江戸では銭湯は「湯屋」、これを「ゆうや」と呼んでいます。
基本的に年中無休です。
ただ火災の発生を防ぐために、
冬の強風の日には「烈風仕舞い」と称して、
早仕舞いしました。
朝七つから夕七つまで営業すると
『守貞漫稿』にもありますが、
大体現代の時間にして、早朝4~5時から夕方4~5時
と考えられます。
上の画はお正月の
湯屋の様子を描いたもの。
番台の前には、三方におひねりが積まれています。
番台の向こうに見える階段は、2階の広間に上がるもので、
2階は男性専用のくつろぎスペース。
右下に見えるのは、縁起物の貝のひしゃくで、
お客はこれをもらって帰ります。
江戸には800軒ほどの湯屋があります。
長い間、男女混浴が当然の風潮にありましたので、
幕府は寛政年(1791年)1月25日に、
「男女混浴禁止男女異日浴制」を発しました。
しかし、一向に守られなかったらしく、業を煮やした幕府は
寛政6年(1794年)には、「男女混浴湯屋処罰」をしています。
さて、銭湯の始まりは蒸し風呂でした。
上の右の絵のように、
「石榴口(ざくろぐち)」と呼ばれる浴場は、
蒸し風呂の名残で、
湯の温度を保つ効果を持たせています。
燃料となる薪も高価で、水の入手も難儀したこの時代には、
できるだけ少量の湯を、いかに大切に使うかが課題でした。
洗い場と浴槽の間の鴨居を、3尺(99cm)ほど下げ、
その奥に浴槽を置いてありますから、
かがんではいっていくことになります。
当時は「かがみいる」と言いましたが、
鏡を磨くのは石榴から作られる「酢」ですから、シャレて「石榴口」
と呼んだのだと言われます。
この石榴口、形は東大寺を模した、唐破風のような屋根で、
やたら豪華に作られています。
ところがこの中は薄暗く、ずいぶん湯は汚れていたとか。
物の本には死体が浮かんでいたとか、
恐ろしいことが起きていたことをほのめかしていますが、
ことの真偽はよくわかりません。
それにしても江戸っ子は湯好きで、きれい好き。
「垢抜ける」と言う言葉は、そこから生まれたくらいです。