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江戸でキス!

「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
と、芭蕉が奥の細道への旅をスタートしたのは、ちょうど今頃。
「行く春」・・・晩春というとちょっっぴり哀愁も漂いますが、
初夏の幕開け、でもあります。




さて、おいしいもののお話。
4月と5月のはざまなら、
鯛や尼鯛もいいですし、まだ貝類もいけます。
もちろん鰹ですけれど、イカもいいしそろそろキスが、
浅場でもかかるようになりますと、
私の出番です。
こう見えても釣りします。
キスは八十八夜のころに浅瀬近くまで来て産卵までに、
たくさん餌を食べるようになり、江戸湾でもこのころは絶好調なのだとか。



江戸時代はキスをなますに仕立てたりしています。
なますと聞きますと、つい大根なますを思い起こしますが、
本来なますとは、魚介や獣の生肉を細かく切ったものを、
野菜などと和えたものをいい、刺身もこの範疇に入りますが、
なますは最初から味をつけた料理をさします。


キスは煎り酒にして、酢と栗、紫蘇を加えるとあります。
煎り酒というのは、酒に鰹節や梅干、塩、しょうゆなどを加え、
煮詰めて漉したもので、
江戸時代には刺身やなますによく使ったとか。
販売しているので、さっそく求めました。
キスにアワビと大根おろし、栗、しょうが、葉付の柚子を添える、
というのもあります。

江戸のお献立をみてますと、「栗」がやたら出てきます。
縁起のいい食べ物でもありましたが、
なんといっても保存食品ということなのでしょうね。


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キスの画がみつからないので、これはぼらとうど。
ぼらは江戸では人気の魚でした。



さて、GWの頃なら、内房でもちょっとテンダーで出ただけで、
カタがまあまあのキスがかかります。
ついでにメゴチもくるので、これはヌルヌルしてて、
さばくのはちと厄介ですが、
てんぷらにすれば、味と食感は、キスの上をいきます。


キスは開いたのを海水でサッと洗って、
数時間だけ干したのを軽く焼いて。
これはたまりません。
やはりSAKEが合いますね。
なんちゃって、飲めそうなこと言っちゃった。


知り合いの板前さんが、キスは昆布〆もうまいと教えてくださいました。
3枚におろしたら、バットに塩を振り皮を下にして並べ、身にも軽く塩を振る。
しばらくして水分を取り、昆布にはさみ10分くらい冷蔵庫に置く。
細引きにしてカラスミをおろしたのと和える。
おお、からすみ!
ちとお高いわ。
ポン酢でもおいしいですよ。
お好みで。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-04-28 21:51 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸は潮干狩りの季節


貝のおいしい季節になりました。

旧暦3月3日は、江戸では潮干狩りが始まります。
当時は「潮干(しおひ)」と呼んでいたようですが、
江戸では訛って「ひおし」になるとか。
ずっと以前勤めていた会社の某氏は「ひよしがり」と言っておりまして、
「潮干狩り」自体を知らなかった私は、「日吉がり」とは、
一体いかなるものか、思いは木下藤吉郎へと飛んでしまったのでした。


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その後、それが「潮干狩り」と言うもので、
遠浅で砂の中から貝を掘り起こすという行楽の一つと知って、
これは行きたいものだ、ぜひ、行かねば・・・
と思いつつまだ、そこへ至っておりません。
わが郷里の海は、磯なので夏に磯遊びはいたしますけれど、
砂の中から貝を掘り起こす習慣は無く、
たぶん、浅利、蛤はいないのだと思います。


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  さて、江戸。
  3月から4月、
  今のカレンダーで言えば、
  もうちょっと前から
  6月初旬にかけて、
  (今年は寒い春なので
  今くらいの気候ですね)
  潮干狩りが盛んに行われました。


江戸湾の一番奥、芝浦、高輪、品川沖、佃沖、深川洲崎(現在の木場のあたり)に、
潮干狩りの人々がどっと繰り出しました。
朝早くから船を出し、沖まで参りますと、
卯の刻(午前6時頃)から潮が引き始め、午の半刻(正午頃)には、
海底がすっかり丸出しになります。

そこで、みなワラワラと船からおり、いよいよ潮干狩りの開始です!


