鮎の解禁日は、早いとこなら5月中旬。
生まれ育った村から、5村くらい南下したところに、
追良瀬川という鮎のいい川があって、
子どもの頃、親しくしていた別の一家とよく行った。
広い川原で父たちが川に入って竿を振るのを見ていた。
何をしているのか良くわからなかったが、
しばらくすると魚がかかって、大人たちは忙しくなる。
私はただじっと、川の音を聴いている。
やがて大人たちは、
拾った木切れで焚付けた火の中に石を入れ、
しばらくすると
火の中から石を取り出し、
その上に獲れた鮎を置く。
それから味噌をつけ又少し焼いた。
みその焦げるいい匂いが、川原に漂う。
なんとステキなピクニックだったろう。
さて、江戸時代。
相模川の鮎は幕府への献上品だったので、
明治時代に至るまで、厚木から江戸の青山までの青山街道を、
鮎を担いだ人々が歌を歌いながら走って行った。
多摩川の鮎は平安時代から、歌にも詠まれ、
江戸時代になると、「御春屋(おつきや)」といって、
江戸城内で使われる食材や燃料などを管理する場所に、収められた。
これを「御菜鮎」と特別に呼んだ。
ちなみに「御春屋」があったあたりは、現在の毎日新聞社本社のある場所だそうな。
鮎は初夏か秋の落ち鮎。
海に帰った稚魚は、春に5~6センチになって、
再び遡上し、コケを食べて育つ。
夏に上流にいた鮎は、秋には下流に下り産卵する。
これを落ち鮎という。
鮎の一生は1年。だから「年魚」とかいて「あゆ」と読ませる。
夏は焼き鮎に、たで酢を添える。
たでの葉をきれいに洗い、当たり鉢で当たったら、
中鉢に移し替えて、
そこへ酢を注ぎ別の空の器に又移す。
かき混ぜてはいけない。
これを繰り返すと味良いたで酢ができる。
右の画は豊国の『東都高名会席盡』より。
コマ絵のなかに鮎があり、「中勝(なかかつ)」と書いてある。
「中勝」は鮎料理で有名な甲州街道の新宿の料亭。
「義経千本桜」の三段目で、鮓屋が登場するが、
ここの鮓は鮎の生馴れ鮨。
塩漬けにした鮎と飯を交互に鮨桶に入れて、
重石をすること1ヶ月。
東北や北海道では、これをホッケや鮭、ハタハタなどで作る。
「飯ずし」と言われるものだ。
発酵食品なので、癖が強い。
だが気に入るとクセになる。