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江戸浮世人形 「初がつお」

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『目には青葉 山ほととぎす 初かつお』


初がつおの大ブームは安永・天明期(17721788年)である。

当時は魚屋よりも早く品川沖に舟を出し、
三浦・房総方面から、
かつおを満載した足の速い〈押送舟(おしょくりぶね)〉を見つけると、

1尾1両で買い求め、初がつお喰と称して見栄をはる。

1尾に5両も出す者がでる始末である。
 
 

江戸っ子は、とかく初物好きだが、
「勝魚」とも書くこの魚は、

勝負事や喧嘩好きの江戸っ子気質に、大いにもてはやされた。

それでも、文政期(18181829)頃には、

この異常なブームもおさまって、庶民にも手軽に買えるようになった。
 
 


作品中央の女は、髪を“じれった”に結い、
絞りの浴衣、眉を落とし
鉄漿(おはぐろ)をしているので、
この家の主婦か。

酒樽の前には縮みの単衣に、
半四郎鹿の子に松皮菱と菊花文様の鯨帯の娘。

左には、縞に青海波などが入った表着、花入り亀甲つなぎの帯で、

いかにも江戸の女らしく渋好みにまとめた女が、
かつおをさばく様子を見ている。
 
 
 
 
 
 
 
 













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# by edo-ukiyo-doll | 2019-07-12 16:58 | 「江戸浮世人形」

春・花の着物

ゴールデンウイークの始まりです。
10日間も休めるというのに、寒い・・・・。
せめてほっこりする春を思い(例年なら初夏の感じなのに)、
浮世絵にある春の花の着物をご紹介しますね。
アップしたいのがたくさんありすぎるので、「桜花」つまり桜の花に限定しました。

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右は歌舞伎の女形の衣装。
淡い紫地に、黄色っぽい線は水の流れを表しています。
流れに浮かぶ桜の花を、
様々な色と形で表しています。
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下はやはり歌舞伎の衣装。
舞台の衣装、特に振袖は華やかでないと。
浅葱色に白と薄紅色の桜花が、晴れ渡った空を背景にした桜木を思わせます。

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右はちょっと浮世絵っぽくないですよね?
これは江戸時代中期頃に大変人気のあった
懐月堂派といって、
すらりとした立ち姿の美人を描いた肉筆画。
白を挟んで、焦げ茶色と青のぼかしに、
「桜の丸」を大柄で乗せていますが、
すっきりと美しい。


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   左は英泉が描いた芸者ですが、
   桜を描かせれば右に出るものがない
   などといわれた英泉。
   幕末に近い時代ですから、
   芸者は縞を着ていますが、
   褄を取った時に、渋い縞の表着から
   華やかな桜の中着がこぼれるという趣向。
   なんと憎い演出でしょう。







最後は、「お染久松」のお染の衣装。
ちょっと鼠色っぽい紫地に、ところどころに白のぼかしを入れ、
線で描いた桜の花に、色を付けています。
たったこれだけなのに華やかなのは、やっぱり若さゆえ?
赤い麻の葉の鹿子の中着や、薄紅の帯などが華やかさを
引き出しています。
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楽しいGWをおすごしくださいね!












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# by edo-ukiyo-doll | 2019-04-27 18:19 | 江戸の文様・江戸の色

江戸の節分



江戸時代、節分・立春と、大晦日・元日は違っても数日。
ほとんど重なりますから、
鏡餅のお供えのの横で、節分の豆をいる、
なんてこともあるわけです。

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   上の画の左上に、お供えの鏡餅が描かれています。
  幕末の国周「鬼ハ外福ハ内」
  
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寺社では「節分会」や「追儺(おにやらい・ついな)」といって、
一大イベントを開催します。
浅草の浅草寺や、亀戸天満宮などは『江戸名所図会』にも登場します。


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              浅草「浅草寺」の節分会のようす


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 上の画を拡大しています。

  柱の上から、節分の守り札をまき、

  遠くまで行くようにでしょう、
  大きなうちわで扇いでいます!

 




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右上は江戸の亀戸天満宮の「追儺」
・・・・「おにやらい」とよみます。

(雑司が谷鬼子母神では同じ字を書いて
「ついな」とよびます
)

かがり火をたき、神楽を演奏します。

赤鬼と青鬼登場!

鬼は2本の角と4つの目を持ち、

猿の毛皮をかぶって、鹿の角の杖を突いています。

(かんなぎ)が登場し、鬼と問答をはじめるのですが、

鬼が負けちゃうのね。

巫さんは御幣の突いた杖で鬼を打ちますと、

供の者たちも次々打ちかかり、鬼たちを追い払います。




こんな節分のイベントが江戸中に繰り広げられ、

お屋敷の人も長屋の人も、 わんさか出かけて行くわけです。

「もうすぐ正月でえ、なあ、金の字!」

「だな、その割にはゆんべは雪だったな」

「なに、梅も咲いてらい。正月はあったけえさ」

な~んてなこと、言いながら、いそいそ出かけたのでしょうね。









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# by edo-ukiyo-doll | 2019-02-02 11:00 | 江戸歳時記