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江戸湾はこんな沖まで引き潮になって、
潮干狩りができました。



潮干狩りは行楽ですから、行楽に付き物のお弁当は、
「提重(さげじゅう)」といって、
重箱や酒器、取り皿も組み込まれたランチ・ボックスや、
「弁当重」などの塗りものに、
海苔巻き、ちらし寿司、煮しめに卵焼き、かまぼこ、
和え物などつめて、持って行きます。
また、これらの船には、煮炊きの用意がしてあるものもあって、
その場で調理する風景も見られます。



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ご存知「お富さん」。
「切られの与三」でおなじみ、
歌舞伎『与話情浮名横櫛
(よわなさけうきなのよこぐし)』で、
木更津に預けられた
小間物屋の若旦那・与三郎と、
地元の親分の妾・お富とが
恋に陥るのも、
潮干狩りに出た木更津の浜でした。




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潮干狩りができる浜辺も、年々少なくなっていくような気がしています。
それと今年は災害と、あの収束しない事故のせいでしょうか・・・。
あまり潮干狩りの話題も耳にしませんが、
またきっと、潮干狩りのできる日が来ることを願っています。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-04-22 20:03 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸の桜~御殿山いずこ

ずっと前から気になっていた「御殿山」。
江戸時代には江戸の3大桜の名所的存在だったのに、
今も地名としては耳にしますが、
桜のことなど全く聞かないのはなぜだろうと、すごく不思議でした。
飛鳥山も、墨田堤もちゃんと残ってるのに、です。
桜満開の御殿山の浮世絵も、た~くさんあります。

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上は広重が描いた御殿山の「夕桜」

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      こちらは北斎の御殿山の桜。



残念ながら、御殿山は無くなりました。
山とはいっても、まあ、丘くらいに思っていた方がいいでしょう。
これがイギリスだったら、「山」だと言い張るかもしれませんが、ここは日本。

御殿山というからには、「御殿」があったのです。
徳川家康が狩や接待に使うために「品川御殿」を造りました。
それ以前に、大田道灌がここに館を構えていたそうです。
そして、家康が入府したときに、江戸城改修のために、
相当量の土が削り取られました。

「品川御殿」は、元禄15年(1702年)に焼失してしまい、
その後は再建されなかったようです
寛文年間(1661~72年)、ここに数百本の桜を植えたので、
眺望に恵まれ、品川の沖のほうまでも見え、
絶好の桜の名所となったのです。


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そして時は飛んで、幕末の嘉永6年(1853年)、
外国から開国を迫られ、天下はまさに、上を下への大騒ぎ。
押し寄せる黒船への備え、防備のために、
大砲を海に向かって設置しなければなりません。
そこで、砲台を作るために一番近い山「御殿山」を削り取って、
目黒川河口に近い海に、砲台を作ったのです。
ここは「御殿山下台場」と呼ばれ、
のちには台場小学校の敷地となっています。

こうして御殿山は、消えゆきました。
ただ広重らの浮世絵が、
御殿山を想像するよすがとなるだけなのでしょう。


これは広重による御殿山と島側の宿を眺めた画。
家康のころ削られても、まだけっこうなお山。
大坂の天保山よりはうんと高い!037.gifにひひ。

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by edo-ukiyo-doll | 2011-04-06 18:55 | 江戸歳時記 | Comments(0)

桜咲くころに


被災された方々のお辛さを思い、直接手は届かないまでも、
自分にできる何かをしていきたいと思います。

被災したとある町では、自治能力の高さゆえ、
立ち直りも早く進んでいるところがあるそうです。
江戸時代の村の組織系統が、現代にまで受け継がれ、
すばらしい結果を生んでいると聞きました。

未だ復興の動きもできない土地も多くあるでしょうが、
きっと明るさは取り戻しましょう。

これからの復興の未来図には、
江戸のころになされてきた知恵にも、
役立つことがたくさんあるかもしれません。

また、Edo CoCoが、たわいのない江戸の話などで、
お心を和らげる一助となれば幸いです。
これからも、江戸のお話をつづってまいりますね。


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世情の不安と忙しさに忘れかけておりましたが、
なんと桜の季節なのです! 
そこできょうはこんなお話。


以前イギリス人に
「なぜ日本人はそんなに桜に固執するのか、夢中になるのか?」
と問われて、
「日本の桜は咲いてる期間が短い。ゆえに侍の精神、潔さと通じるところがあって好まれるのだ」
と答えようとしたが、
「潔い」という言葉が見つからない。
困った!

