上の『江戸名所図会』を元に、広重が虫聴きの浮世絵を描いています。


例えば夕暮れのころ、まだ月は出掛かっている時刻で、
田舎の駅のホームで列車がやってくるのを待っている。
気がつくと集く(すだく)虫の音。
耳を澄ますと、「リ~ン、リ~ン」と鈴虫。
「キリキリキリキリ」と鳴くのはコオロギ。
「チンチロリン」は、あ、あれは松虫。
列車が明りをともして、カーブを曲がって駅に近づいてきます。
虫の音が一瞬、高くなり、そして静かになったような・・・。
そんな風景が、今私の脳裏に浮かんでいます。

虫の音、聴こえませんか?
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by edo-ukiyo-doll | 2011-09-06 22:50 | 江戸歳時記 | Comments(0)

飲めや唄えの二十六夜待ち

江戸っ子に限らず、江戸時代の人々の月への信仰は篤く、
「二十六夜待ち」という、月を拝む行事もありました。
今年なら8月25日が、旧暦の7月26日にあたり、この日が二十六夜待ちとなります。
本来は、確かにこの夜の月の光の中に、
阿弥陀(あみだ)、観音、勢至(せいし)のありがたい三尊が現れ、
これを拝むとご利益がある・・・・というもので、これを「月待講」といいました。
ところが、二十六夜目にもなりますと、月の出は深夜の1時か2時ころになります。
月の出を待ちながら、次第に人々は、信仰心よりも、遊ぶほうに心が行きますね。

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広重の描いた高輪の二十六夜待の画ですが、
なんという賑わいでしょうか。
さまざまな屋台が出、花火もあがっています。

この絵の中をもっと覗いてみましょう。

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太鼓を担いだ人、三味線を持った人まではいいのですが、
タコの着ぐるみ! お姫様に伊達男!
何かのお芝居を演じるようですね。
こんな扮装の衣装を貸す店もあったようです。

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こちらは三味線の箱を持った男衆を連れた芸者。
お座敷か船の宴席に出るのでしょう。



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イカ焼きの屋台。屋号は「当り屋」なんですね。


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すしの屋台には、すでに握られた鮨が並んでいます。
右手前の丼には醤油が入っているようです。



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二八のそば屋にてんぷら屋。
てんぷらを揚げています。

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右はだんご屋、下は水菓子(くだもの)を売っています。

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こちら↓は『江戸名所図会』の「高輪海浜七月二十六夜待」です。

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こうして、江戸末期にもなりますと、二十六夜待ちは、すっかり
よっぴいて遊ぶ日、と化してしまいました。

十五夜と十三夜は、現代まで残りましたが、
残念なことにこの楽しそうな二十六夜待の風習は、
天保の改革の引き締めであえなく下降し、
明治に入りますとすっかり廃れてしまったそうです。


でもいまも、二十六夜待ちの風習が残っている土地があるとか。
山梨県には「二十六夜待山」という山があって、
かつてふもとの村人たちは、山の頂で月を待ったのだとか。
おまけにふもとには温泉があり、その名も「月待ちの湯」!
芭蕉もここを訪れており、
        「名月や 夜やさぞかし 宝池山」
と残しています。
行ってみたいな「月待ちの湯」。








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by edo-ukiyo-doll | 2011-08-24 11:12 | 江戸歳時記 | Comments(0)

涼風をあなたに。江戸のうちわ絵。

今年は団扇の製造が間に合わないほどだそうです。
節電というより省電元年の今年は、
団扇もまた大人気!
各地にその土地独特の団扇がありますが、
の現代のうちわの90%は、四国の丸亀産だそうです。
すごいですね、一手に引き受けてます!