年の瀬の神様


あっという間に年の瀬も近くなり、大掃除も何とかしなくちゃ・・・
と思うこの時期。

わが故郷・青森県の津軽地方では、

おせち料理よりも、大晦日の「お年越し」のほうが大事な行事で、
お年越し(大晦日)の夕方4時頃には、

お膳が次々運ばれ、いつもの茶の間ではなく、

座敷にお膳を並べます。
もちろんそれまでに、おせち料理を全部お重につめ終わり、
年越し蕎麦の準備も万端にします。


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お膳を並べ終えると、
女衆(おなごしゅう)は、

ちょっといい服に着替えたりして
身なりも整え、

5時には「お年越し」大イベントが
始まるというわけです。

このときは三の膳まで整え、
これでもかとばかりに、

大皿料理までついて、座敷中、
料理だらけ状態です。


当然、一晩で食べきれるものではなく、

元旦にもこのお膳が登場し、
おせちの入ったお重が中央にすえられ、

お屠蘇や雑煮は出されますが、どこの家でも、



子どもの頃には、大晦日に神様が来るというので、
家中の戸障子をいったん開け放っていたような記憶があります。
同じ「津軽」でも、内陸部では、

「山の神様」を呼び込むために、

座敷の隅にお膳を据えたらしいです。

これは疱瘡や麻疹の神様と同様、忌むべき神様で、

ご馳走を召し上がっていただいたら、その夜のうちに、
サッサとお帰りいただくのだとか。



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日本には八百万(やおよろず)の神がいまますが、

津軽では病気にまで神様がいて、
その神様には酒とご馳走を振舞って、満足したところで、
帰してしまい、来年は来なくていいですよ!
と念を押すのでしょう。
日本全国各地には、
年越しからお正月の行事、習慣があるようで、
楽しそうですが、
画一化されて次第に薄れていくのは、とてもさみしいことです。
ガンバレ、小・中学生!


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*写真はイメージです。









# by edo-ukiyo-doll | 2018-12-20 16:09 | my favorite

「おみやげ」

房総半島では、
あちらこちらで柿がたわわに実り、
夕方など、カラスの飛び行くさまと重なれば、
まさに「行く秋」といった風情。

『江戸浮世人形』に、こんな作品がある。
タイトルは「おみやげ」



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楽しげに語り合いながら歩む母娘は、
堀ノ内妙法寺(現・東京都杉並区)へ参詣の帰り。
江戸からは、1泊の小さな旅となり、
脚ごしらえもしっかり。

江戸時代の参詣は、
日々の暮らしの中の大きな楽しみで、
参詣先のみやげ物はその土地の名産でもある。
芝神明だらだら市なら生姜、
目黒不動は目黒飴、
駒込のお富士さん・・・と枚挙に暇がない。

堀之内妙法寺は、水飴、粟もち、もち花が有名。
水飴は古代からあったそうで、
米や粟のでんぷん質に酵素を加えて作る。

作品では、娘は風車に角兵衛獅子とみみずくを持ち、
母は柿と、名物の水飴をたずさえている。


この作品は手許を離れてしまったけれど、
母と子の、また郊外の秋の、
ほのぼのとした思い出が残っている。









# by edo-ukiyo-doll | 2017-11-04 10:25 | 「江戸浮世人形」

十五夜の芋

今年は10月4日が十五夜です。
旧暦の8月15日を十五夜としていますが、いつもの年より遅いのですが、
これは旧暦で5月が2回あった(閏5月)ためです。
ただし満月は2日後になります。
外房の野山にはもうススキの穂も見ごろになり、
あとは晴れの夜空を待つばかり。

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旧暦8月の十五夜には、お神酒に団子、芋などをお供えしますが、
江戸と京都では少し違います。
江戸では三方に丸い団子、芋は衣被(きぬかつぎ)といって、
皮をむかない茹でた里芋を供えます。
一方京では、団子はしずく型(先のとんがった形)にして、
きな粉を絡めたのを12個、
皮をむき醤油で炊いた里芋も12個、団子とともに三方に盛ってお供えします。
閏年(今年も閏年)には13個になります。

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     8月15日の月は「仲秋の名月」と呼びますが、
     「芋名月」とも。
     ジャガイモだって、さつま芋だってあるじゃないか、
     なんで里芋? と思うかも。
     ジャガイモが日本で普及したのは
     幕末の飢饉の救済のためですし、
     さつま芋はそれより早く18世紀半ばでした。
     でも、里芋はなんと、稲作より早い時代に、
     すでに主食とされていたのです。


なので、江戸時代に「芋」といえば「里芋」のこと。
さつま芋の焼き芋は、江戸時代後期になってからです。



万葉集では「宇毛(うも)」と表記されています。

「蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之」

蓮葉(はちすば)は かくこそあるもの 
意吉麻呂(おきまろ)が 家なるものは 芋の葉にあらし
  『万葉集』 長意吉麿


里芋はまた神事の供物という性格も持っていて、
正月にも、餅と同じくらい重要とされる食物です。
仲秋の名月頃はちょうど里芋の収穫期で、
芋の収穫の祝いのために十五夜の行事が民間にも根付いた、
という説もあるほど。

十五夜の供物としては、皮付きのまま茹でた衣被ですが、
江戸っ子も芋の煮ころがしが大好きで、
『日々徳用倹約料理角力取組』というおかずの番付でも、
精進方の秋の部に「いもにころばし」とあります。
里芋の英語名は「taro」で、つまり東南アジアやオセアニアの島々などで、
たくさんの種類が食用とされています。f0186852_219862.jpg

             『江戸浮世人形』の「月見団子」→


山芋が山に自生する芋であるのに対し、
里で育つので里芋と呼ばれたようです。
ビタミンB1(でんぷんをエネルギーに変える働きをする)や
B2(脂肪の燃焼を助ける働き)、またたんぱく質が豊富。
粘る性質のムチンは、滋養強壮や消化の促進、
潰瘍を予防する働きもあるようで、
免疫力アップや、脳細胞を活性させるはたらきのある、     
ガラクタンを含んでいます。