でも本当は、桜ははらはらすぐに散ってしまうがゆえに、
もともと武士には好まれなかったのだそう。
ちょうど、椿が好まれなかったように。
それが時代が変わるにつれ、
逆に桜は武士の精神の象徴みたいになっちゃった、
というのも興味深い。


ところで、上野公園は現代でも花見の最高のスポットと言われるが、
(なにが最高なのかは、ご想像にお任せします)
江戸期には途中から、酒宴などが禁止の花見の場所だった。

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これは広重の描いた上野のお山だが、
みなおとなしくそぞろ歩いており、お酒飲んだりしている姿はない。

山同心という役人が厳しく見張っていたので、
それでは息も詰まろうと、
暴れん坊将軍の8代吉宗が、
王子の飛鳥山にたくさんの桜を植え、
庶民が心行くまで楽しめる空間を提供した。





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上の画は飛鳥山の花見の情景。

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上の3枚つづりの画のひだり右を拡大したもの。
右の折の重なりを担いでいるのは、鮨売り。
鮨売りはこのような若衆に多かったもので、
普段は遊里で売り歩くが、正月には町でも売り歩く。




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  左は飛鳥山の桜。

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上の中央部分の拡大だが、富士山の下にたくさんの茶店が見える。
なんとのどかで、楽しそう。





ほんとに、何ゆえ私たちはかくも桜に心惹かれるのだろう?

桜にまつわる思い出を、
誰もがひとつは持っているだろう。

出逢い、別れ、恋・・・。
そしてこの春、何もかも失われてしまった人にも、きっと桜の思い出が・・・・。

人それぞれの思い出を、桜は一身に背負って,
ただひたすら美しく、
今年も咲くのでしょう。










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by edo-ukiyo-doll | 2011-04-03 17:49 | 江戸歳時記 | Comments(0)

江戸の珍商売「耳の垢取り」。イヤーエステ?

3月3日は「耳の日」だったようで、
耳なんて気にしてない・・・・・・・のも若いうち。
だんだん気になってきますよ、そのうちね(笑)。

でもって、最近、テレビで耳に止まったのは、「イヤーエステ」。
なんじゃいと思いましたらば、耳かきをしてくれるという。
人にやってもらうのは、コワイのでイヤだけれど、
訓練をつんだ耳かきエステティシャンなら、安心でしょう。
2005年に、厚生省が、耳垢の除去は医療行為にあたらず・・・
と改定したことにより、理髪店以外でもできるようになったわけですね。

誰でも行ってよろしいということで、エステ以外でも、
浴衣を着て、耳かきと全身マッサージをしてくれる
「耳かきカフェ」なるものや、
その他いろいろあるのだとか・・・・。
エステティック・サロンなどでは、
70分で、耳掃除だけでなく、耳の中の産毛そり、
綿棒で耳の中のツボマッサージなど・・・・
「耳いすと」にはたまらないかも。
70分8400円は、エステとすれば、こんなところでしょうか?
お客さんの6割は女性だそうです。

「耳いすと」・・・・勝手に命名、「耳かきしてもらうのが好きな人」の意・・・・
は、殿方に多いようです。
お母さんのひざが懐かしいのでしょうか?
なんだか、ほっこりした絵が浮かんできますね。

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さて、江戸時代にもエステではないけれど、
「耳の垢取り」という職業がありました。
かの山東京伝が『骨董集』という本に、貞享(1684~88年)ころ、
江戸の神田紺屋町三丁目に「長官」という耳垢取り屋がいたと
書いていて、それを基に歌川国貞が描いています。
上の絵は、国貞の画を写したものから、
さらに描き起したものですが、「唐人」の格好をしています。




江戸時代には、「珍商売」が多かったのですけれど、
その多くは、コスチュームに凝っています。
やっぱり、目立つことが大切だったのでしょうか。
江戸の耳垢取りは唐人スタイルが多く、
京の辻つじにいた耳垢取りは、
「紅毛人(オランダ人)」のスタイルが多かったと、
モノの本にあります。



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「桃太郎」・・・岡山でいただきました。
観光地でお土産によく耳かきを売ってますね?
コレクターも多いようです。