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さて、江戸時代のうちわの産地は、京都、讃岐などとともに、
なんと江戸も入っています。
「江戸うちわ」と呼ばれ、浮世絵の木摺りの技術を取り入れて、
役者絵、美人画、風景画など粋なうちわ柄をふんだんに使い、それが夏の風物にもなっていました。
それらの「うちわ絵」はかなりな数が残っていて、
へえ、こんなのがうちわになったんだぁ、
とちょっとオドロキだったりします。


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右の「うちわ絵」は、
「夕寿ず美」というタイトルも付いた国芳作です。
夕涼みの舟遊びとしゃれ込んでいるところですね。
川風の涼しさが伝わります。



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これも国芳の画ですが、蛸と熊の角力(すもう)に、
行司は蜻蛉です!

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「雪月花」というタイトル。
絞り風の花柄に、雪の風景と帆掛け舟の帆柱に月。
これで「雪月花」ですね。



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江戸うちわは房州の女竹という、
節が長くしなやかさのあるうちわに適した竹を使っています。
江戸独特の「絵うちわ」はどこか「江戸の粋」を感じさせます。
上のように、真夏に雪の絵をもってくる・・・・、
そんなところも、江戸のひねりのきいた粋の気がします。


ところで、ちょこっとだけ団扇を使うときのお作法。
電車など人ごみで、バタバタ大きくあおぐ人を見かけますが、
周囲の方にはとっても迷惑ですね。
うるさいだけでなく、隣の方の顔やら体に当たってたりします。
混んでるところでは、あおぐ部分が顎の下辺りに体に平行するように持ち、
静かにあおぎましょうね。
それだけでも涼しいですよ。

  060.gifあおげば涼し我が家のうちわ 
       押入れ庭にもはや幾本~~~~~~~060.gif041.gif003.gif042.gif


       
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-26 09:49 | 江戸歳時記 | Comments(0)

ほ、ほ、蛍の宵

蛍をごらんになったことはありますか?
源氏蛍の時季はもうすぎて、平家蛍のころでしょうか。
私は超田舎育ちなので、家の二方は田んぼでしたから、
窓を開ければ蛍が飛んでいるのが見えたものです。
それでも夜、蛍狩りに行くのは楽しみとこわさが半分ずつ。
というのも、
「蛍と蛇を間違えないで。蛇の目は光って蛍に見えるから」
って言われたからでした。



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さて、江戸時代の蛍狩りです!
蛍狩りにはやはり少々郊外へと出かけます。
まず第一の名所は、落合の姿見の橋辺あたりといいます。
このあたりの蛍は「落合蛍」といって、ひときわ明るかったとか。
現在は「おとめ山公園」になって、蛍の保存飼育ががなされ、
夏には蛍鑑賞会が行われています。
「おとめ山」は乙女山ではなく、御留山。
将軍のお狩場があった名残です。
王子滝野川では、どこよりも早く蛍が飛びかうので、名所になっています。
他には石神井川、谷中の蛍沢、目黒あたりの田畑、墨田堤などなど。



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上の画は英泉の描く御茶ノ水の蛍。
画中に「茗渓」とありますが、
そういえばかつてお茶の水橋のそばに「茗渓堂」という本屋さんがありました。


平家蛍に源氏蛍。日本には約40種の蛍がいるそうです。
農薬や汚水、はたまた開発によって、蛍は激減してきましたが、
近年、蛍は健康な土地のバロメーター的役割をになって、
人工飼育などによって、復活されている地域も増えました。


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蛍の語源ですが、「ほ」は「火」のこと、「たる」は「垂れる」の意。
「蛍とは、この虫の身より火垂るるの意」と昔の本にあります。
清少納言は『枕草子』で、
「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ蛍飛びちがひたる、
雨など降るさへをかし」
と述べています。


今年はどこかで、蛍が見られますでしょうか?
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by edo-ukiyo-doll | 2011-07-08 22:24 | 江戸歳時記 | Comments(0)

「三笠山」はドラ焼き、じゃあ「三笠附」はなに?