山形の「芋煮」は牛肉も入り、
まさに里芋料理の極めつけですね。

里芋の皮をむくと手がかゆくなりますが、
これはシュウ酸カルシウムのためとか。
酢を少し手に取って洗えばかゆみはおさまると、
子どもの頃に教わって実行しています。
(皮膚の弱い方はやらない方がいいですよ)


冷凍里芋は便利ですが、
やっぱりかゆい思いをしても、皮をむいた里芋のうまさは格別。
今夜は里芋の「にころばし」にしましょうか。







# by edo-ukiyo-doll | 2017-10-02 21:12 | 江戸の食べ物

朝顔売りがやってくる朝


今年、我が家の朝顔は、蔓ばかりが伸びて、3日前やっと花が一輪。

熱いから梅雨の後、日照不足の今夏ですから、 朝顔も調子が出ないようです。





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さて、江戸の夏。

様々な物売りがやってくる江戸の町の早朝の物売りと言えば、朝顔売り。

4月になると朝顔、夕顔、冬瓜、とうもろこしにへちま、茄子、
唐辛子などの
苗を売りに来ますが、

6月になると、苗ではなくすでに朝顔の花が咲いている鉢を売りにきます。

苗を買い損ねた人や、育てるのがめんどくさい人が、
きれいに咲いた一鉢を買うわけです。



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   なんたって朝のうちの勝負ですから、 
   早朝から売り始め、

   昼を過ぎると花はしぼんでしまうので、
   終わりにします。
   「売り仕舞日向を戻る朝顔や」
   まだ日が昇る前に家を出て、 
             昼前まで売り歩いた朝顔売りは、

             日差しがきつくなるころには売り仕舞いになるってことですね。






現在は入谷の朝顔市が有名ですが、

江戸で朝顔が流行したのは、
下谷の御家人の内職によって大いに栽培されたからです。

皮肉なことにそのきっかけとなったのは、文化3年の大火事でした。

芝・車町から出火して,
薩摩上屋敷(現芝公園)から増上寺の五重の塔も焼失、

木挽町や数寄屋橋を焼き尽くし、

日本橋から神田、浅草まで火の手が及んだといいます。

この時御徒歩組の居住していた下谷もすっかり焼けつくし、

そこにできた空き地を利用して下級武士たちが、
朝顔づくりを始めたのでした。




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それまでに朝顔がなかったわけではありません。

万葉集にはすでに「朝貌(あさがお)」
という記述がありますが、

これは桔梗やムクゲのことといわれています。

奈良時代には「牽牛子(けんごし)」という名前の薬として、日本に入ってきました。

中国では朝顔の種を干したものを、

利尿薬などとして箱にいれてこれを牛に牽(ひ)かせ売り歩いたので、

「牽牛子」と呼ばれたのだとか。

花も愛でるようになりましたが、栽培までするようになったのは、

江戸時代になってからのようです。





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    文化年間には上に書いたように、
    下級武士の朝顔栽培からブームとなり、

    それがエスカレートして、幕末の嘉永・安政に
    第二次朝顔ブームとなります。

    さらにマニアックな「変化朝顔」が
    登場してくることになります。
                しかし、下谷の空き地も家々が再建するにつれ、

                栽培場所がなくなって、
                明治時代には下谷より、
                北の入谷へと移っていきました。



































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# by edo-ukiyo-doll | 2017-08-16 12:52 | 江戸の園芸

吉原の桜

東京はすっかりソメイヨシノも花が散り、葉桜の頃。

江戸時代はまだソメイヨシノではなかったのですが、
桜の種類もたくさんあって、花の時期が少しづつずれ、
かなりの期間楽しめたようです。
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これは江戸・吉原の桜並木。
浅草田んぼの向こうまで足を延ばしてもらうのは大変でしたが、
吉原の集客戦略は大変なもので、この桜並木もそのひとつ。
桜の頃になると植木職人が花の付いた桜を掘り起こし、
吉原の仲之町の大通りに植えるのです。

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                          桜の根もとには、山吹などを植えこみ、
                             その周りを青竹の垣で囲みます。



『新𠮷原年中行事』によると、
「二月二十五日より仲の町へ桜を植置き、三月節句花びらきといへり」
とあります。
3月3日(4日も含む)の節供は吉原の「紋日」といって、
遊女は必ずお客を呼ばなければならない一大イベントですから、
夕刻にはたくさんのぼんぼりに灯がともされ、すががきの音も賑わしく、
それはそれはまさに映画のワンシーンのようです(たぶん!)。

この時期に吉原に桜を植え置くようになったのは、
1740年代だったといわれていますから、
浅草田んぼの方に移転してから、90年くらいたって……という頃です。
桜が終わるとまた「根をこじて」移し替え、
あやめや菊などそれぞれのシーズンの花々を植えます。



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弥生の節供の後には、
ごくろうさまの意味もあったのか、
𠮷原ではそれぞれの家(遊女屋)で
「内証花見」といって、
遊女たちのなじみの客も呼んで、
内芸者までも遊ばせたそうです。
つかの間の休息もあったようです。
















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# by edo-ukiyo-doll | 2017-04-21 11:43 | 江戸歳時記

「天下祭」の山王社


江戸の「天下祭」と言われたのは、「神田明神祭」と「山王祭」でした。

神田明神は今でも神田明神ですが、では山王祭の山王社はどこにあるのか?