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       こんな形のもあります。
             

耳の日はすぎたけれど、お部屋の掃除のついでに、耳のお掃除もしましょうか。
ところが耳鼻科の医師の中には、耳掃除はしてはいけない、
そのままにしていれば自然にポロリと落ちてくる・・・・
というご意見の人がいます。
一方、耳垢がたまりすぎると、「耳垢栓塞」という症状になり、
難聴と思い込んで来院する人がけっこういるとか。
耳鼻咽喉科で待ちながら診療をみてますと、「耳垢栓塞」と診断されたらしく、
取っていただいてほっとしたお顔で帰る方、けっこう多いですよ~。

やっぱり適度に取ったほうがいいのでしょうね。
綿棒を使うと、耳垢を奥へと押し込むのでよくないとも言われます。
ご心配な方は、耳鼻科へおでかけあそばせ。






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by edo-ukiyo-doll | 2011-03-09 17:22 | 江戸ぐらし | Comments(0)

寒い日のドルチェ「お汁粉」

この前まであんなに暖かかったのに、
また急に寒くなってしまいました。
寒い夜には、これ!
「お汁粉」です。

基本的に甘いものは好きではないのですけれど、
そして基本的にお餅は好きではないのですけれど、
お汁粉がいただきたくなるときがあります。

小豆が特に女性にはいいといわれますので、
最近は小豆を良く煮ます。
小豆だけでもおいしいのですが、
ビジュアル的に、こんがり焦げ目のついた、小さなお餅が入っていたら・・・
と、お餅を小さく切って焼くことになります。

お汁粉と善哉(ぜんざい)のちがいはなにか?
よく言われますが、
東京と関西では違うようです。
でも一般的には、お汁粉は汁が主体で、
田舎汁粉は粒あんが入っており、
御前汁粉はこしあんで・・・というようです。
善哉はまるっきり粒あんの中にお餅などが浮かぶ、
またはお餅の上に粒あんを掛けるのだとか。


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  右は広重の描いた廿六夜待ちの図に
  ずらり並んだ屋台の中の「しるこ屋」。




江戸時代にできたお汁粉ですが、担いでも汁粉屋は売り歩きました。
たいていは雑煮も売っていて、あんどんには「正月屋」と書かれています。
餅を扱うからかもしれません。


また、店構えの「汁粉屋」もあり、
いまでいう「甘味処」ですけれど、
デートの場所として、個室も用意されていました。
汁粉屋からでてきた若衆髷の紅顔の美少年と、
うら若き乙女のツーショットの浮世絵をみつけたのですが、
ひゃ~! 探したけどみつかりません。
かわりに、料亭のごとき汁粉屋発見。

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『鬼平犯科帳』でも、兎忠(うさちゅう)こと、同心の木村忠吾が
好きなのは、浅草の汁粉屋「松月庵」とあります。
江戸時代には、お汁粉は、
今よりもっと身近な、人気の食べ物だったのですね。



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上は北海道のネット友だちに教わって作った「かぼちゃ汁粉」。
蒸したかぼちゃをマッシュして、粉を加えて茹で上げ、
煮あずきの中に入れます。
想像以上のうまさです!
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by edo-ukiyo-doll | 2011-03-07 15:08 | 江戸の食べ物 | Comments(0)

如月の末に立ちたる雛の市

昨日は暖かかったですね。
先週19日は、二十四節季の「雨水(うすい)」といって、
雪が雨に変わり、水もぬるんで「春が来ますよ~~~~!」と、
春のお知らせの日です。
二十四節季というのは、1年を24等分して、
四季をもっと細かく分けたようなものですね。


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そして新暦では、そろそろひな祭りが近づいています。
本来(旧暦)は、今年でしたら4月5日が桃の節句に当たりますが、
そのころでしたら桃の花も開き、桜も咲くころですから、
いかにもひな祭りにふさわしい時期です。

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   ひな祭り(桃の節句)も元は中国のお祝いでしたが、
   日本に入ってきて、平安朝の宮廷では、
   身のけがれを人形(ひとがた)に
   移して、水に流す儀式になりました。
   それは次第に、人形を飾る女の子の
   お祝いになって行きます。
   今日のような、段飾りになったのは、
   江戸時代中期ころからとか。
   詩を詠んで酒を酌む祝い事から
   時代によって形を変え、
   女の子の成長を願うお祭りになったのです。
   「雛祭り 皆ちっぽけな くだを巻き」
   うふふ、白酒で酔っ払っちゃって、かわいいのね!
   子供用の白酒は弱かった・・・・ともききます。


