え~、北斎です。
はい、かの有名な葛飾北斎。
あまりにも、有名なので、ちょっとだけ「へえ」を書きます。
90年も長生きをしてしまった北斎ですが、
その生活ぶりは、まさに「変人」と呼ぶにふさわしかったようです。
生涯で90余回引っ越したとか、1日に3回引っ越したこともあったとか、いろいろ。
江戸東京博物館には、北斎の画室を再現したものがあります。
北斎83歳のときのだそうで、生涯北斎の世話を続けた三女のお栄の姿もあります。
彼女も絵師で葛飾応為(おうい)という名前で、父の絵を描いたばかりでなく、
自分の名前でも描いていて、北斎とはまた違った味わいがあります。
左右ともに応為の画
北斎は9月の半ばから、半年間はこたつで暮らしていたといいます。
絵を描くのも食事も、もちろん睡眠もこたつでした。
同居していたお栄も、部屋の乱れには全く無頓着で、
食べ物を包んでいた竹の皮なども散在し、
ゴミで身動き取れなくなると引っ越した・・・
などという話もあります。
←近年発見された自画像
あれだけの仕事量をこなしながら、なぜ北斎は常に貧しかったのか?
版元などから、画料が届けられます。
当時は紙包みにして、渡しますが、北斎は金の包みを受け取ると、
ぽ~んとそこらへんに放っておきます。
味噌だ醤油だ米だと、掛取りが来ますと、さっきいただいた画料を、
開封もせず、そのまま与えてしまうのです。
受け取った商人は、店に帰って包みを開けるととんでもない金額が入っていたりしても、
だまってちょうだいしていましたし、足りないときには催促していたようです。
ですから商人にとっては、この上ない上得意。
お栄と二人、ゴミの中に起居して、ひたすら絵を描き続けたのでした。
姿かたちはやせ衰えはしたが、絵への気力はますます満ち満ちて、青年の如し、
とモノの本にはあります。
←晩年の作
『北斎漫画』より→
江戸人はこんな 意味不明の行為の中に、
おかしみを見出す天才!
2年前、小布施に行って、念願の屋台の絵と、小布施の岩松院の「八方睨み鳳凰図」を見ました。
北斎の晩年の絵です。
お栄が手伝ったものらしいですが、その迫力たるや、
晩年に、どれだけの精神エネルギーを燃やしたか・・・・。
その年で「画狂老人」と自らを称した北斎なのです。
北斎のそんな暮らしや晩年を知ると、辞世の句、
「人魂で行く気散じや夏野原」
たまらなく、いいなぁと、思うのであります。