『江戸名所図会』をひもとくと、「日吉山王神社」というのが、正式名称のようです。

今では「日枝神社」と呼ばれています。

1月にはここに初詣としゃれこみました。



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家康の入府時(天正18年・1590)にはすでにここにあり、川越の山王社から勧請したのは、

江戸氏だとも太田道灌だともいわれています。

入府後には江戸城の紅葉山に、新たな社殿を造営し、

以来将軍家の産土神として、また江戸市民もこれを産土神として親しみを持ち、

東都第一の社として自慢でもありました。

水無月十五日の「山王祭」は「天下祭」として、

江戸城に入り将軍の前を行列しました。



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2代将軍秀忠の時に、江戸城を拡張するために、
半蔵門の外に移したのですが、

明暦の大火によって現在の地、赤坂の溜池の上、星ヶ岡に移されました。

「日枝神社」となったのは明治以降で、もともと「日吉大社」が大もとで、

「日吉神社」「日枝神社」「山王神社」と別れたものだとか。



東京大空襲の時に焼失し、現在あるのは1958年に建てられたもの。



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    日吉山王神社の遣い「神猿(まさる)」

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日枝神社の裏に、こんな素敵な料理茶屋がありました。
「山の茶屋」。
まるで江戸にいるような雰囲気です。

ながく赤坂に通っていたのに、全く知らずに過ごしていました。
鰻もおいしいそうで、一度行ってみたいです。






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そして、明治になると日吉山王神社(日枝神社)の氏子エリアには、

牧場がたくさんできた……え? 牧場? 驚きました。

というのも、徳川幕府の崩壊によって、武家は解体し、

藩士たちはみな国元へ帰ってしまったので、

藩邸は空き家となり物騒になってしまったのでした。

そこで政府はそれらの土地を払い下げ、
もと武家だった人や政府関係者、

元藩主の貴族などが、牧場を始めたのだそうです。

牛を飼って搾乳し、九段でバターを作った牧場あります。

明治14年には東京に、100軒もの牧場があったそうです。

大混乱の明治の初期、これもまたたいそう興味深いことを、
赤坂の日吉山王神社(日枝神社)に詣でて、しみじみ感じたのでした。






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# by edo-ukiyo-doll | 2017-03-10 18:00 | 江戸の町

大網茶話会が終わって

1月末の第18回「江戸茶話会」は、
房総半島の大網で開催されました。
28,29日の週末、JR大網駅から徒歩6分のアート・エディター・スペースの
一角をお借りしました。

f0186852_10285101.jpg日曜日はギャラリー側がダブルブッキングというトラブルもありましたが、
何とか乗り切り、楽しんでいただけたようです。

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             まだ個展には登場していない「ひな祭り」



今回は「江戸の子どもたち」の実態を覗いていただきました。
どんな遊びをしていたか、
学びの場はあったのか、
子どもがかかわる行事は、
どんな服装をしていたのか、
ヘアスタイルはみんな同じ?
など『江戸浮世人形』を参考に、
想像力も働かせていただきます。

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          これが噂の「白酒売り仁太」



幕末から明治にかけて日本にやって来た欧米人たちは、
西洋と異なり、日本の子どもたちが大変に優遇され、
大切にされていることに驚きました。
子どもは神様からの授かりもの、いえ、預かりもの、
という考え方が欧米の子どもへの対応の違いを作っています。

そんなことも納得していただいた茶話会でした。



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鳥居の向こうにはキツネの像を持った子供たち「三囲稲荷の初午」










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# by edo-ukiyo-doll | 2017-02-15 11:01 | ご報告など

第18回「江戸茶話会」のお知らせ。

第18回「江戸茶話会」

「かがやく江戸の子どもたち」

江戸の子どもたちは、どんな暮らしをしていたのか?
学校はなかったの?
勉強はしなかった?
どんな遊びをしていたの?
ひな祭りや子どもの日なんて、行事は?
どんな服装をしていたの?
などなど、時代劇などからでは判然としない
江戸の子どもたちの実態を、
『江戸浮世人形』の作者・岩下深雪が、
作品をご覧いただきながら、わかりやすく語ります。
学校の授業や講義とは、
二味くらいは違う江戸文化真っ只中にいざないます。

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●1月28,29日(土、日)
●13:00~15:30 

1,500円(お茶と和菓子付)
●定員10

会場 Art Editor Space  千葉県大網白里市大網33-8
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東京駅からは、特急「わかしお」で44分、

快速(総武線と京葉線利用)で70分位で大網です。


春間近の外房を楽しみながら、
江戸の子どもたちと遊んでみましょう。








●お問合せ・お申込みはこの画面のこのページの「コメント」でお願いいたします。
    その際、必ずメールアドレス、ご連絡電話番号をご記入ください。
    お申込のコメントは公開しませんので、個人情報は公開されません。

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# by edo-ukiyo-doll | 2017-01-12 18:52 | いろんなお知らせ

「四十七」にかけた「仮名手本忠臣蔵」

きょうは12月14日。
赤穂の浪士たちが、
本所松坂町の吉良邸に討ち入った日です。

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      四段目「塩谷判官切腹の段」、五段目「二つ玉の段」、六段目「身売りの段」 3代豊国画

松の廊下での傷害事件が起きたのは、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)。
その日のうちに、浅野内匠頭は一方的に処罰され、
刃を抜かなかったとして、吉良上野介にはお咎めなし。
そして・・・・・・・
赤穂浪士47名は、翌年元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)、
吉良邸に討ち入ります。
この間、たった1年と3ヶ月。
なのに、討ち入りに加わった者、加わらなかった者、志半ばで脱落した者、
史実とされるものだけでも膨大なエピソードがあります。
さらにそこに、さまざまなフィクションが、次々とくわえられ、
その膨大な人間模様が、今も人々を惹きつけています。