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このお雛様、自分で買って来るのではなく、
親類などから女の子へのプレセントとしていただくのが、しきたりです。
そして、江戸の各地にも、雛の市が立ちましたが、
なんといっても、日本橋の十軒店(じっけんだな)に立つ雛の市は、
もっとも大規模で、その賑わいは、こんな感じでした。


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ここは、現在の日本橋の三越本店から神田のほうに行った大きな通りで、
両側に雛の店があり、通りの中央にも、小屋掛けの店が立ち並びます。
この画は店の中から通りを見ているので、
中央には小屋掛けの店の屋根が見えています。
立派な武家の姿も見えますし、たくさんの人形の木箱が積まれ、
左の階段の下では、せっせと箱に釘を打つ職人。
この通りは、五月には端午の節句の人形やのぼりが、雛人形に取って代わります。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-02-27 14:27 | 江戸歳時記 | Comments(0)

平賀源内・・・・・・金唐革にかけた夢 

「金唐革」・・・ご存知でしょうか?
では、「金唐革紙」はいかがでしょう?
ふたつとも、自分で写した写真がないので、
掲載できなくてごめんなさい。
仕方ないので、ご想像くださいね。

「金唐革」とは、古くヨーロッパで発明された革の加工品で、
早い話が、革で作った超高級壁紙。
画家のボッティッチェリによって作られたといわれている。
なめし革に金属箔を張ってニスを塗り、
模様を彫った金属の型の上においてプレスすると、
模様が浮き上がる。
つまり、エンボス加工というものになる。
これに彩色をして完成。
美しい上に、湿気や光線に強く、自然劣化もしにくく、
虫にも強くて耐久性は抜群だ。
だから当時の世界の大富豪メディチ家が庇護し、
大いに発展し、イタリアルネサンス期から
フランスロココ期までの3百年を生き抜いた工芸品である。

これが日本にもはいってきたのは17世紀半ば。
何しろ数が少なく貴重なものだから、
日本では分割されて、刀の柄や武具、
煙草入れとなって、金持ちの男たちを飾った。
輸入禁止となってますます希少価値が高まるが、
でも欲しい、あのカッコいい金唐革の煙草入れ欲しー!
と当時の男どもは思ったわけだ。




そこで登場したのが平賀源内。
彼は金が欲しかった。
なんたって安永3年(1774年)に秩父鉱山での失敗で、
何とかしてその穴を埋めなければならない。
思いついたのは、当時大流行だが庶民には手の届かない、
金唐革。
安永7年、和紙を用い、浮世絵の木版の技術を応用して、
空摺りして凹凸を出し、この上に漆を塗ってみた。
結果は失敗だった。
源内さんはこれで一山当てようとしたが、
これもダメだった。

幕末近くなって、ヨーロッパの館や宮殿が、
リニューアルの時期を迎えると、
壁からはがした金唐革が大量に日本にはいってきて、
猫も杓子も金唐革となった。
皮肉なもので、金唐革を紙で作ろうとした成果が、
明治時代になって実を結び、
日本製の「金唐革紙」はウィーン万博で大当たりを取り、
ヨーロッパで大流行した。
ロンドンのバッキンガム宮殿の壁も、
日本の「金唐革紙」で覆われたという。

バッキンガム宮殿にいらしたら、
この話を思い出し、穴のあくほど「壁紙」ごらんになってね~!
見すぎて「穴」あけないようにね~(笑)







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by edo-ukiyo-doll | 2011-02-17 19:07 | ああでもねえこうでもねえ | Comments(0)

節分の豆と鬼の話

このところ毎年、節分の日のスーパーマーケットは、
「恵方巻き」なるものの山となります。
「恵方巻き」は1970年代に大阪の、海苔問屋協同組合が、
海苔販売の拡大のために、道頓堀で仕掛けた大イベントが、
マスコミに取り上げられ、
やがて全国のスーパーとコンビニを巻き込んで
全国展開し、この何年かで一気にはやりだしたもののようです。
江戸の末期に、大坂(おおざか)の船場で、
商売繁盛を祈願して始まったと言われますが、
発祥は不明のようです。
バレンタインデーとチョコレートの関係と同じですね。


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 歌川國周画「鬼ハ外福ハ内」 (幕末の浮世絵)