ず~っと前から気になってしょうがなかったのが、
「三笠附」。「みかさづけ」と読みます。
どこで見つけたかというと、手製の『江戸幕府覚書』のなかでなんですが、
「三笠附禁止」と何度も出てくる。
最初はなんか「笠」かと思ったが、どうやら博打らしいことに気づきました。

資料もなくて調べようもなかったので、ほっといたのですが、
2、3年前、やっとわかりました。
なんと俳句でやる博打だったのです。
これが幕府から何度も何度も禁止令が出るくらい、
江戸で流行りまくったってことですよね。

俳句でどうやって博打をやるのか?
興味ありますねぇ。
江戸ミーハーの私としては、なんとしても知りたい。
すると、ありました。


事の始まりはちゃんと俳諧だったのです。
点者、つまり応募してきた中から優劣を決める宗匠ですね。
この点者となる宗匠が五、七、五の最初の5文字を出して、
次に残りの七、五を付けさせて、優秀者には賞品を出していたのです。
時代は元禄から宝永年間(1688~1710年)のことでした。
ここあたりまではまだよかったのです。
あの小林一茶も、「三笠附」から名を上げて行ったくらいです。

ところが享保期(1716~35年)までの間に、
ドンドン賭博性が高まっていきました。
宝永の末期ころから、はじめの五文字を3例提示し、
次の七、五の例を21通り出して、
どれを附けたらすぐれた句になるのかを、
当てるゲームとなっていきました。

そしてついには、文字を書かないで、単に数字を封筒に入れ、
21の数字のなかから、3つの数字を当てるという、
サイコロ博打と似たものとなってしまったのです。
1ゲーム10文くらい。3句とも当てれば、
1両(現代の10万円くらい)もらえたそうで、
流行るはずです。


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              当時の最先端ファッション!



あまりの加熱振りに、幕府がついに禁止令を出しました。
これに参加したものは、家財や蔵に相当するだけの罰金の支払いを命じたり、
博奕宿として場所を提供したものには、
身上に応じて過料(罰金)を支払わせた上に、
100日間の手鎖という刑罰を科しています。
これが武家になるともっと厳しくて、
武家屋敷にて召し仕え、博奕した者は、
なんと遠島になっています。

江戸時代には、容疑者だけでなく、
町内名主五人組なども、町方への管理不行き届き
ということからも、お白洲に呼び出されます。
連帯責任で成立していたのが、
江戸の町の治安や行政だったんですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-06-23 16:45 | 江戸ぐらし | Comments(0)

江戸のお勉強どころ「手跡指南」

5月に入り、1年生はそろそろ学校にもなじんできた頃でしょうか。
江戸時代にも、入学式ってあったのでしょうか?
まず、一般書庶民の子供たちが通うのは、
現代では「寺子屋」と上方風に言ったほうが、通りがよいのですけれど、
江戸では「手跡指南(しゅせきしなん)」とか、
「幼童筆学所(ようどうひつがくしょ)」などと掲げた私設学校みたいなところです。
普通は「手習い」などと呼んでいたようです。

先生のことは手習い師匠といい、「おっしょさん」とよばれます。
入学式はありませんで、いつでもはいれますが、たいてい2月の初午の日、
現代のカレンダーでいえば、3月中旬頃になります。


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上の画は女の子だけの手習い所。
それでもこんなにいたずらし放題!



江戸の場合は、7才ころの入門が一番多く、
初午の日には、親が天神机という机を担いで、手習い所に向かいます。
さて、手習い所は、現代の学校と全く違って、筆子(ふでこ)と呼ばれる生徒たちは、
年齢が全くバラバラ。
教室でも机は師匠のほうを向いておらず、浮世絵に見るようにバラバラ。
個別指導ですから、学ぶこともバラバラ。
主な授業は、手習いといって、師匠のお手本で書道をやる、
素読といって、声を出して本を読む・・・などです。


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年上の子が年下の子に教えたり、おもちゃで遊んだり、墨を塗りあいっこしたり、
これもまたてんでに、好き勝手やったりしています。
師匠には、町人も多いのですけれど、下級武士も多く、
武家の手跡指南では、机もきっちり並べ、
ときに机の上に水の入った茶碗を持って正座させられたり、
罰則もありました。