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 実際の討ち入りの翌年には、 曽我兄弟の討ち入りに話を移して、
 上演されたといわれますが、
 たった3日目で、上演は禁止されているようです。
 しかし後には、近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃
 『碁盤太平記』は、大当たりをとりました。
 以降、この話の人気は続き、寛延元年(1748年)には、
 『仮名手本忠臣蔵』が、まず人形浄瑠璃として、
 すぐに歌舞伎としても上演されました。
 今や泉岳寺の四十七士の墓に参る外国人たちも多く、
           多くはその「ロイヤリティ(忠誠心)」に
           心打たれるのだそうです。
 

↑七段目。今は廓の女となったおかると、
縁の下で密書を盗み読みする斧九太夫 清長画
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ところで、人形浄瑠璃や歌舞伎では
『仮名手本忠臣蔵』というタイトルですね。
あたまにくっついてる「仮名手本」ってなに?
と思いませんか?
これは「赤穂の四十七士」を、「いろはにほへと・・・・」が
四十七文字あることにかけているわけで、
しかも子供たちが手習い(京坂では「寺子屋」と言います)へ行くと
文字の練習するときに使うのがお師匠さんの「手本」。
今でも、よく「お手本にしたい」などと言いますね。
「仮名手本忠臣蔵」は、子供にもわかるような、
お手本とすべきお話だったわけですね。

                          右も七段目、密書を読む大星由良之助と
                                上は鏡を持つおかる、縁の下には斧九太夫 
                                             礒田湖龍斎画


                 









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# by edo-ukiyo-doll | 2016-12-14 21:39 | 江戸歳時記

岡山茶話会を開催いたしました。

11月19,20日は、3回目の岡山茶話会でした。
倉敷の常連さんからのお声がかかり、
その方のお邸での開催でした。

前回もそのお邸ででしたが、
今回は敷地内にある大きな蔵をリノベーションした
素敵なスペースを使わせていただきました。

土曜日は午後と夜の2回の講演。
日曜日は午後の講演の、3回でしたが、
50人ほど参加されました。
作品をお買い求めになりたい方もいらっしゃるというので、
お手頃な作品もたくさんご用意し、
おかげで見ごたえがあったと言っていただけました。

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テーマは「江戸の暮れ・江戸の初春」。
師走の意味に始まり、
⒔日の煤掃きと「忠臣蔵」の関係。
鳶の餅つきと長屋の餅代の話。
江戸時代、除夜の鐘や、現代のような初詣はなかったこと。

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元日は節分かも、とか、
江戸の庶民は寝て過ごす元旦などなど、
意外なことにもご興味持っていただけました。

そして「今うかがった江戸のことは、少し前までやってましたよ」、
と私より年上の方々がおっしゃってました。
餅つきや七草の事など、
倉敷にはちゃんとそういうしきたりが受け継がれていたのでした。
以前、田中裕子先生がおっしゃっていた
「江戸を知るには、江戸を離れよ」
というのはこんなことも含まれているのだなあと、
しみじみ思った茶話会でした。

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茶話会の写真撮り損ねたので、倉敷美観地区の秋です!




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倉敷のみなさま、本当にありがとうございました。




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# by edo-ukiyo-doll | 2016-12-10 12:36 | ご報告など

第17回江戸茶話会  in岡山第3回

「江戸茶話会」も17回を迎えます。

岡山の常連さんから、
今年も茶話会をやってくださいと
お声がかかり、やっと実現にこぎつけました。
人形教室を間に挟んで、
茶話会の準備に1か月以上もかかり、
新作もなんとか少し持って行けそうです。
あ、撮影を忘れた!

まあ、そんな調子で、
そそっかしいというか、粗忽者というのでしょう。
日々おかしなことにはまりすぎ、
無駄な時間を費やしてばかり。


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今回も個人のおうち(とはいえ邸宅)
での開催なので、
公募は出来ませんが、
この週末2日で3回の茶話会。
2日で3回の語りはきついですが、
お声をかけていただいたのですから、
頑張らねば。


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今回のテーマは「江戸の暮れ・江戸の初春」。
このお話3度目くらいですが、
毎回レジュメを新たに作ります。
作品を展示するだけではなく、
販売もするのでこの準備も大変。

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さて、明日は岡山に着き、それから設営。
懐かしいお顔に会えるのも楽しみです。



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# by edo-ukiyo-doll | 2016-11-17 18:14 | いろんなお知らせ

♪踊れ、踊れ、盆踊り♪


月遅れのお盆には、あちらこちらで盆踊りの太鼓や音楽が聞こえてきます。
房総半島に引っ越したころ、どこからか盆踊りの音が聴こえてきて、
辿って行ったらすごく遠いとこで、歩いていった我が家では、
帰りが大変だったことを思い出します。

東京にお住まいの方も、各地にお住まいの方も、
盆踊りは懐かしい夏休みの思い出でしょう。
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盆踊りというものの起源は古いです。
しかも純粋に日本発祥の物のようです。
平安時代に空也上人が、民衆に念仏を広めようと、
自ら瓢箪をたたいて、
念仏を今の歌のようにメロディーに乗せて歌うがごとくに唱え、
踊りも付け、
「踊念仏」というものに仕立てたのだとか。