それはさておき、「節分」は本来は年に4回あります。
立春、立夏、立秋、立冬の前日が、すべて「節分」。
季節を分けるので「節分」といいますが、納得です。
では、なぜこの時期の節分だけが残ったのか?
旧暦(太陰太陽暦)では、一年でもっとも大切なのが、
歳神さまをお迎えするお正月。
これがちょうど立春前頃になり、大晦日に節分になったりしました。
上の浮世絵では、お正月の鏡餅などがあって、
正月と節分が、
同じときになっていることがわかります。
今年は、節分の日が元日になります。
ですから江戸では今頃、餅をつく音、正月の物売り、掛取りが走り・・・・
年末のあわただしさのさなかです。


ところで、節分で豆をまくのはなぜでしょう?
これは、日本に古くからある「散米(さんまい)」という神事と、
中国から伝来した「追儺(ついな)」または「鬼やらい」という宮中の行事が、
いつしか民間に広まって、今の形になったものです。


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 『北斎画譜』より。上に〆飾りが下がっている。
 

散米は神社で精霊のために米をまいた行事で、
これが豆に変わっていったようです。
追儺は慶雲3年(706年)に疫病がはやり、
多くの死者をだしましたので、
中国から伝わっていたこの儀式を取り入れ、
「除災招福」祈願をしたのが始まりだとか。

これには、疫病をもたらす悪鬼に扮した人を、
桃の弓と葦の矢で射たり、
鉾(ほこ、長い柄の槍みたいなもの)を持って、
大声で追い回す行事でした。
宮廷では、この行事は平安時代にはなくなってしまいましたが、
寺社が受け継いでいたようです。
そして寺社では「散米」と「追儺」の行事をたくみにミックスして、
江戸時代には節分の「豆まき」が、庶民にも浸透していました。


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「梅幸の豆まき」


ところで追儺には、桃の弓が使われていたのですけれど、中国では古くから、
桃には鬼を退治する霊力があるとされ、
『古事記』にもイザナギノミコトが、鬼に桃を投げるシーンがありますが・・・・
なにかひらめきませんか?
そうです! 「桃太郎」! 
鬼退治に行く太郎は、
なぜ桃から生まれなければいけなかったのか・・・・
なるほど、そんなわけがあったのですね。
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by edo-ukiyo-doll | 2011-02-01 22:00 | 江戸歳時記 | Comments(0)

雪だるま

もうすぐ立春とはいえ、
お寒うございます。

この冬は去年の夏の異常気象の影響で、日本海側や北の方では、
積雪がすごくなっています。
雪かき、雪下ろしにはくれぐれも十分なご注意意を。


さて、立春の前日の節分までは「寒」の時季なので、
江戸でもこのころよく雪が降ります。
今年の元日は新暦の2月3日ですが、
浮世絵に見る江戸や、各地の雪景色の多くは、
お正月前のようです。


「雪だるま」は雪が降る土地でしたら、
どこでも作るでしょうね?
もちろん、江戸時代にも雪だるまは作られました。


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      右の母と子の画では「雪だるま」が、
      左にわずか見えています。
      でも、なんだか現代の「雪だるま」とは
      形が違いません?





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子供たちがさまざまな雪遊びをしています。
左側に大きな雪だるま!
これが江戸時代の雪だるま・・・・
本当に達磨の形につくるものなのですね。



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      上の画では右のほうで
      はは~ん、こうやってつくるんだぁ、
      現代の子供たちとおんなじだね!
      と思ったら違います。
      これは雪だるまを作っているのではなく、
      「雪ころがし」といって、
      単に大きな雪だまを作る遊び。


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これも雪ころがし。



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『源氏物語』の台二十帖「朝顔」に、
月明かりの中で、光源氏と紫の上が、
女童らに「雪まろばし」を作らせ見ている・・・・
というシーンがあります。
「まろばし」は「転がし」の古語。
いつの時代も、雪を見れば子等は転がしちゃうんですね!


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雪だるまはこんなに大きくしっかり作られるのですね。
これだけのものを作るには、
道具も力も必要です。

上の画では、雪かきがあって、
手前の男は、高下駄の緒が切れちゃったんですね。
すげようと、持っていた魚を雪だるまにのっけて、
犬が狙ってますね!
お~い、おじさ~ん、
犬に盗られちゃうよ~~~~~~!


江戸の雪だるま、大人が作るものだったのですね。
でも子どもも真似して、ちゃっこいの、
作ってるのではないでしょか?
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by edo-ukiyo-doll | 2011-01-29 12:21 | 江戸歳時記 | Comments(0)