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子供たちはこの手習い所が大好きで(仲間と遊べる!)、
朝は友だちを迎えに行って登校します。


授業料は決まっていませんが、
入門のときに「束脩(そくしゅう)」という金銭をいくらか収め,
さまざまな行事ごとに、またいくばくか収めています。
8時頃に始まり、お昼は食べに帰り(雨の日はお弁当持ったり)、
2~3時頃には墨で真っ黒けな顔をして帰宅します。
それを見て母は噴出し、ぬか袋を持たせて、
そうそうに湯屋(銭湯)に行かせます。

なんと1850年頃の日本の就学率は70~80%。
群を抜いて世界でトップでした。
識字率が高かったからこそ、一般庶民の間でも貸し本屋が多かったですし、
俳諧の「連」や、
賭博で禁止された「三笠付け」などという、
付け句のばくちもできたわけです。
大勢の庶民が文字が読める・・・これは誇るべきことでしょ?









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by edo-ukiyo-doll | 2011-05-17 17:32 | 江戸の子どもたち | Comments(0)

世界に誇る江戸っ子の産湯

「こちとら江戸っ子よぉ、水道の水で産湯を使ってんでェ!」
という江戸っ子の「水道」は、
現代の水道を想像してはいけません、井戸の形をしています。
長屋でおカミさんたちが井戸端会議をしているあそこが、
水道の末端です。


江戸は埋立地が多いし、海辺なので、井戸を掘っても、
塩分が多くて飲み水には適していなかったとも言われていますが、
まだ掘削技術が未熟だったこともあり、
そんな土地では飲み水を確保するまで掘り下げることは、
至難の業だったのでしょう。

この川は「神田川」で、奥のほうに見えるのは、
上水道の懸樋(かけひ・・・かけいと読みます)という木製の樋(とい)です。
神田上水の水を、神田や日本橋方面に送っています。
明治時代の半ばまで使われていました。
「水道橋」の名前はここから来たのですね。


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徳川家康は天正18年(1590年)入府に際して、
水道工事にも着手しました。
ライフラインの確保です。
さらに時を経て、承応3年(じょうおう/1654年)には、
あの玉川上水が完成し、四谷大木戸まではオープンで、
そこからは石樋や木樋を使って、地中に水脈を走らせました。
多摩川から取水されて、虎ノ門、江戸城、四谷、麹町、
赤坂台地などへ給水されています。
その工事の大変さは、小説にもなっているので、
ご興味のある方は読んでみてください。

江戸の「六上水」と呼ばれたのは、
玉川上水のほかに、
神田上水(井の頭池を水源とする)、
青山上水(麻布、六本木、飯倉方面へ給水)、
三田上水(三田、芝方面へ給水)、
亀有上水(中川を水源とし、本所、深川方面へ給水)、
千川上水(本郷、浅草方面へ給水)。


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長屋の井戸は共同で使いますから、
中ほどに設置されています。
上の画に見えるのは、後架(トイレ)と芥溜め。


1800年ころには、江戸は人口120万人、
ロンドンは90万人、パリが60万人、
ニューヨークはまだ6万人しかいなかった時代、
江戸市中に張り巡らされた水道は、全長150キロです。
ロンドンですら週に3日、
1日7時間しか給水されませんでしたが、
江戸では1年中、24時間給水されていました。
だから江戸っ子はロンドンのことなど知らなくても、
「水道」が自慢だったんですね。


やがて掘削技術が発達し、掘りぬき井戸も盛んに作られるようになり、
8代将軍吉宗の時代には、六上水のうち、
青山、三田、亀有、千川の各上水道が、
突然廃止されました。
幕府直轄の水田への配水不足も一因となっていたといわれています。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-05-03 19:26 | 江戸ぐらし | Comments(0)