さらに時代が下って鎌倉時代には、
一遍上人を中心とする「踊る」僧、尼僧たちは、
いわばトランス状態にもなり、まさに「踊る宗教」!
これは「念仏踊り」といわれましたが、
またたく間に全国に広がって、
一大ブームを巻き起こしました。
踊り&唱えることによって、救済されるとなれば、
民心は激しく共鳴しないはずがありません。

どうやらこれが、盆踊りの起源のようです。


やがてこれが盂蘭盆会の行事と結びつき、
死者の魂の帰ってくる盆中に、
死者の姿を映して頬被りをして踊る、
という風習が残っている地域もあります。

今も秋田県の西馬音内(にしもない)では、
踊り手の中には黒頭巾をかぶって踊る姿があり、
折り笠を深くかぶった女性の踊り手と相まって、
それはそれは優雅で風雅な盆踊りです。


さて、江戸時代の盆踊り浮世絵。
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  「うちわ絵」らしいのですが、
  とっても楽しそうな盆踊り。
  西瓜を両手に、
  食べ終わった西瓜の皮をかぶった人。
  閼伽桶(あかおけ/墓参りの水桶)を
  かぶった稚児さん。
                  坊さんみたいな人は蓮の葉っぱをかぶり、
                  隣のおいちゃんは
                  器用に頭に盆灯籠を載せてます。


室町時代には、太鼓をたたいて踊るようになりますが、
江戸時代に入ると、民衆の経済力や独自性が強くなったことや、
次第に宗教性よりも娯楽性が強くなったことなどから、
音楽や衣装も凝ったもの、斬新なものが人気を呼び、
それが各地で独自に発展していきました。

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  また、もともと日本的信仰のおおもとでもあった
  性の解放的な雰囲気と結びつき、
  男女の出会いの空間ともなります。
  左のような「源氏絵」にも描かれたのを見ると、
  実におおらかな、
  なんと楽しい空間だったことでしょう。
























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# by edo-ukiyo-doll | 2016-08-15 16:49 | 江戸歳時記

隅田川の屋形船 part2

隅田川の花火大会、絶好の花火日和で、
素晴らしかったですね。
ジェリーフィッシュというのが、今年の流行でしょうか。
広重さんにも、ちょいとご覧いただきたかった。


屋形船の続きです。

屋形船には台所がついているので、食材を積み込んで調理をして提供できます。
「吸ひ物を出すで屋根船そのけぶさ」
現代の屋形船でも中には、調理設備のある船もありますが、
江戸時代には裸火ですから、風向きによっては煙いのでしょう。
後には別料金で、調理専門の小舟を雇うこともできたようです。
これなら風向きに合わせて煙い思いをしないですみますね。


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わざわざ調理しなくても、
隅田川の夏のシーズンには、うろうろ舟という小舟がいます。
これは西瓜や梨など水菓子(果物)をはじめ、
餅やまんじゅう、その他の菓子、またちょっとした料理したものを積んで、
船々の間を塗って売りに来るもので、
大坂なら「くらわんか舟」と呼ばれるのと同じ。

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   ←赤い置き行燈をつけた「うろうろ舟」。




「吉野から猿に西瓜を投げてやり」
という川柳は、屋形船の「吉野丸」の近くを、猿回しの舟が通ったのでしょう。
その猿に西瓜を投げてやったというわけ。
                        
           


屋形船の内部を見ますと、これは何? と思うようなものもあります。


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  これも「川一丸」ですが、
   舳先にこんなものが載っています。





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これは「台の物」と呼ばれる
大きなな塗り台に載せた料理です。
吉原の宴席によくみられる装飾的なもので、
もとは皆でつまんで食べるように
盛ったものでしたが、
時代が進むにつれて、
このように立花も添えて
さらに装飾的になったようです。
涼み船での宴会でもやはり、
台の物は宴席の象徴なのでしょう。f0186852_10484276.jpg


                         これは別の船の「台の物」→
                                   時代が少し後なので、
                              盛り方もちょっと違っています。



そして船の中では、太鼓や鼓、三味線など携えて、
舞踊の用意もしているようです。
こうやって楽しんでいたのですね。
宴会に音楽、暗くなれば花火が上がって、
なるほど、現代の屋形船はカラオケになりますが、
この江戸の形態をそのまま受け継いでいるのですね。

花火を見上げながら川風に吹かれ、歌に踊りに、
大宴会を催す大型の「楼船(やかたぶね)」は文化文政期には20艘ほどあったそうです。


現代の私はといえば、テレビで隅田川花火大会を見ながら、
川面を埋め尽くすほどの舟、船……、どんなに賑やかだったことかと、
江戸に思いを馳せたのでした。













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# by edo-ukiyo-doll | 2016-08-01 10:24 | 江戸歳時記

隅田川の屋形船 part1

明日は隅田川の花火大会。
毎年、テレビで中継されるので、もっぱら家でいながらにして花火を楽しんでいます。

この隅田川の花火大会は、戦争や隅田川の汚染など中断されましたが、
江戸時代、8代将軍吉宗の時から連綿と続くものです。
2009年7月に、このブログでご紹介しているので、のぞいていただければ幸いです。
http://edococo.exblog.jp/11550670
旧暦だった江戸時代には、
5月28日(今年なら7月2日にあたる)に「川開き」といって、
隅田川で花火を打ち上げたり、
両国橋のたもとの様々なお楽しみ所も、夜遅くまで営業できるシーズン。

川開きからは、夜ごと花火が打ち上げられ、
両国橋の畔はさまざまな小屋掛けの興行や飲食店などが深夜まで営業し、
隅田川には大小の「涼み船」がひしめきあって、凄まじいほどの賑わいです。



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  小型の舟でも屋根の
  付いているのもあって、
  「屋根舟」とか「日除け舟」と呼ばれ、
  一番多く使われます。
  屋根に人が乗った大きな船は「屋形船」。



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屋根の上に人が乗っているのが見えますね?
この人々は操船の人たちで、
大型の船では屋根の上から長い竿をさして、
船を動かしているのがわかります。
そこでこんな一句もあります。
「船頭の足音を聞くいい涼み」


この屋形船というのは「楼船」とも書きますが、
7~8間(12~15メートルくらい)の大きさが多く、
最大では11間(約20メートル)の物があったといわれています。
現代の隅田川の屋形船はだいだい16メートルくらいなので、大きさは想像できますね。


江戸時代に入ってすぐの頃には、まだ「ひらだ舟」と呼ばれる小さな平底舟を、
浅草川に浮かべて涼んでいたようですが、
これがたいそう大名たちの心を惹いたようです。
大名ともなると大勢の供の者がいますので、
どんどん大型化していきます。

ところが明暦の大火(1657年)で、江戸の町の半分も焼き尽くされ、
再建のために大型の船は運搬用に使われ、
しばらくは遊船も影を潜めていました。
それが、何年か経ち江戸の町も復興されると、
大名たちはまたぞろ大型船を復活させ、
それまでよりもぐんと大型になっていき、
ついには大きさに規制が出されました。  
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  左は鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)
  描くところの屋形船「兵庫丸」。







船には名前が付けられ、浮世絵にもたくさん描かれています。
「川一丸」「吉野丸」などが有名ですが、
「熊一丸」や「山一丸」などもあり、
座敷が9間(約16メートル)あり台所が1間(1,8メートル)あるので、
「九間一」……「くまいち」丸。
じゃあ「山一丸」は? 
座敷が8間、台所1間で「八間一」……「やまいち」丸!
こんなとこにも江戸っ子のダジャレ心が効いているんですね。


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             広重の描いた「川一丸」→











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# by edo-ukiyo-doll | 2016-07-29 14:16 | 江戸歳時記

夏ごはんは「夕鯵」

鯵は年間を通して出回る魚ですが、
夏に一番おいしいのだと、
漁師さんや魚市場の人たち、釣り人たちもよく言います。
漁村育ちの私も、やっぱりそう思います。

そして江戸でももちろん、夏を中心によく獲れ、この時期の鯵は、
「六、七寸ばかりに過ぎずして円肥なるもの、味わい、はなはだ香美にして、
最も炙食によし、あるひは鮓となし、煮となし、膾となすも、また佳なり。」
と、元禄期の『本朝食鑑』という書物にも書かれています。
20㎝くらいの丸々したものは、すこぶるおいしく、
焼き魚にしたら最高だし、鮓にしても、煮ても、あるいは野菜と和えてもうまい、
というほどの意味。

江戸ではことに「夕鯵」と呼んで、
夏の晩ごはんには人気の一品になります。
日中に近海で漁をして、河岸からすぐに小売りの魚屋が担いできますから、
夕方には町々に「あじぃ、あじ」という呼び声で、
今夜は鯵の刺身で一杯! など思う人も多かったのでしょう。

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  ←広重画 海老と鯵









「鯵を呼べやいと盥(たらい)の中で言ひ」
だなんて、亭主が裏庭で行水していると、
塀の向こうから鯵売りの声が聞こえたのでしょう、
「鯵、買えよ~」と盥の中から叫んでいます。

「水うったあとに涼しきあぢ(鯵)の声」
魚屋は日が傾きかけ、打ち水された路地にも入ってくるのでしょう。
扇風機だってない江戸の人々にとって、
打ち水の上をふいてくる心地よい風、行水でさっぱりして、
さて、夕鯵の晩餉(晩飯)はこれぞ夏! 

ピン! と反り返った新鮮な夕鯵のうまさは、庶民だけの物ではありませんで、
「物見から鯵よ廻れの品のよさ」
武家屋敷の物見やぐらからでしょうか、下を通る魚屋に声がかかります。
「廻れ」というのは勝手口、台所に廻れということ。
お武家ですからその呼び止める口調にも品の良さがあるのですね。
ドラマのワンシーンみたいです。

さて、今夜は房州沖の鯵を買いましょうか。
たたきや刺身もいいのですが、子どもの頃に良く作ってもらった「鯵のあんかけ」が懐かしい。
粉をまぶして油で焼いた鯵に、千切りの人参、玉ねぎ、ピーマン、筍など、
夏野菜をあん仕立てにして、お酢もきかせ、
焼いた鯵にたっぷりとかけていただきます。

では、みなさまも今夜は「夕鯵」、たんと召し上げれ。









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# by edo-ukiyo-doll | 2016-07-16 07:09 | 江戸歳時記

長屋の初鰹

食えば七十五日長生きできると、
江戸っ子は初物に情熱を傾けますが、
さて、初物の代表格の「鰹」。
文化文政(1804~1830年)の頃には「5両してもかまわない」とまで言われ、
(このころの1両は今なら10万円くらいなので、1尾50万円でも欲しい!?)
あまりのフィーバーぶりに、幕府から禁令が出て、いっとき止んでも、
将軍よりも誰よりも早く鰹を口にする意気込みはすさまじい。


江戸時代には、そんな初鰹狂乱期が
3度ほどありましたが、
金持ちのみならず、
鰹の出初めには「女房を質に入れても」などと、
長屋住まいのような男どもさえ、
目の色を変えます。



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その熱狂ぶりはどれほどかと言いますと。
「初鰹妻に聞かせる値ではなし」
とてもじゃないけれど、女房の耳に入ったら恐ろしいことになる値段ですし、
詰め寄られてその値を洩らそうものなら、
「初鰹女房に小一年言われ」
と当時の川柳にありますが、そんなこと当たり前。
「その値では袷があたらしく出来る」
というほどなんですから。
でも亭主がバカバカしいこの「初鰹」に支払ったお金があれば……、
と思うほどに腹が立って、腹が立って仕方ない女房です。
「意地づくで女房鰹をなめもせず」
と絶対に食べない。食べるどころか舐めもしない。
そんな女房はまだやさしいもので、
「女房の我意をあらはす煮た鰹」
あ“~~~~~、刺身でなければ意味のない初鰹を、
煮てしまったのは女房の断固たる意思表示です。

f0186852_13311418.jpg  一般に青魚は足が早く、
  特に鰹は「鰹の生き腐れ」といって、
  鮮度の落ちるのが早い。
  冷蔵手段などない時代、
  時間が立てば手の届く値段になり、
  昼頃には朝値の半額くらいだったようで、
  長屋の男どもにも財布の負担は軽くなります。







ところが青魚は当たると怖い。
嘔吐や頭痛などに苦しんで、医者にかかる羽目になります。
「恥ずかしや医者に鰹の値が知れる」
見栄を張って命を落とす気か! とこってり医者に叱られることに。
こんな風に鰹に当たって具合悪くなるのを「鰹酔い」というそうで、
特に頭痛がひどくなるらしいです。
「鉢巻きにあやまつて居る鰹売」
というのは鰹酔いで頭痛になって鉢巻きしてるわけ。
また、薬といっても桜の皮を舐める程度しかないらしく、
「あす来たらぶてと桜の皮をなめ」
ってなもんで、長屋の男ども、亭主族は、鰹売りを手ぐすね引いて待ってます。


桜の皮は本来は「桜皮(おうひ)」という漢方薬。
桜の皮の外側の固い部分を除去した内側の部分で、
「フラボノイド・サクラニン」という成分が含まれていて、
解毒、鎮咳、じんましん、食中毒での頭痛などに効果があるようです。
桜皮は本来は煎じて飲むのでしょうが、もしかして上の川柳は、
床の中でぷりぷり怒りながら、
「いてて…」とうめきつつ、桜の皮をベロベロ舐めてる、
男の姿を思い浮かべて、吹き出しそうになります。


鰹やサバなどの青魚はたとえ現代でも、冷蔵庫の過信は禁物。
桜の皮舐めても、難しいかも006.gif
お医者さんへ駆けつけましょう。











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# by edo-ukiyo-doll | 2016-06-01 13:47 | 江戸の食べ物

いずれあやめかかきつばた

どれもが美しく、甲乙つけがたい、という時に
「いずれあやめかかきつばた」
なんて言います。
「いずれがあやめかきつばた」
という場合もありますが、少し意味が違ってくるようです。

このあやめとかきつばた、違いがなかなか判りませんね。
あやめは乾いたところに育ち、花の芯の方が白くさらに黄色が入って、
その部分に濃い紫色の網目のような筋が入っています。

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   ←これは我が家の庭のあやめ。


一方かきつばたは水辺や湿地帯に育ち、花の芯のところは白いだけで筋は入りません。




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有名な尾形光琳の「燕子花図屏風」。花の芯は確認されませんが、燕子花はかきつばたと読ませています


「菖蒲」と書けば「しょうぶ」ですが、「あやめ」とも読みます。
端午の節句にお風呂に入れる「しょうぶ」と「あやめ」は、
葉の形がそっくりですが全くの別物。
かきつばたは「杜若」や「燕子花」と書きますが、これらは漢名からとったもの。
しかし両方ともかきつばたとは異なった植物なので、誤ってネーミングしたのが現代でも使われているのでしょう。


さて、江戸時代には園芸が一気に花開き、それがあらゆる分野に広まって、
豊かな文化を作ることにもなりました。
あやめやかきつばたもまた、着物の文様にたくさん使われました。

江戸時代にはすでに植物としての「あやめ」と「かきつばた」の違いは
わかっていたのですが、
一般的にはその呼び名はあいまいだったようです。
ただ、水とともに描かれればそれは「かきつばた」です。

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  左の着物の文様が上の「水」と「かきつばた」


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 左の若衆髷の少年が着ている
 振袖の文様も「水」と共にあるので
 「かきつばた」





上の二つは水辺に咲いているので、かきつばたですね。
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上はあやめなのか、かきつばたなのかわかりませんが、
「あやめ立涌(たてわく)」または「かきつばた立涌」という図柄。

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  ぼかし染めに麻の葉文様、
  そこにあやめ(またはかきつばた)を
  散らした振袖。







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  左の画は背景に「菖蒲」と書かれていますが、
  「あやめ」と読ませるのでしょう。

 



江戸時代の役者(歌舞伎の役者)に、
芳澤あやめというとても人気のあった上方の女形がいましたし、
「杜若(とじゃく)」という俳号を持っていたのは、
岩井半四郎で、特に五代目は「杜若半四郎」とまで呼ばれ、
その人気ぶりは多くの浮世絵に描かれています。

















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# by edo-ukiyo-doll | 2016-05-11 17:15 | 江戸の文様・江戸の色

「江戸浮世人形」人形師・岩下深雪の江戸はここにあり       ホームページ開設 http://edoukiyoningyo.edo-jidai.com


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